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・音楽は「場」「空気」「自分」に左右されるから,有名な人の演奏がピンとこなくても気にすんな.
・それを踏まえていかに聞き上手になるか
背景を知れ
生で聞け(しかもなるべく定期的に)
自分の癖を知れ
自分でも楽器やってみろ
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音楽は言葉では言い表せないという言説を否定し、もっと冷静に音楽を聴く方法が書かれている…のだと思う。
もう少し読み込まないとな 汗
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すぐれた音楽批評作品に贈られる第19回吉田秀和賞を受賞した、岡田暁
生著「音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉」(中公新書 2009)を読ん
で、思わず、う~んと唸ってしまった。待望していた、なるほど書物である。
私が日頃から考えている事・思っている事に形と言葉を与えてくれる、こう
いう書物は、いくらでも読み続けていくことができる麻薬的な味わいをもって
いて、甘美さも兼ね備えたお気に入りの銘酒みたいなものか。
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●:引用
『3時間でわかる「クラシック音楽」入門』で示された、今自分が実践している聴き方の対極の聴き方?久しぶりに読み応えのある(一読では理解できず、再読が必要な)新書だった。最近は興味のある分野を読んでいても、その内容が心に残る、血となり肉となるような、読書が出来ていない。読んでいるけれども、読んでいない。字面だけを追いかけ、ページを繰っているだけ。何のために読んでいるのか分からなくなる。最近はそんな体調、精神状態なのだろうか。
●ドイツのバイエルン地方を(略)地ビールを飲み歩いたことがある。(略)必ず亭主が「どうだ、うまいか?」と聞いてくる。(略)「おいしい!」と答えるのだが、いつもその次の質問で窮してしまう。(略)「どうおいしい?」と尋ねてくるのである。(略)「俺たち日本人はビールがどううまいか表現する語彙を持ってないんだよなあ・・・」(略)おそらく彼の地においては、ビールを「飲む」文化は「語る」文化とセットで涵養されてきたのだろう。味わいを語るいろいろな「土地の言葉」が、そこにはあるに違いない。だからこそ向こうの人たちは、いつものように、「どううまいか?」と尋ねてきたのだ。ただ食べたり飲んだりするだけなら、それは単なる生理的な営みに過ぎない。「語る言葉」が整えられていくことで初めて、食は食文化になる。それは音楽においても事情は同じだろう。非言語的な文化営為はすべからく、それについて語る言語文化と一緒に育まれる。
●しばしば音楽の体験に対して言葉は、魔法のような作用を及ぼす。言葉一つ知るだけで、それまで知らなかった聴き方をするようになる。微細な区別がつくようになる。想像力が広がる。そして「地元の人」たちは、「おいしい食べ方」ならぬ「おいしい語り方」を、いろいろ知っている。逆に輸入音楽の場合、私たちはそれをあまり知らないのである。
●音楽文化は「すること」と「語ること」とがセットになって育まれる。(略)どんなに突拍子のない表現であってもいい。お気に入りの言葉に、思い思いの言葉を貼り付けてみよう。音楽はただ粛々と聴き入るためだけでなく、自分だけの言葉を添えてみるためにこそ、そこにあるかもしれないのだ。理想的なのは、音楽の波長と共振することを可能にするような語彙、人々を共鳴の場へ引き込む誘いの語彙である。いずれにせよ、音楽に本当に魅了されたとき、私たちは何かを口にせずにはいられまい。
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基本的にクラシックから文になっており、
歴史の振り返る部分や要所要所で読むのがつらい部分があった。
また大枠で理解したという感じで、細かい共感できる部分は少ない。
・好き嫌いは人それぞれどころか、自分ですら時によって違う
・有名無名、評論をあてにしすぎない
・音楽はみなければわからない
・音楽を読む、語れるように楽しみも深まる
・現代では音楽はすることではなくなってしまった
・それぞれが聴いてきた音楽によっても感覚は変わる
ロックギターをやるものとして上記は理解できた。
みないし、やらないけど好き嫌いを大袈裟に語るのはなんか虚しい。
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絶対的良書やー。人生が豊かになるためのリスナー姿勢を身につけさせる、しかし先入観を与え過ぎないように、ってのを絶妙なバランスでやりきって成功している。最後に「現時点での」ハウツーが載っているのも真摯でユーザフレンドリ。何回でも読みたい。
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音楽感、観を持ちたいと思い、手に取る。ほぼどのジャンルの音楽が好きなので、手当たり次第に色々聴いてきたつもりでいたが、本書を読んで少し整理がついた気分。歴史をしらべる、楽典を学ぶ、楽器を演奏してみる(習う)等は興味があれば当然やるだろうことだが、これら今までやってきたことに対しても、それなりの意味を見いだせた。若干小難しい点もあるが、趣味をより良きものにするための指針にもなり、ためになった。
