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カントの判断力批判を出発点としつつ、デリダの決定不可能性や応答責任の問題にまでつなげていく、明快かつスリリングな論文。
判断や決定は規則や法の内部で機械的になされるだけではない。個々の事例へ法・規則を適用する際に、法・規則の一般性に属さない主観的なもの、無根拠なものが入り込まざるを得ないその地点こそが、法や規則を可能にしている。そしてそうした地点をこそ思考せねばならない。大雑把にいえば、そんな論旨だったと思う。
いま「主観的なもの」と書いたけど、それは判断や決定の主体が、自分の計算能力を超えた場所で直面するものでもあって、その意味で私の内なる他なるものでもある。「私」からすれば明確に言語化できない、根拠を示せないものが「主観的」と呼ばれるというのは、結構日常的によくあることだとは思う。
ただ、そうした無根拠地点は、あくまで計算可能性の限界において表れるものだ、というのはこの論文ないしデリダの強調するところである。
概ねとても面白かったのだけど、肝心の美・感性的なものについての議論がほとんどなされなかったのが残念。
芸術作品こそが、無根拠の深淵を跳び越えて、私の中の私ではない誰かの責任を引き受け、決定・判断することへ向かわせる力を持つのではないか、と考えているので。じぶんで考える楽しみが残されたとポジティブにもとれるが。
以下メモ。
p.81
ハイデガーのこの一節〔『ニーチェⅠ』〕に読み取られねばならない本質的な論点とは、カントのいう快の没関心性についてのいわば存在論的な解釈である。すなわち、快の「関心なき」が存在者を形相的に呈示し現前させようとするものであるどころか、そうした現前の中断の操作であるということ(広義の「現象学的エポケー」と言っておこう)、このような還元の後になおも残る「輝き出ること」そのものが、美と呼ばれているということである。
p.82
デリダはおそらく、こうした方向――脱形相的な中断の操作――を、「あらゆる関心なき」といったカントの言い回しに見出される「~なしに」の効果そのものに注目することで徹底させることができた。〔『パレルゴン』〕
p.87
われわれが注目してきたのは、美を対象の形相に従って把握することが「関心なき」美的判断の構造からみて十分ではなく、むしろ美は形式からの「純粋な切断」であり、そのかぎりで対象から引きのいていく、そうした不可能性において見出されるべきものである、ということであった。
p.89
あらゆるアポリアのただなかで、しかしそれゆえにこそ、判断は日々下される。そしてそこに、崇高とよばれる何ものかがある。
p.97
構想力はおそらくそれ自身としては何ものでもないが、まさにその代補的な本質によってこそ、みずからの「不安にさせる不可知なもの」の威力を最大限に発揮するのではないだろうか。
p.130-1
形式なき形式性――美の形式とはまさに当の形式解除され引き退きゆく運動そのもの
p.148
ヘーゲルの吐き気――ひとはそれを、精神の弁証法進行を内部から徐々に蝕むような腐食作用として思い描くことがで���るかもしれない(それこそは、実のところ、バタイユが本来企図していたヘーゲルの低次唯物論的転倒
あの老練なモグラに通じる動きではないだろうか)
p.176
『実践理性批判』は「定言命法」という理性の自己立法の能力を打ち出すものであり、自らの良心に一致することを強調する西洋倫理において旧来の「自己一致の原理」にとどまっている。それに対し『判断力批判』が重要となるのは、単に自分自身と一致している自己充足的な原理ではなく、まさに判断力についての考察を通して「他のあらゆる人の立場で考えること」という思考様式を明らかにしたからだ、とアーレントは述べる。
p.191
シュミットの決断主義の政治は、内容とは無関係な、決断の純粋な行為の事実に依拠するために、決定内容の根源的な恣意性を招くという点で、シュミット自身が非難していたはずの「政治的ロマン主義」と奇妙な共犯関係に陥ることになるのだ。
p.196
