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2010/11/27 07:38
投稿元:
[ 内容 ]
テーマにこだわる撮影やスケッチの旅、列島徒歩縦断、海外百余ヵ国ひとり旅…達人たちが伝授する“オンリーワンの旅”。
[ 目次 ]
第1章 地域発見!日帰りの旅(それは「ほんの小さな旅」から始まった;きっかけはウォーキング ほか)
第2章 夫婦で行く旅(行かない理由、行く苦労;熟年夫婦の北米旅行ホームページ ほか)
第3章 男も女もひとり旅(ひとり旅の魅力とは;“本当の私”になる ほか)
第4章 私家版「街道をゆく」(還暦の「東海道ひとり歩き」;万歩計をつけて日本橋を出発 ほか)
第5章 ライフワークとしての「大旅行」(「とんがり石」にこだわって世界の遺跡へ;日本各地の「裸祭り」を撮影 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
2013/08/18 17:39
投稿元:
定年を迎えた高齢者たちの驚くような充実した旅行が紹介されています。横浜の川にかかる橋を全て撮影。世田谷区の全ての道路を自転車で走破。四国88カ所巡り、熊野古道のテントを担いでのエコノミー旅行。東海道、東海道自然歩道、日本の岬・離島巡りなど実にいろんなチャレンジをしている元気な高齢者がたくさんいるんですね。また海外88カ国巡りに90歳近い人が挑むなど、元気を頂戴したくなります。
2016/11/09 07:27
投稿元:
「遠くへ行きたい」(♪知らない町を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい♪)の歌のように、知らない土地を気ままに歩く愉しさは何とも言えないですね。加藤仁氏の「定年からの旅行術」(2009.9)を読みました。地域発見・日帰りの旅、夫婦で行く旅、男も女もひとり旅、街道をゆく、ライフワークとしての大旅行の5つの章で書かれています。私は仕事してるときは全国規模の転勤や出張で各地を訪れ、人情と酒を味わいましたがw、定年後はもっぱら地域発見・日帰りの旅です(^-^)埼玉中心、時々東京、稀に千葉・神奈川ですw。
2018/06/28 23:20
投稿元:
定年にはまだ間があるけれど、そうなってから考え始めても遅い。準備が必要だ。「旅の名人は人生の達人」、言いえて妙。無理してマニアックな旅はするつもりはないが、県庁所在地、全市制覇、はたまたある一定以上の広さの島制覇…。夢は広がる。テーマを持って旅をしたい。もちろん予算は効率的に!
2023/07/30 21:38
投稿元:
それぞれの目的と目標を持って、旅に出かける人々。年を感じさせない前向きな生き方をしている方達の実例を読んで、定年後でもこのようなことがまだできるんだと、希望が湧いてきた。また旅に出かけよう。
2024/05/18 20:14
投稿元:
770
アイディアの宝庫
★「その翌年、海外旅行として手はじめにアメリカへとおもむく。ただし、これもまた独創的な、アラスカとハワイを除く「アメリカ四十八州都めぐり」である。渡米すると、すぐさま二五〇 ccバイクを購入して、各州都を訪れる。百日間に及ぶその旅の全走行距離は約三万キロメートル、総費用はバイク代もふくめて百四十万円という、信じられないほどの安さである。千三百ドルで買ったバイクは、帰る間際に六百ドルで売却した。こうしたちえが旅を可能にした。」
加藤 仁
1974年、愛知県生まれ。1972年早稲田大学政治経済学部卒業。出版社勤務を経て、ノンフィクション作家として独立。以来、評伝、ルポルタージュなどを手がけ、3000人以上の定年退職者に取材するなど、生活者の視点から取材執筆活動を続けた。2009年死去。著書に『定年後の居場所を創る』(中央公論新社)、『定年後』(岩波新書)、『定年後の8万時間に挑む』(文春新書)、『社長の椅子が泣いている』『定年からの旅行術』(ともに講談社)など。
加藤仁『定年からの旅行術』。定年にはまだ間があるけれど、そうなってから考え始めても遅い。準備が必要だ。「旅の名人は人生の達人」、言いえて妙。無理してマニアックな旅はするつもりはないが、県庁所在地、全市制覇、はたまたある一定以上の広さの島制覇…。夢は広がる。もちろん予算は効率的
定年からの旅行術 (講談社現代新書)
by 加藤仁
