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決して読みやすい本ではない。
でも副題にる「日本語」と「個人主義」について非常に腑に落ちる解説をしている。
日本人のもつ特性が見事に表現されていて
「みんなが言うから」「私はいいんだけど」と 都合よく自己を消し去ってゆく人々に 恐ろしさを感じてしまう。
ちょうど同時期に読んだ重松清氏の「きみの友だち」とも 妙に符合して
イジメの背景にある社会性や
みんなから外れることを極端に怖がる人たちのことが
実感させられる。
後半では日本における数少ない「一人称を生きる人」の言葉が紹介される。茨木のり子さんの詩も紹介される。
これを読み、日本に生まれても志をもち生きることで「0人称」から脱却することはできると感じた。
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日本人が自分というものを確立させがたい社会をつくり、そこに生きていることを、日本語の主語のなさや世間・みんなとの同質を基本としたコミュニケーション、察しと聴き手責任など、言葉から明らかにする。
個人として立ち、そうしたコミュニティに違和感を感じること、しかしまともに対立するのではなく、同調しないこと。
個人主義同士の対話、違いの受容と互いの進化、その先にある根源的同一性の気づき。
無意識を意識化してくれる。
11-94
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人が思考する上で欠かせない「言語」について、表面からかなりアカデミックな方向へ進めた本。一般向けではないように感じた。著者が好きなので読みました。
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日本人と欧米人の違いを、言葉の使い方から知ることができる本。個人と社会というのは、日本古来の言葉でなく、翻訳された言葉というのが驚きだったが、なるほどと思えた。
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以下注目点
・もともと乳児の時から母親とは別室に寝かされ、親子といえども別の人間であるということを痛いほどすり込まれて育ってくるヨーロッパ人 P.5
・印欧語(インド・ヨーロッパ語族)も7世紀頃までは、今の日本語や東アジアの言語と同じように「主語」というものはなかった。P. 13
・現代の欧米の言語が依って立つ世界観が、「神の視点」であるのに対し、日本語の世界観は「虫の視点」である。P.16
・当時の教会では快楽は罪とされており、特に信者の性生活について微に入り細にわたり神父に告解することが義務付けられていました。これが逆に、人々の性への意識を強め、欲望を増大させ、個人意識やプライバシーの概念をも生み出したのだというのです。P.25
・明治十年(1877)頃にsocietyの訳語として社会という言葉がつくられた。そして同十七年頃にindividualの訳語として個人という言葉が定着した。P.27
・ヨーロッパの個人は十二世紀に生まれた p.29
・乳児と乳母の関係→「察する文化」 P.35
・「世間」内では、個人が責任を負うことが可能な限り回避される傾向がある。p.43
・「世間」の価値観は、刹那的で感情的な色彩が強く、一貫性に乏しい浮動的なもの p.44
・情報化の進展により、一昔前まで「常識」と呼んでいたような大きな共通理解や価値観の画一性は、もはや成り立ち得ません。「世間」というものは、もはや、あるバランスをもった行動規範を提供するようなものではなくなり、今日では、ひたるすら悪癖を露呈する壊れた装置になり下がってしまったのです。P.53
・真に「聴く」ためにはその人間が一人称的存在でなければならないということです。P.64
・「孤独」を避けた人間同士に生ずる親密な関係は「依存」なのであって、「愛」とは別物です。P.93
・「主語」を立て、論知的に自己主張する。p.115
1. 「人の話を良く聴きましょう」
2. 「察しの悪い大人(親)になりましょう」
3. 「一人称主語を入れましょう」
4. 「『みんな』に埋もれず『私』を持ちましょう。
5. 子どもの『どうして?』『なぜ?』を屁理屈と片付けずに、きちんと答えましょう」
6. 「『それでどうだった?』『〜はどうする?』といいった曖昧な質問はやめましょう」
7. 「答えを『〜とか』のようにボカすのはやめましょう」
8. 「きちんとかみあった問答をしましょう」
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一言でいうと
【自分を取り戻す手法と取り戻した人を知れる本】
私は、泉谷閑示先生の本に随分傾倒して4冊目として手に取りました。変わらず抜群によかった。
泉谷閑示先生の、日本語というより、日本で使われる言葉が如何に「察する」「同調主義」「ムラ特有」の垢が纏わりついているか鋭い指摘が爆発します。
