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思っていたというべきか、思っていたのと違うというべきか、、
1、「見ながら聴くことはどれくらい可能か?」の開始‥‥エイゼンシュテイン
2、「サイレント映画」の音‥‥ファッションショー
3、科学という幼児‥‥ブルース、レコード
4、ブラックミュージックの「ずれ」と「揺らぎ」について‥‥コルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」
5、ファッションショーにおける倒錯と抑圧
6「オタク=黒人」説
7、二十世紀とは何歳から何歳までか?
8、現代旋律概論
9、夢と輪郭線
で、それがどうしたっていうか、何が言いたいのか不明
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「東京大学のアルバートアイラー」の続編です。
前作がとても音楽の話としてためになったので、買いました。
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東大講義で世間を沸かせた菊池・大谷コンビが慶應で展開した講義の前半。音楽についての課題を発見したい人ならかなり面白い。先日のDCPRGライブが思い返される...
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菊地成孔+大谷能生「アフロ・ディズニー エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで」は、著者二人によって慶應義塾大学で行われた現代芸術論の講義録。続編としてゲストを呼んだ「アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界」がある。「憂鬱と官能を教えた学校」、「東京大学のアルバート・アイラー」に比べると、ギャグがない。真面目な調子。実際の講義では、過去以上に冗談がちりばめられていたそうだが、あまりに冗談だらけになるので、今回はあえて笑いの要素を一切カットしたとのこと。以下印象的だった箇所のまとめ。
コンサート会場に音楽を聴きに行く、劇場に演劇を観に行く、こうした19世紀以前の芸術は、芸術の受容者に社会性を要請する。会場に何を着ていくか、誰と行くか、どんな会話をするか、芸術体験を通じて、社会性が生まれる。
20世紀誕生した芸術「映画」(ビデオ映像含む)と「レコード」は、部屋の中で、一人で楽しむことができる。自室で好きな映画と音楽に浸っている時、大人も幼児の気持ちに帰ることができる。映画やレコードのメディア技術の発達は、人々を幼児のままにおくことを可能にした。
ある芸術作品を鑑賞して、見た後大人になったと思うか? 子どもになったと思うか?
20世紀以降は、作品鑑賞後、童心に帰れたような気分にさせる作品が増えた。
ファッションショーのモデルは、会場でなっている音楽のリズムとずれたテンポで歩く。音楽のリズムとモデルの動きが同調することはない。微妙なずれ、ゆらぎが、モードの感覚を作っていると言える。同調しない=時代から少しずれている、時代の先端を行っているという感覚。
初期ディズニー映画は、アニメ映像の動きと、音楽が完全に一致していた。映像と音の完全な一致は、全能感を生み出す。全能感は、幼児に特有のものである。
東京コレクションのモデルは、スタイリッシュに、クールな大人として振舞う。音楽とも完全同調しない。踊らない。最近世界から注目されている東京ガールズコレクションでは、モデルも観客もロックコンサートの最中みたいに騒いで盛り上がっている。幼児的な「カワイイ!」文化の評価拡大。距離の近さ。
パリやミラノのハイファッションショーは、幼児的なもの、また黒人を差別、排除してきた。ファッションショーは、成熟した大人による社交、儀式の場だった。この構造が、最近崩れてきている。カニエ・ウェストやファレル・ウィリアムズといったブラックミュージック、ストリートカルチャーのアーティストが、ヨーロッパのハイモードに絡んできている。また、大人が子どもの幼児性を維持する日本独特のオタク文化も、世界から評価されてきている。
ヨーロッパの高級ブランドが、オタク文化と黒人文化に同時に注目している。オタクと黒人の両方が揃って、ヨーロッパのハイカルチャーに食い込もうとしている。
オタクも黒人も、消費や文化のメジャーでありながら、過去に差別されていたという被差別意識を、メジャーになった後も引きずっている。オタク=黒人説。
(所感)
ファッションショーの��デルの動きが、音楽と微妙にずれているという指摘は、言われて初めて気が付いた。そう言われれば、確かにそうだという嬉しい驚き。