第一章 地域発見! 日帰りの旅 それは「ほんの小さな旅」から始まった/きっかけはウォーキング/週末の日帰り旅で東海道を完歩/区境完歩「オンリーワンの旅」/自宅周辺「ミクロの旅」/自転車でスケッチの旅へ/石仏を追って酒を忘れる/県下の「校門」撮影旅行/源流から鶴見川の全橋をたどる/神奈川の滝をすべて撮る/東京に昭和を訪ねた筆者の旅 第二章 夫婦で行く旅 行かない理由、行く苦労/熟年夫婦の北米旅行ホームページ/初の海外でトラブル続出/喧嘩も持病も旅の道連れ/旅先では「自分のことは自分で」/パック旅行から生まれた人気ホームページ/現地の味情報を満載/「女房孝行」に駆りたてられ/妻をキャンピングカーに乗せて/退職を前に免許取得、海外レンタカーの旅へ/行きあたりばったり、筆者のマイカー夫婦旅 第三章 男も女もひとり旅 ひとり旅の魅力とは/〈本当の私〉になる/心のままにシャッターを切り俳句を詠む/若き日の情熱を傾けたベトナムへ/リピーターならではの安あがり旅行術/フットワークのよさもひとり旅の利点/「一人旅」と日本人/年金のやりくりで海外格安長期旅行/中高年もバックパッカー/男は冒険に憧れ、女は脱・日常を求める/ヨーロッパで自炊ホテルに泊まって絵を描く/女性の海外ひとり旅の気ままさと心がまえ/パック旅行に単独行動を組みこむ/九十歳、旧同盟国のいまを確かめにドイツへ/グループ旅行という選択肢 第四章 私家版「街道をゆく」 還暦の「 東海道 ひとり歩き」/万歩計をつけて日本橋を出発/静岡で第一ラウンド終了/四日市までの第二ラウンドはやや苦戦/第三ラウンド、雨のなか三条大橋をめざす/芭蕉の時代、四十歳は「初老」だった/八��歳で「おくのほそ道」 へ/芭蕉の旅を追体験/マラソンで日本一周をめざす女性/ 四国八十八ヵ所 歩き遍路/それぞれの「発心」、それぞれの「足」/…
長期間を費やすのでもなく、ほんのわずかな日数であっても旅に出てみると、眼が 醒めるような気持ちになるというのである。現在のような遠距離旅行は夢のまた夢という鎌倉末期にあって、この古人の《しばし旅立ち》こそが、旅の原点であろう。 ちょっとそこまでの旅が、どれほど人生に活力をもたらしてくれることか。カネはなくとも時間があれば、まずは日帰りの旅からはじめてみるのはどうであろうか。小さな旅は、いつしか大きな旅を呼びおこすことにもなる。
「そもそもは健康のためにウォーキングをするのがいいと思ったのですよ」 愛知県瀬戸市にある自宅周辺を毎日一時間半ほど歩く。しだいに気力が 横溢 し、土曜日か日曜日には市内を速歩で四時間以上、距離にして二十キロ近くも歩くようになる。こうなるとウォーキングが小旅行に変わっていく。
市内を 隈 なく歩くと、それならば自然や昔の風情がいっそう味わえる場所へと足をむけたくなる。ある週末、愛知環状鉄道瀬戸市駅から四十分ほど電車に乗り、中央本線の 恵那 駅で降りて、旧中山道を 御 嵩 方面へと歩いてみた。途中、 大 湫 宿があって、 脇本陣をはじめ格子戸や塗込め壁の古い民家が残され、そこは宿場町の面影を留めていた。
こうして五日間かけて区境を完歩した。元教師は「世田谷区に五十年以上住んでいますが、身近な環境にこれほど新鮮な驚きを味わうとは思ってもいなかった」と言っていた。大枚をはたいて人気の観光地におもむいたとしても、これほど胸がときめいたかどうか。ひとつの計画を成しとげたという達成感もそこにくわわり、自由の身のよろこびを倍増させた。さっそく、紀行文を書いたし、郷土史への興味も湧きだして、実母の介護をしながら晴耕雨読の生活を送るようになった。
定年を迎えたとき、職場の仲間からデジタルカメラを贈られたトヨタ自動車の元管理職は、そのカメラを手にして自宅周辺を散歩するのが日課のようになった。住まいのある愛知県豊田市には田園が広がり、 鄙 の風景が残っている。まずは自宅近くを流れる 逢妻川 の堤防に咲く野花を撮り、その写真をパソコンのハードディスクに収めた。そして植物図鑑で花の名を確かめ、写真の下に書きこむ。こうして春夏秋冬に咲く野花を記録していくと、アカツメクサ、オオマツヨイグサ、アオイなど、堤防には三百種類ほどが咲くとわかった。その土地に何十年も住みながら、在職中は全然知らなかったことである。
「自宅でごろごろしていると、家族もいい顔をしないだろうし、体調を崩すだろうし、ともあれ毎日外に出るのがいいと思いましてね。犬も歩けばというやつですよ」 一ヵ月間かけて、区内の全道完走をやってのける。それによって、臆することなく地域社会に入りこめ、陶芸という趣味を見つけて打ちこむようになった。
もともと内向的な性格だったこともあって、もう一人の自分を演じさせるためにも、酒は欠かせなかったのであろう。連日の飲み方は尋常ならざるものがあった。朝、出社する前に生卵を胃袋に流しこみ、ウィスキーの小瓶一本を水割りで飲み干す。夜、ひとり飲み屋を四、五軒まわる。明け方までの泥酔もめずらしくはなかった。
「スケッチをしていると、救われたような気になりましてね」 それまでの風景画や肖像画を描くときにつきまとった「これ、自分の作品として、どうかなぁ……」という迷いは消えて、一心に鉛筆を走らせることができた。その翌朝には自宅近くの 荘厳寺 へと出かけ、 馬頭観音を描いた。石仏に出会いたいという思いから、川野さんの地域発見の旅がはじまる。
〝石仏〟というテーマを追い求めて、早朝や休日に自転車で駆けまわる。そのおかげで深酒をやめたかというと、そうでもない。起床すると、相変わらずウィスキーの水割りを飲んでいた。 「仏さんに失礼とは思いつつも、やめられないのですよ」 しかし、しだいに〝飲みたい〟よりも〝描きたい〟という気持ちが勝っていく。
六十歳をすぎると、重大な決意をするでもなく一年間の断酒をやってのけられた(ただし、その後も完全に酒を断ったのでもなく、時折飲んでいた)。群馬県内にある一千ヵ寺を自転車でまわって、そこにある石仏をスケッチする計画を実行に移したのは、このころのことである。
こうして「群馬の石仏」と題して前橋市にある群馬県民会館で展覧会を催したのは、川野さんが六十六歳のときである。会場には水彩画一千点と石仏二万体を描いたスケッチ帳が展示された。気がつくと、最後の三年間は酒を一滴も飲んでいなかった。
これを実行に移すとなると、どれほどの日数を要するものなのか。全国都道府県別地図を全冊買い求め、寺院や石仏の所在地に赤い丸印をつけていくと、連続八百日以上が必要のようであった。勤めがあってはそのような旅は不可能であり、さらにいえば宿泊費は退職金の一部を取りくずして工面するしかなく、会社を辞めることにした。
地元・群馬県におけるそれまでの日帰りの旅をパイロットケースとして、地図上の赤丸をにらみながら各県を連続して効率よくまわるコースを選定し、格安の宿(素泊まり)もさがす。この準備に半年間をかけた。まずは関東の各県をまわり、そのまま東北地方へとむかう。描きあげたスケッチ帳は旅先から十冊ずつ自宅に送る。こうして北海道から沖縄まで八百二十日間かけてまわった。ただし 連続 とはならず、一人娘の結婚式と実母の葬儀の二度だけは帰宅せざるをえなかった。この間、はたいた費用は三百万円と少々、一日平均三千六百円台の旅であった。酒は「飲む気もしなかった」と言う。
その日の作業が一段落すると、自転車で近場をのんびりと走る。いま、人生という長旅をたのしんでいる。
日帰り撮影の旅に出る。雨天曇天であったり、逆光に悩まされたり、学校行事の飾りつけが邪魔をしたりと、すべての校門を撮りおえるのに一年半を要した。こうして編まれたのが写真集『高校めぐり』である。 そこに掲載された校門の数々を見くらべることによって、たしかに校風が伝わってくる。落書きがされたり、傷がつけられたり、落書きを消すにも大雑把な処置がされたり、学校名よりめだつ《学校関係者以外、立入禁止》の標示があったり……と、校門は校風の乱雑さを象徴しているようでもあり、なかに嘆かわしくなるような県立高校も見う���られる。 「学校内がきちんとしていれば、校門もきちんとしている」 これが撮影者にして元教職者の実感であった。この校門の撮影紀行は、日帰りの旅の「入り口」であり、いよいよ千葉さんならではの地域発見の旅に出ることになる。
まさしく地域発見であった。 もともと〝滝〟は好きで撮っていたのだが、このさい集大成をしてみたいと千葉さんは思いたった。では神奈川県下に、いったい滝はいくつあるのか。地図には(滝のマーク) が七十ほどある。これらの滝すべてを撮影するのが、三度目となる日帰りの旅の目的であった。 まずは地図をたよりに現地を訪れ、滝を撮影する。そのあと地元の人びとや役場、教育委員会の関係者に話を聞くと、地図に記されていない滝がまだまだあって、その数は百二十にもふくれあがっていく。
私の日帰り旅行についてもふれておきたい。 取材をして執筆するという仕事柄、私は地方へ出かけるし、遠出をしないときでも首都圏のミニ取材旅行を繰りかえしている。とりわけ取材をおえたあと、解放感に浸りながら黄昏どきの街を歩くのが好きである。そしてひと息つきたくなると、そこに蕎麦屋でも焼鳥屋でもあれば飛びこみ、ビールを飲む。
こうした私の街歩きを知る編集者から「東京に残る〝昭和〟を訪ねる日帰りの旅を書いてみませんか」と、ミニ旅行記の執筆を依頼された。提示された条件は、新宿からスタートして、銀座にゴールするというだけで、あとはどこへ行こうと自由ということであった。以下は、その旅行記である。
商店街を往きかう大勢の人たちを見ているだけでもうれしくなる。あるひとは 速足 で歩き、あるひとは自転車を走らせ、あるひとは買い物カートを押す。その大半がお年寄りであり、どこにこれほど六十代、七十代、八十代の人たちがいたのかと思わせるほど、その数は多い。そしていずれもいきいきとしているのである。魚屋さんの店先で値切るひとがいたり、野菜を買うにも店員との対話をたのしんだりと、にぎやかである。お年寄りたちが元気なのは、自分の生活は自分で仕切っているという実感があるのだろう。
夫のみならず、夫婦旅行を嫌う妻も、むろん数多くいる。子どもが幼いころキャンピングカーで旅をしていたものの、子どもが育ってからは止めてしまった夫婦がいる。以前は気にならなかった夫の 鼾 に妻が耐えられなくなったという。海外パック旅行に参加した夫婦は、非日常をたのしむはずが、夫の着替えの世話やら、連日の荷物の詰め替えに妻が 音 をあげた。
しかしこの時代、「夫婦」「旅」というキーワードを叩いて、インターネットで夫婦旅行を検索してみると、ホームページを立ちあげて自分たちの旅を公開している数々の夫婦がいるのである。 『北米の小さな町を訪ねる旅に出よう』( http://www.asahi-net.or.jp/~xd4k-ooi/)という魅力的なタイトルのホームページの冒頭には《私達熟年の夫婦が、北米大陸に広がる3つの国(引用者注・アメリカ、カナダ、メキシコ) で、 26 州の中の 51 の小さな町を訪ね歩いて 20 年になります。その旅の折々に出会った小さな歓びの数々を伝えたいとの想いで、このページを作りました》とある。
この夫婦は、北米に二十回出かけているだけでなく、ヨーロッパも四回���れ、そこでも二十六の古い町をめぐっている。旅慣れているのか、旅行会社にたよることもなく、現地ではバスや鉄道で移動しているようである。ホームページには《熟年》とあるものの年齢は不詳、それでも在職中と思われる一九八九年から夫婦旅を敢行している。
三度も訪れたマサチューセッツ州のグロースターというアメリカ最古の 鄙びた漁師町についてこう書いてある。 《ボストンの北東にあるケープアン岬へ、コミューターレールという名の、1時間1本間隔くらいでしか走っていないジーゼルの通勤列車に乗って約1時間(中略)。駅員もいないし改札もない》《駅前の古びたレストランで昼食に食べた魚の燻製は、店の人がアンクローという名だとわざわざ紙に書いて教えてくれたのだが、これは中々いける代物だった》
「あんな旗を持ったひと(添乗員)のあとをぞろぞろついて歩くのは嫌だなぁと思っていました」 きっかけは、関西の大学で学んでいた次男が休学届を出して、米フィラデルフィアの大学に留学したことにあった。次男が無事に暮らしているかどうか、妻は気を 揉み、現地へ様子を見にいきたいと夫の背中を押す。いたし方なく腰をあげるが「旗」のあとをついていくような旅はしたくない。なにもかも自分で手配して、大阪(伊丹)空港~成田空港~ロサンゼルス~ミネアポリス~フィラデルフィア~デトロイト~バッファローを巡る一週間の旅を計画した。 五十三歳にしてはじめての海外旅行は、トラブル続出となった。 まず伊丹空港で出鼻をくじかれる。空港ロビーで待てども、その旅客機は飛びそうにない。パック旅行のご一行は、旅行会社の担当者がいちはやく情報を得たらしく、いつのまにかいなくなる。飛行機が故障欠航となったにもかかわらず、説明のないまま、ロビーには大井さん夫婦だけが残された。ついにはキレて、航空会社の職員に「責任者を呼んでくれ」と叫ぶ。翌日、経由する成田空港でも半日待たされた。
初っぱなにこのような体験をすると、やはり「旗」について歩くほうが無難であるという考えに傾きそうになる。しかし自称「天の邪鬼」の大井さんからすると、ハラハラドキドキが体験できるからこそ、自前の海外旅行は「面白い」となったのである。
「山登りをしていると、近くの山が視界に入ってくる。そうすると、つぎにその山に登りたくなる。それとおなじで北米の小さな町も一度出向くと、つぎに訪れたい近くの町が出現して、気がつくと五十一の町を訪問していたわけです」
あらためてホームページを見ると、ルクセンブルクを訪れたくだりにこうある。 《私達はカフェでビールを飲んだり、水のボトルを買って来て、大きな木陰のベンチで寝転んだりしながらゆっくりと見て回った。お蔭で、やっとの思いで見つけた日本レストランは午後の休みに入っていた。この国では普通2時になると店を閉め、9時頃になってもまだ明るいのをよい事に、7時からディナータイムがスタートするのが一般みたいだ。お蔭で昼食を食べ損ねた私達は夫婦喧嘩勃発となってしまったのだ》
ブリュッセルの旅については《尿酸値の高い私がビールを、糖尿病の家内がチョコレートとワッフルを、それぞれ求めて旅立った先が美食の都ブリュッセルだった。これぞまさ���く未必の故意の自殺旅行なのかしらね》と軽妙に書いているが、このときも夫と妻のいずれの嗜好を優先させるかで、大喧嘩になったとのこと。アメリカのある空港では土産物の買い方をめぐって、夫も妻も大声を張りあげる応酬となり、警察官まで駆けつけてくるありさまだったという。
海外であれ国内であれ、パック旅行は、夫婦が一足であることを知る旅なのかもしれない。 『夫婦で行く旅の記録』( http://www.fan.hi-ho.ne.jp/mozart/)というホームページがあって、そこには一九八〇年代から二〇〇九年現在に至る三十回以上におよぶ夫婦旅の記録が紹介されている。そのほとんどの旅が正月 明け の直後とお盆 明け の直後に集中している。ということは、一般的なサラリーマン稼業ではないらしく、どのような生活を送っている夫婦なのかと思う。現役サラリーマンであれば正月や盆の休暇を活用するし、年金生活者であれば旅費が格安になるシーズンオフを狙う。しかしこの夫婦はいずれでもない。
夫は三十五歳から早朝ジョギングをはじめるようになり、日の出前に起床して七~十キロを走るのを日課にしてきた。おかげで体力気力も横溢し、仕事にも励めた。五十歳のときホノルルマラソン大会に参加するため、夫は単身ハワイへとおもむいた。それ以後も大会に出場する考えでいる夫は、妻をハワイに誘う。
「二人の男の子が家を出て、夫婦二人だけの生活になりましたからね。これからは夫婦で海外旅行をするのもいいと思って」 と妻は言う。ハワイへ行くのであれば、浜辺で泳がなければ面白くもない。しかし妻はカナヅチどころかシャワーさえ怖がるほど水を苦手にしていた。旅に遊ぶ夫婦の将来像を妻は想い描き、一念発起して水泳教室にかよった。そして三年後にハワイで泳いだ。 以来、妻は旅行会社の案内パンフレットに眼を凝らし、正月・盆明け直後であること、料金が安いこと、現地ではフリータイムですごせることを条件に、旅を選択していった。取材をした年は、四泊五日の北京の旅(一人四万九千円)や五泊七日のフランスの旅(同十一万九千八百円)に出かけていた。
和田憲二郎さん(取材時七十九歳)は、五十六歳のとき愛媛県警を早期退職すると、夫婦旅にのめり込んでいった。六歳年長の妻・静さんの体調が思わしくなくなったのが旅のきっかけになった。若いころに 傷めたアキレス腱がふたたび 疼きだしたり、軽い脳血栓により右手がしばらく麻痺したりと、夫としては見るに忍びない状態になり、「女房孝行」に駆りたてられたという。それまで仕事に追われ、妻と旅行をすることもなかった。
毎年訪れる北海道のなかでも、 別 海 町 が夫婦の拠点となった。そこにあるオートキャンプ場は一泊六百円で借りられるし、すぐ近くに第三セクターが経営する温泉があって五百円で入浴できる。風蓮湖周辺の景色にうっとりして、そこで二ヵ月近くすごしたこともある。
東京都内にあるワイオミング州観光局の出先機関に相談を持ちかけると「レンタカー旅行」を勧められた。だが日本の道路さえもそれほど走った経験のない者が、左ハンドル・右側通行のフリーウェイに挑めるのかどうか。英会話についても「さっぱり」の状態である。しかし担当の女性は「大丈夫」と言ってくれた。いざ出��となったのは、尾崎さんが六十一歳のときである。 現地ジャクソンホールシティのレンタカーの手続きや保険の加入は日本ですませることができ、書類を持参すれば容易にクルマを借りられた。空港周辺はほとんどクルマの往き来がなく、道路はみごとに整備されていた。これがロサンゼルスやシカゴであれば、たちまち運転に混乱をきたし、立ち往生をしていたことであろう。
この夫婦旅では千百キロメートルを走ったが、これは慣らし運転といったところか。翌年にはニュージーランド(南島)へ出かけ、さらにアメリカ北西部の国立公園、オーストラリアのエアーズロック、ハワイ四島、アメリカ中西部の国立公園、アラスカとワシントンD.C.……と毎年のようにレンタカー旅行をつづけている。
七十歳の年には手術をおこなったあと、秋口に予定している「ユーコン・アラスカ オーロラと大自然をたのしむ六千四百キロメートルのレンタカー旅行」の旅程をたてた。
現地で大型RV車を借り、これまでのレンタカー旅行のように、まずはスーパーマーケットに立ち寄る。発泡スチロールの箱を求め、そこに牛乳、ミネラルウォーター、ハム、チーズ、パンなどを詰めこむ。景色のいい場所があれば、そこがランチタイム、コーヒータイムの場所となる。こうしてユーコンのクロンダイク・リバー河畔にたどり着いた。 オーロラの色は緑色が一般的だが、幸運なことに赤色にもお目にかかれた。
なぜ、ひとり旅をするのか。その理由について、九十二歳の女性は明快に答えてくれた。 群馬県内に住み、生活保護をうけているこの女性は「青春 18 きっぷ」を知って、鈍行列車のひとり旅をたのしむようになった。ローカル線であれば切符一枚で一日乗り放題、五枚綴り(五日分)で総額一万一千五百円というこの徳用切符を買い求めて、一年に何度か遠出をする。私が会ったときは「広島に出かけてきたの」と言っていた。
早朝、着替えなどをおさめた小さな布袋を背負って自宅を出発する。最寄り駅~高崎駅~上野駅と列車を乗り継いで東京駅までやってくると、東海道本線の熱海行きに乗る。熱海から先はその日の体調と相談して、行けるところまで行く。ふらりと降りたった駅の駅員や駅近くの交番の巡査に近辺の安宿を紹介してもらい、素泊まりをする。翌朝、駅の売店でパンと牛乳を買って朝食をとる。高齢ゆえに食は細く、一日二食で充分とのこと。夕食は駅弁ですませるか、毎度のように大衆食堂でうどんを食べるという。翌日、東海道本線~山陽本線でさらに西へとむかい、姫路あたりに投宿する。三日目は目的地・広島の市内観光をして、帰途につく。
しかし私が知りたいのは、なぜこれほどまでにひとり旅がこの高齢の女性を魅了するかということである。答えは「たのしいから」の一言に尽きてしまう。 境遇を知るにつれて、この女性には脱・日常への憧憬がつよくあるとわかってきた。生糸関係の事業を営んできた夫に先だたれ、六十一歳から独居生活を送るようになった。女性が八十二歳のときに、離れて暮らす長男が心筋梗塞により逝く(享年六十一)。長男夫婦には子がなく、嫁とも疎遠になった。その後に、定職にも就くことなく独身のままできた次男が転がりこみ、不本意な同居を強いられ���いた……。 この女性にとって、脱・日常の胸はずむ時間と空間をあたえてくれるのがひとり旅であったのだ。 「列車がのろくても気にならない。私、おしゃべりだから、隣に乗りあわせた土地のひとに話しかけてしまう。気がまぎれるだけでなく、なんだかうれしくなるの。いつも降りるときは握手して別れるんですよ。話し相手がいなくても、車窓から景色を見ているだけで退屈しないの」
長野市に住む大井清志さん(取材時五十五歳)が最初にひとり旅に出たのは、四十四歳のときである。行き先はベトナムであった。 「高校生のころ反戦集会に参加したこともあって、ベトナム戦争後のこの国のゆくえには関心がありましてね。ベトナムとアメリカが国交を回復(一九九五年八月)、旅行者をうけいれるようになったので、訪れてみようという気になりました」 それまで香港、台湾、シンガポール、ハワイなど海外旅行は体験しているものの、いずれも家族同伴であった。ベトナムは観光地として成熟しているのか、夫婦で行くには危険な面もあるのではないか……と、いささかの不安をおぼえたこともあって、ひとり旅をすることにした。
大井さんは、大手製紙会社の長野工場で営業担当として働きつづけてきた。文科系の出身ながら早い時期からコンピューターにも通じ、社内情報システムの構築にも一役買った。そうして「中年」と呼ばれる年齢になったとき「このままでいいのか……」という思いもよぎり、自分を見つめなおすためにも、若き日の熱情を反戦へと傾けたベトナムに旅発ったのである。 以来、十年間にベトナムに五回、ラオスに五回、マレーシアに四回、ミャンマーとカンボジアには二回、途中からこれらの旅の起点に定めたタイにいたっては七回も訪れている。いずれも十日から二週間ほどのひとり旅である。
日本民俗学の創始者・柳田國男は「昔の旅 これからの旅」と題する講演(抄録は筑摩書房版『柳田國男全集 第三十一巻』所収) のなかで、旅を「 群 の旅」と「一人旅」の二つに分けて考察している。 柳田によると、もっとも早く日本で現れた旅は、大勢の仲間とつれだって出かける「群の旅」で、信仰に発した熊野参りなどがその先駆とされるという。この 道者 や 行者 の旅が庶民に広まり、伊勢参拝、 大和 巡り、金比羅詣でとなり、しだいに信仰だけでなく遊覧の趣がつよまってゆく。ここに現在の団体旅行の原型があった。
「一人旅」は近世になっておこったもので、そのはじまりは越中富山の売薬行商に見られるような「あきなひ」にあったのではないかと柳田は推察する。ただしこの旅に先行する流民や浮浪人の「 漂泊」も、旅の一形式でなかったかとも言っている。
六十七歳を迎える年頭、藤本さん夫婦は南米にいた。ペルー~ボリビア~チリ~パタゴニア台地~アルゼンチン~ブラジル~パラグアイと約二ヵ月間、夫婦でバックパッカーの旅をした。妻も若いころからユースホステルに泊まって旅をつづけてきた旅好きである。妻とはその前年の一年間だけでも、タイ遺跡めぐり(一~二月)、イギリス横断の旅(四月)、ネパール・インドの旅(九~十月)に出かけている。
「死ぬまで旅をしたいですね。まずは体力気力のあるうちに遠出をするのがいいと思っています」 首都圏に住まいのある藤本さんはこうつづける。 「東京の町歩きは、もっと とし をとってからでいいよな、と妻には言っています」
作家・司馬遼太郎による『街道をゆく』シリーズは、全四十三巻にもおよぶ歴史紀行の書である。その第一巻「湖西のみち」のなかで、司馬自身が《街道はなるほど空間的存在ではあるが、ひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである》と書いているように、該博な知識のもと歴史という過去の時間のなかに縦横に分け入っている。この一文から察すると、司馬遼太郎は空間的にはもっぱらクルマで点と線の移動をしているにすぎず、地図を這うように移動することよりも、過去へとさかのぼる三次元の旅に精力を費やしたようである。
久米 孚 さん(取材時六十歳)は、 「行けるところまで行く。せいぜい十日ぐらいの予定だよ。無理はしないから」 と家族に言い残し、千葉市内の自宅に近い稲毛海岸駅から「東海道五十三次ひとり歩き」の旅に出た。還暦を迎えた秋のことである。赤いちゃんちゃんこを着せられて祝ってもらってもうれしくもないが、それが再生の記念ということであれば、自分なりに行事を企てたいと考え、かねてから興味のあった東海道歩きをこの機会に実行することにした。
「七十五万歩の東海道膝栗毛を吹聴しているとき、 伊能忠敬 展を見にいくと、伊能忠敬は五十五歳から十七年間かけて各地をまわり日本地図を作製して〝四千万歩の男〟と称されている。私の七十五万歩なんて威張っていられませんな」
芭蕉(一六四四─九四) が門人・曾良 を伴って、江戸を旅立ち、奥羽、北陸の各地を巡遊、さらに大垣をへて伊勢へ参宮するという、いわゆる「おくのほそ道」を旅したのは元禄二(一六八九) 年、四十六歳のときである。全日程は百五十日、歩行日数は五十二日間におよんだといわれている。
芭蕉は四十一歳の秋に『野ざらし紀行』の旅をし、以後亡くなる五十一歳までの十年間のうち、四年七ヵ月を旅に暮らしている。しかしその以前の人生は謎めき、研究者のあいだでも判然としない空白が大半を占める。はっきりしているのは三重県・伊賀上野で最下級の武家奉公人として働き、二十九歳から江戸で暮らすようになったことぐらいである。もっとも新しい芭蕉研究とされる田中善信『芭蕉二つの顔』によると《貧しい生活に耐えながら黙々と俳諧に精進していた、というのが従来描かれてきた延宝期の芭蕉像であった。しかし芭蕉の実像はこれと大きく異なっている。芭蕉は決して貧しくはなかった。むしろ羽振りがよかったといってよい。実生活においては神田上水の 浚渫 作業を請け負うような生活力があり、俳諧においては万句興行を成功に導くような実行力があった》という。
芭蕉が歩いた道を忠実にたどる。ただし芭蕉のように五ヵ月連続の旅をするのではない。四、五日歩いて自宅に帰り、また出かけるという断続的な歩行を繰りかえすのである。冬の寒い日と夏の暑い日は棄権することにして、気候のいい春と秋に旅をするという「三年計画」で気負わずに挑むことにした。歩くのは一日十五~二十キロメートルとする。 それでも背負うリュックは、五���ロ以上にもなる。着替え、雨具、地図、書籍……。克明に「おくのほそ道」をたどるとなると、第一ラウンドの五日間を歩く地図(二万五千分の一)だけでも十枚ぐらいが必要になる。長距離のローカル線を乗り継ぐこともあって、書籍は列車待ちの折や車中で退屈しないよう数冊を持参する。
四国八十八ヵ所は、弘法大師が四十二歳の厄年に四国を一巡して、八十八ヵ所の霊場を定めたと伝えられる。全行程千四百キロメートル以上、ゆっくり歩くと六十日あまりもかかるこの道を、いったいどれほどの人数がめぐったことか。近年では観光バスで一周したり、NHKテレビが各寺の歩き方を紹介したりして、お遍路さんの数は激増しているように思われる。驚いたことに最近、ヘリで一周する上空からの巡拝企画も登場したという。
これまで私が取材した定年退職者の何人もが四国八十八ヵ所を訪れている。その動機と方法が印象的だった人たちについてふれておきたい。 遠藤栄三郎さん(取材時八十歳)は、戦中戦後、働きつづけて一男三女を育てあげた。しかし末娘が嫁ぎ、父親としての役目をおえた直後に待ちうけていたのは、生きる意欲が 萎えてしまった日々である。六十歳をすぎていたが、勤務先である生花の卸売市場では、その気があればまだまだ働けた。ところが、なにもする気にならず、自宅の二階に上がるのも 億劫 になり、無気力のまま布団に伏せる日がつづく。医者は「鬱病」であると言っていた。本人の言葉をかりると「死神に取り憑かれた」となる。
東海道を表街道とするならば、東海自然歩道は裏街道といったところか。 大阪の「明治の森 箕面国定公園」と東京の「明治の森高尾国定公園」を結び、十一都府県にまたがる全長千六百九十七・二キロメートルの山中を抜ける長距離歩道である。周辺一帯は国立および国定の公園に指定されており、たっぷりの自然を味わえる。その名称からのどかな散歩道を想いうかべるが、山あり谷あり、斜面を登ったかと思うと、いまにも崩れそうな崖っぷちの細い道があるなど難所が待ちうけていたりする。
山を越えると里、里をすぎると山、この繰りかえしであった。里では食料品を買い求め、ひと息ついて、山中に分け入る。 「毎日、道を間違えておりました。一時間歩いて、間違いに気づき、また一時間もどる。つらいやら、情けないやら……。しかし慣れるにつれて五分、十分ほどで、こりゃ道が変だとわかるようになりました」 結果を先に書くと、まず小山さんは箕面から高尾まで本コース(約千百キロ)を七回に分け、のべ七十八日間かけて歩き、さらにはバイパスともいうべき山の辺コース(約二百五十キロ)を十七日間、恵那コース(約百二十キロ)を七日間かけて歩いた。所要日数を合計すると百二日間、その間のすべてを持参したテントで野宿をした。旅館はむろんのこと、オートキャンプ場など有料の施設はいっさい利用していない。
「自然のなかに身をおき、溶けこむようにして生きてみたかった……」 大自然のなかに身をおき、あらためて自分に潜む能力を見つめなおす。 小山さんは、中学校を卒業すると写真館に七年間勤め、その後は実姉が経営する料理旅館を手伝った。そして三十歳からは東芝の岐阜工場に勤務し、三シフト制の職場で二十三���以上を働いた。「仕事をするのは、もういいんじゃないか」と思ったのは五十三歳のとき。十五歳から働きつづけてきた自分が、哀れに思えてきたという。退職金をきり崩していけば、二年間は食べられるとわかったので、この時期、大型車ライトエースを購入して、車内で寝泊まりする旅に出た。そして二年後、クレーンやリフトを操作できる特技をいかして削岩機の販売会社に勤め、六十歳からは「時間の贅沢」を極めていくことにしたのである。
熊野古道とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に詣でるための道である。険しい道を踏破することによって、大自然のなかにある三山に至り、来世の幸せを神々に託する。この「熊野詣」は、平安時代の中期から盛んになり、いくつかのルートができあがっていった。 小山靖憲著『熊野古道』によると、古道歩きには二派があるという。ひたすら歩き、できるだけ早くゴールインをしようとする「スポーツ派」と、案内人にしつこく質問を投げかけ、みずからも道端の石仏や道標を調べてまわる「歴史派」である。小山さんは、いずれの派でもない。しいて言えば、やはり「無宿派」となるのか。
「格別な信仰心があったのでもなく、以前から一度は歩いてみたいと思っていた道でしたからね」 東海自然歩道を歩いたあと、小山さんは自宅でじっとしていた。あれほどの旅を体験すると、しばらくは放心状態になり、なにも手につかなかったようである。しかし気分が落ちつくと、また旅に出たくなった。小山さんは中学校の同級生を誘い、気ままに熊野古道を歩くことにした。この旅もテント泊で押し通す。
まずは「紀伊路」を歩く。本来ならば大阪の天満橋から出発して堺市、和泉市、貝塚市、泉佐野市をへて泉南市、さらに和歌山県の田辺市へとやってくるのが正しい歩き方であろう。しかし、この間の六十キロはテント泊が困難そうな市街地がつづくので、すっ飛ばし、いきなり泉南市から歩くことにした。つらい思いをして東海自然歩道を完歩したので、柔軟な発想のもと、ここはたのしく旅をしようとなったのである。 「紀伊路」につづいて、田辺市から 本宮 町 までの「 中辺路」、さらに…
「これだ、これが熊野古道の石畳なんだと、感激のあまり、しばらくその場に立ちつくしましたよ」 熊野本宮大社から熊野那智大社へむかう。熊野古道のなかでも最大の難所とされる三十四キロもの山越え( 雲 取 越)をする。 さらに熊野速玉大社へとむかうが、ここでも道に迷った。自転車に乗った中年女性が声をかけてくれ、三十分も自転車を押して国道まで案内してくれる。こうして旅人に関わりあってくれることからすると、熊野にはひとに優しい風土があるのだろう。
いまや熊野古道めぐりは中高年のあいだで大変な人気である。その日も団体客がバス四台をつらねて、要所を歩いているという。 「おれたちもブームに乗っかってるということか……」 一瞬興ざめするが、自分たちはオンリーワンの旅をしていると思い、気をとりなおす。 二十三日間におよぶ熊野古道三百キロの旅は無事おわった。本州において紀伊半島は最も雨が多い地帯であるといわれるが、そのことを実感した旅でもあった。
富山県警の元警視(取材時八十四歳��は、退職後の「無為徒食」の日々にうんざりしながらも、 八方塞がりの状態から脱けだせないでいた。 「もの忘れは激しくなるし、道を歩いていてもすぐにくたびれる。こりゃいかんなