紙の本
経営者と詩人のあいだにある"職業と感性の同一性障害とでも指摘すべきズレ"
2009/10/30 21:45
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
セゾン・グループ総帥の回顧録。
経営者としての堤清二と、詩人・作家としての辻井喬のあいだにある"職業と感性の同一性障害とでも指摘すべきズレ"(P.335)、これがこの回顧録の読みどころである。
文学者としての辻井喬については評価は差し控えるが、ビジネスマンの私としては、経営者としての堤清二は果たして何を成し遂げた人なのか、この点に大いに興味があって、読売新聞・日曜版の連載を断続的に読んでいた。これが一書にまとまったのは、連載をすべて読むことの出来なかった読者としてはたいへんありがたい。
1980年代、セゾン・グループがまさに絶頂に向かいつつあった時期にビジネスマンとしてのキャリアを開始した私にとって、セゾン・グループの栄枯盛衰はリアルタイムで観察してきたビジネス・ヒストリーであり、また芸術文化関連の愛好家、つまり消費者としては高校時代以来、セゾン・グループが提供してきたさまざまな恩恵を受けてきたことに感慨深いものを感じるためだ。
文学者として表現することは経営者にとって何であったのか、ビジネスマンである経営者にとって文化事業とは何であったのか。
もちろんこうした設問は、第三者が客観的に評価することも可能である。だが、文学者でもある経営者自身が、当事者としてどのようなことを思っていたのかを述懐した回顧録は、ふつうの経営者には書くことのできないものであるだけに、たいへん興味深く読むことが出来るのである。
「・・その時、僕が眺めていたのは、精神性を大事にする人の世界と、毎日を実利の世界に生きている人との、音信不通と言ってもいい断絶であった。それは僕が常日頃ぶつかっている断絶でもあった」(P.132)。
この断絶はさらに拡大しているのかもしれない。少なくとも経営者においては、いつの時代においても両立しがたいものであることは間違いないからだ。
本書でとくに印象深いのは次の一節である。
「世の常識が指摘するように、芸術家と経営者わけても財界人とは両立しないのである。もっといえば両立してはいけないのである。それをあたかも両立するように僕は主張したことがある。・・(中略)・・芸術家が政治家として成功するとしたら、それは独裁政治だからだ。だから財界人や政治家に望むのは、芸術や文化に理解を持ってほしいということだけで、それ以上ではない」(P.64)
これは反省に基づく述懐なのだろうか。だとすれば、図らずも著者がどういうタイプの経営者であったか、問わず語りに示していることになる。
小売流通業という、大衆相手のビジネスに従事していながら、現代詩という必ずしも大衆を相手にしない文学形式で表現していた文学者の精神とは、そもそもが両立しがたい。
この大きな矛楯が、ある局面ではビジネスのロジックを超えて邁進したビジネスを成功させ、またそれゆえにビジネスのロジックを逸脱して爆走する結果ともなった。
したがって、セゾン・グループの破綻は、ある意味においては、免れ得なかったものでもあった、といえるのではないか。
本書は、さまざまな局面を切り抜けてきた経営者の、経済と政治、そして芸術にかかわる事件と人物を中心とした回顧録である。
しかし、この回顧録は辻井喬という文学者の名前において執筆、出版された文学作品として受け取るべきなのであろう。
"バブル経済"とひとくくりにされがちな1980年代を理解するための、その前史を知る意味でも貴重な回顧録であるといえよう。
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優れた文学者、デパートで文化を売るという手法を定着させ、経営革新をなしどけた経営者という2つの顔を持つ著者。
共産党員だった若き日から今日までの社会の諸相を政界・財界・文学界、文化界・芸能界など膨大な人脈交流録でつなぐ。三島由紀夫のエピソードなど多くの人物との交流が興味をひく。著者は自身にとっての詩こそ「叙情と闘争」だったのだ、と記す。経営者という表の行動を裏づけ支え続けた感性というか本心のありかは何なのいかと・・・。まなざしの靭さ、芸術文化への造詣も感じるところが多い。戦後日本の社会史。昭和時代の俯瞰と考察によい資料だ
あとがきに掲載されている詩。覚えておきたい。
もの総て/変りゆく/音もなく
思索せよ/旅に出よ/ただ一人
鈴あらば/鈴鳴らせ/りん凛と
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★不確かな朝/異邦人/宛名のない手紙/箱または信号への固執
また長い旅に出ることになります。いやすでに出発していて、今は『彷徨の季節の中で』にドップリと浸かっているところです。『彷徨の・・・』は、20代で詩人として出発した彼の、42歳の時の初めての小説です。『彷徨の・・・』は、作者の自伝的な、ひょっとして私小説に近いものかもしれませんが、最近読んだどんな趣向を凝らしたエンターテイメントよりぐいぐい読ませます。何げない書き方ですが、文章が非常に達者です。幅広い文学的教養に裏打ちされた、そして人間の真実を透徹した眼差しで見据えた、隙のない味わい深い文章。
この本は、2008年の読売新聞・土曜朝刊に連載されていたものだそうで、堤康次郎元衆院議を父に持つ子息という稀有な星の下に生まれた人にしか書けないこと、その第1回はその父の随行員として1959年1月にアイゼンハワー大統領とマッカーサー元帥に会見するシーンから始まるというダイナミックなもの。本物の歴史上の人物と直接会って、言葉を交わさないにしても直に息吹を感じているという、こんな体験をした人はそう多くはいないはずで、そういう意味でも本書は第一級の実録・昭和史であるはずです。
実業の堤清二の方が通りがいいのか、それとも虚業の辻井喬の方なのか、私はリアルタイムで接していませんので、あまりよく存じませんが、ただ私の貧しい本棚には、『ユートピアの消滅』(集英社新書2000年)と、『伝統の創造力』(岩波新書2001年)と、『辻井喬詩集』(思潮社1967年)の3冊があるばかりです。
本書を読む前に、やはり入手可能な限りの彼の今までの作品を読むべきだと思って、いったん本を閉じました。たとえば弁護士であって推理小説家の和久峻三とか佐賀潜とか、そして詩人の中村稔など、二足のわらじをはく人は大勢いますが、巨大企業のトップにいて詩人・小説家というのは他に見当たらないはずです。そして、通俗的で申し訳ありませんが、いわゆる妾の子という出自にも強烈な興味が湧き、しかも今まで寡聞にして貧弱な範囲でしか見聞して来なかった彼の文章が、その時々に異常な輝きを放って私に迫ってきた記憶があるからです。まだ20冊ほどしか手元に集まりませんが、つい先日、辻井喬への旅に出かけたところです。
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文化とビジネスの国境を消したスティーブ・ジョブズが召された今年、永江朗「セゾン文化は何を夢みた」に背中を押され、ずっと積読だった本書を手にしました。時代の変わり目の先頭に立ち、文化とビジネスを交流させ続けたセゾン・グループ、それは詩人であり、経営者であった著者の背負っている現実と夢みている理想の産物であったことがよくわかります。その資質の根底には父への反発と母への思慕があるように感じられました。政治、経済、文学、音楽、演劇、そしてロシア、中国、様々な領域を駆け巡り、様々な人々との交流していく様子は日本の戦後史の豊かな流れ、そのもの。実業を誰も踏み入れたことのない肥沃な大地に流し込みながら、しかし、「自分の好きなもののビジネスはしない」「職業と感性の同一性障害というべきズレ」と頑なに経営者としての自分と芸術家としての自分の距離を取る姿が繰り返し述べられています。経営と芸術をことさら峻別する繊細さがセゾン・グループが消えてしまった理由に思えました。辻井喬と堤清二というダブルネームであることが、文化とビジネスの融合を未完のものにしたのでは?ということです。とはいえ、彼の「叙情と闘争」が開花した80年代は、無印良品に代表されるように今の日本にとって必要な季節であったことを再認識しました。
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地元の図書館で読む。非常に興味深い本でした。新聞の連載時も、何度か読みました。そのときも面白いと思いました。今回も面白いと思いました。新しい事実はありません。ただし、未来の歴史家が研究する場合、この本が底本になります。上野さんとの対談本は、セゾンがテーマです。それ以外の部分は薄いです。それに対して、この本は、全てが書かれています。
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交遊する人の幅が広さに驚く。
もちろん政財文様々な顔をもち、
顔が広いのは当たり前だが、
思想的な振れ幅も左右両極、
全編社会主義的理想が貫かれてはいるものの、
実際には思想的にそりがあわなそうな人たちとの交流が
かなりある。
あとがきにもあったが、本当にこの人はどんなものでもよいものを吸収しようとしてしまう人なんだろうと思う。
理想とする社会、
それとはまったく違う社会の中で
引き裂かれる心が淡々とほんとうに淡々と
綴られているのが面白かった。