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「視覚」と「聴覚」の分断/再統合、「音」と「映像」のズレと揺らぎから20世紀を俯瞰し、21世紀の現代におけるさまざまな文化的現象を大胆かつ丹念に腑分けしていく。
即興的で饒舌で映像的な語り口は読んでいてエキサイティング。旋律論とサブカルという、個人的にホットな話題が盛り込まれていたのも良かった。
目からウロコの見たては単なる虚言・妄想に止まらず、かなりの精度で「今日」を鋭く描き出しているので、読んでる時のお得感がハンパなかった。おすすめ。
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メモ
・エイゼンシュタイン 近代音楽理論を映画にあてはめようとした(映画における第四次元)
・乳児(聴覚と視覚の発達時期に差異あり)とメディア(リュミエールの映画により視覚と聴覚の分断が起こった)の類似性
また、社交を必要とするシアターでの鑑賞から自宅のホームシアターへの変化、両方で退行が起こっている
・モデルのウォーキング 音楽に合わせて歩かない(会うのは軍隊とかマスゲーム)。その抑圧による反動か、アフターパーティではモデルは狂ったように踊る。
・音楽理論で説明できなかったブルース、精神分析における無意識、数学における虚数
・オタクのコンプレックスとブラックミュージックのコンプレックス
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読みやすくて面白い。大学の講義だけあって、用語が逐一説明されているのも助かった。彼はいたる所で、口に入れたらすぐ甘いポップさ、という言葉を使うが、100年分の映画と音楽と現代の色々を、一気に飲み込んでしまうこの本もまたポップ。
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そうかあ。視聴覚の過剰なシンクロを「ミッキ—マウジング」と言うのかあ!
ちょっと、タイトルでひいてしまったのだけれど。
東大に、今度は慶大。
どうせならもっと名もなき(そして門外漢の)大学生に、もっとどんどん、伝導していただきたい。音楽の楽しさ、すごさを。
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佐々木中氏の随筆で、菊地成孔の尽力でJAZZの理解が深まっているとの一文を読み、久しぶりに彼の文章を読んでみたくなり手に取った。
予想以上のおもしろさ。毎日毎日彼の文章を読んでいたいし、読まないと中毒症状が出てしまい、心がわなわなとふるえ出すくらいだ。
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あまり日常考えるトピックではなかったので、大変興味深く読んだ。
話がどこに行くのか、わかったような、結局わからなかったような・・・
参考に挙げられていた音楽や映像を見直して、もう一回読んでみたい。
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文章中にもあるように、様々な言説や仮説が四方八方に飛び散っていくような本。よく分からない部分も多かったが、分かる部分はとても面白い。
言葉の選び方や論の運び方が挑発的で、その挑発に乗ると、いつの間にか話しに引き込まれている。
そういう挑発的な文章は、読む側に少しでも著者を認める心があればとても刺激的で楽しいものになると思うので、少しでも著者を認める心がある人にはオススメします。
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菊地氏のあのヤンキーみたいな語り口から続々飛び出す難解な用語、彼のモンスターぶりを堪能出来る本。根幹的な問題意識を持ちつつも、持ち前のオタッキーな知識欲のせいか結局結論が出ず話が散乱するのは彼の人柄から予測出来る当然の結果。
彼が声高に主張する、ブルーノートを巡る諸問題を濱瀬元彦の下方倍音列理論で解決させる説に、イマイチ説得力が出ず音楽学会に無視されてるのもそのせい。
この本に結論を求めてはいけません。
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慶應大学文学部での講義録。ということで、久しぶりに菊地さんの本を読んで、そのざっくばらんというか、ハチャメチャというか、飛び火が飛び火して、一周ぐるっと廻って本質に行き当たる的な感じの変わってなさにニヤニヤして。(10/10/23)