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第1章 音楽と共鳴するとき―「内なる図書館」を作る
第2章 音楽を語る言葉を探す―神学修辞から「わざ言語」へ
第3章 音楽を読む―言語としての音楽
第4章 音楽はポータブルか?―複文化の中で音楽を聴く
第5章 アマチュアの権利―してみなければ分からない
第19回吉田秀和賞
著者:岡田暁生(1960-、京都、音楽学)
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久しぶりに、東京に行きました。不況なのでしょうか。地下鉄の広告スペースが埋まっていません。商売している人は大変でしょうね。八重洲ブックセンターで購入する。非常に興味深い本でした。音楽は評論可能なのか。究極は好き嫌いではないのか。著者も同様の指摘をしています。と同時に、評論の可能性も指摘しています。オーケストラのリハーサルのビデオを見ると、そのヒントがあります。指揮者は自分のイメージを実現するために、具体的な指示を繰り返します。これは当然です。具体的な指示でなければ、オーケストラのメンバーはわかりません。指揮者は、言葉により、自らの意図を伝えています。つまり、その意図は言葉で表現できるはずです。その通りだと思います。ただし、言葉に出来ない部分も残ると指摘している。その通りだと思います。
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音楽学者の岡田暁生氏が音楽の嗜み方についてまとめたもの。なお、本書で取り扱う音楽は主にクラシック音楽と呼ばれるものに限定されています。本書の中では「聴くこと」は「語ること」であり、「語る」ためには、当然ですが多くの言葉を自分の中にストックしておく必要があるとしています。これは音楽に限らず、いろいろなモノに応用できる考えだと思います。参考文献も多く紹介されており、本書を出発点として、色々な言葉を蓄積していくのも面白いかと。その際には実際に演奏してみる事も忘れずに。
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音楽の聴き方、というタイトルではあるが、音楽以外のものに対する批評の心構えとしても読める。
筆者は他の芸術との違いを、音楽が音の振動であり、その場でしかとらえられないところとしている。音楽はある種社会の共同体のルールがあり、場が作り出すものである。それは一種の言語であり、無条件で「音楽は国境を越える」ということはあり得ないと主張。越えるのは単なるサウンドであると。また、音楽は自らして、語るものであり、きく、する、語る、が分業制になってしまっているのは、本当の意味での音楽ではないとも。
全体の流れのなかでこういう文言が出てくるので、一部抜き取ると極端だが、要は音楽は語ってこそ面白いし、語るためには下手でもやった方がいいし、そうするときく態度も変わってくるよ、ってまとめかな。
内容的には、哲学書と考えても差し支えないくらい、示唆に富んだ内容でした。
また読みたい。
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『西洋音楽史』ほど読みやすくはないがクラシック音楽を「聴く」「語る」ことについて、様々なエピソードを交えて解説している。
例えば指揮者の語る「わざ言語」。
フリッチャイが「モルダウ」(狩りの音楽)の指揮をするとき「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を」と指示をしているが、これはスメタナの音楽が猟犬の歓びを表現している、という意味ではない。4本のホルンがひとかたまりになって溶け合うことなく、それぞれが独立して四方から呼びかわし、こだまするような効果を表す。すなわち「猟犬」という言葉が音楽構造の比喩として機能している。
アイデアをセミコロン(;)で繋いだモーツアルトと「しかし」と「故に」を駆使するベートーヴェン、など著者の比喩も上手い。
村上春樹の音楽評の素晴らしさも解説。
最後のまとめが役に立つ。
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色々と考えさせられる本ですね。
漫然と聞いている音楽のコンテクストについて、知っておくにこしたことはないのでしょう。
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音楽は他の芸術と異なり受動的に感じるもので輪郭もはっきりしない。それだけに音楽の「聴き方」が分かるのはとても凄いことなのだろうが、この本では音楽の聴き方は身に付かない。アドバイスとして「自分の言葉で語ること」、「共振する言葉が有効なこと」、「曲の背景、聞いている社会を理解すること」、「自分で弾いてみること」などが挙げられている。
音楽の領域は明るくないから筆者の考えに賛成も反対もできないが説得力には乏しいと感じた。全体を通してとにかく引用が多い。筆者の意見が少なく代わりに様々な論文を寄せ集めている。さらに筆者は~だろう、だと思う、ではないだろうか、等の断定を避ける文末が多く信用できない。不必要に長い引用も多いし、最後も長々とまとまりのない文章があって辟易した。
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決して「体系的」な本では無いけれど、部分部分をさらうだけでも充分音楽の聴き方が変わり得る。
何とはなしに漠然と耳を傾けていた演奏を「何らかの位置付けを行いながら聴いてみる」という方法を教えてくれた。