日本で、個人主義は厳しい状況(村八分)に会う可能性が高い。そんな状況をわかった上で進んできた方の言葉が胸に刺さります。
金子光晴(詩人)
白洲次郎(政治家)
茨木のり子(詩人)
イチロー(野球選手)
中田英寿(サッカー選手)
村上春樹(小説家)など
私の中で、単的に個人主義を凝縮した言葉は、イチローさんの
「決して、人が求める理想を求めない。人が笑ってほしいときに笑わない。自分が笑いたいから笑う」
※本書にはない
「僕は、意図を、明確に伝えます。だから、もめごとも多いんです。その時は、もちろん、険悪になります。でも長いスパンで考えてください。」
※本書で抜粋されている
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日本で生きていく上での生きづらさを「世間・日本語」というものから紐解く名著。
日本語が備える曖昧さや日本社会における未熟的0人称による“世間”というものの構造を解き明かした上で、1人称で生きていくこと、さらに、超越的0人称になる行程を深い考察で書いています
本書を書くにあたっての作者の苦労は本当に脱帽です
年功序列からジョブ型雇用へと移行する企業が最近よくニュースになっていますが、それも“世間”というものの崩壊が始まったものだと理解されます
いかに自分がぬるま湯的世界観をもって生きていたかが克明に判明すると同時に、これからのグローバル化、インターネット社会に必読すべき書物だと思います
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『「私」を生きるための言葉』
〜日本語と個人主義 泉谷閑示
泉谷閑示さんの本『「普通がいい」という病』と重なる分があったが、新たに言語学分野が入ってきたことで新しい視点があった。
◯"YOU"のような普遍的2人称代名詞を持った言語を用いて暮らす人々と我々日本人は、何か決定的に違う世界を生きているのではないだろうか。また、その違いは、個々の人間のあり方や、人間関係の性質、社会の性格等にも大きな影響及ぼしてはいないだろうか。
という命題で始まる。
大学時代私は仏文学部にいたが、言語学の先生に「言語学を専門にして卒論を書いてみないか」と誘っていただいたことがあった。その時は、言語学がどういったものかよくわからず、言語なんてその土地の人にしかよくわからないのだから、日本人が研究して何になるのだろう?と低レベルな考えしか持っていなかった。この本を読んでいると、自国の言語と他国の言語の成り立ちや特徴を理解する事はとても奥が深く、面白いということが初めてわかった。
日本語のBE言語と、英語のHAVE言語の特徴を示した文例一覧は興味深かった。
また、池上嘉彦氏『経験と思想』『英語の感覚・日本語の感覚』から抜粋して…
・欧米人の会話では、主に「話し手責任」が重視されるのに比べて、日本人の会話においては、「聞き手責任」が大きい。
・日本は察する文化であり、「現実嵌入」が言語の一部になってしまっている
といった、日本語の特性を論じている。
0人称的から1人称的になる過程に現在の人はいるのではないかと著者は考察する。
まず、個人主義とは、自分も1人称を得て主張するが、他の人たちの個性を認めて、お互いに共存することを完成としている。しかし、完全な個人主義的にはなれず、1人称的に自分を主張するが、相手を認めないので主張ばかりが目立ち衝突する。(利己主義になってしまっている)
とは言え、一度個人主義に傾きかけた世の中は、0人称には戻ることができない。
なので、
1、正しく個人主義を目指す
(利個人主義にならないように気をつける)
2、「他者」を「聴く」という経験を積み重ねていくことによって超越的0人称に開かれるよう進む。則天去私の境地(夏目漱石)
3.世間に絡め取られないために、自分の内に潜んでいる神経症性を一掃する。
ことが必要と結論づけている。
印象的だった(金子光晴)さんの言葉
自分自身を深く知って、都合の悪いところを要領よくごまかすのでなく、真正面から「絶望」すること。そのとき初めて自分自身が成熟し、日本の「世間」的な精神風土に流されない生き方ができる。
個人的には、一語で事物が纏っているものまで表現できるような、日本語の含みのあるところなどは好きだ。英語ではこうはいかない。フランス語も、文法的には論理的な印象を持たれるが、個々の単語は、日本語のような美しい緩やかさがあると感じている。
しかし、泉谷さんはこう論じている。
◯曖昧さを曖昧さのままで、日本語の美徳として取り扱う事は、��ライベートな領域の楽しみにおいては結構。しかしひとたび、他者とのコミュニケーションの道具として用いる場合に、言語はパブリックなものとして要請されている。パブリックなものは、通貨と同様、実に味気ないものであり、趣や土の匂いなどとは、縁のないものです。
ここまで言い切られてしまうと、少し寂しい気もするが、言われていることもわかる。
それぞれが、どのような「私」で話し、生きたいのか、変遷する時代に一旦立ち止まって、じっくりと考えようと、呼びかけられている。