判断とは…一つの出来事として(判断の主体に)あらかじめ知られていることなく、前未来の様態で事後的に指示されるほかないような〈来たるべきもの〉、いわば過去から到来するような未来(あるいは未来において到来する過去)として言い表されるべき何ものかであるだろう。
206頁
『法の力』の中心課題=正義への問い。デリダが試みているのは、正義が否応なく合法性や適法性としての正当性を超えた次元にあるということを証示すること、そしてそれでもなおいかに正義は可能なのか問いただすこと。
単に法を無視した行為に正当性はない。正義はこの意味で、法の規範的な一般性に依存している。しかし、それは単に規則を機械的に適用するだけのものであってはならない。正義にかなう決定は、法を疑問視したり侵犯したりすることのできる可能性のもとで下されねばならない。
208頁
「要するに、ある決定が正当で責任あるものであるためには、その決定は、自らに固有の瞬間=契機において、規則に従うと同時に無規則でなければならず、法を維持すると同時に、各々の事例ごとに法を再創出し再正当化すべく、法を破壊し宙づりにすることができなければならない」――「規則のエポケー」
211頁
法の起源は無根拠だから批判可能だというのではなく、無根拠(ないし「神秘的」)であるからこそ、「暴力」はそれだけに一層批判不可能な権威として立ちはだかるということ
この不可能性を不可避の「アポリアの経験」として、むしろそれを正義のための積極的条件として引き受けることがデリダ特有の立場をなす
214頁
主権が限界概念たるゆえんは、自らの決断によって法秩序の内と外を分かつ境界そのものを設定することができるという点に存する。すなわち主権とは、法秩序に内在する「外部」として所与の法の実行力を内側から停止=宙吊りにしつつ、当の法秩序がそもそも妥当かどうかを外側から価値づけるという権能。例外状態とは、そうした主権の力が法秩序に介入するような「法以前」の境位、法の可能性の条件――法の真空状態・法創設のゼロ度をなす。
219頁
シュミットの決断主義において特徴的なのは、決断の権威をあくまで「主権」の規定を通じて把握しているという点。そのとき重要なのは、決断主義にとって主権が��単に無条件や絶対的であるにとどまらず、国家主権だという点。それが想定しているのは、一人の明確な人格主体に備わる権限として主権が実現されるべきである、ということ。→独裁政治という要請。
223頁
シュミットの決断主義は、根本的には、シュミット自身の批判する自由主義=政治的ロマン主義の日和見的な態度決定とほとんど同断である。決断主義者の重んじる「決断」は、決断の内容を度外視して「俺は決断したぞ」と言い張るためのアリバイづくりにしか役立っていないからだ。
228頁
「主体とは、それに対して決断が生じえない当のものでさえある」。というのも、決断が一個の人格や主体に繋ぎとめられることによって、「私」という自我の統御しうる主体的な意志や意図を表現するものでしかないとすれば、それは決して決断ではないだろうからだ。
230
「出来事の条件である受動的決断、それは構造的には、つねに私のうちでの他なる決断であり、他者の決断としての張り裂けんばかりの決断である」
デリダは決断の受動性を「自律に異議を唱えることなく、自律を自律それ自体へと切り開く」、そのような他律の法として特徴づける。
232
「他者を前にして他者に責任を負っている」
デリダが述べるのは、私の責任を負うためには、他者の責任をも負うことができるその可能性を含む限りにおいてであるということ
235
私の決断を自ら負うという自明に思えることが、私という主体の公理系をアリバイとすることで、応答責任を規定済みの処方箋へと還元し、結果無責任化にしかなっていないのではないか
こうしたデリダの責任論は、明らかに、通常は法的に担うことのできない種類の責任の問題を提起することへと通じている
240
デリダの決定の思考が絶えず追求しているのは、決定不可能なものへの権利だけでなく、決定不可能性、計算不可能な無条件性をそのものとして標定すべく、計算可能なものをその限界まで計算しつくそうとすることである。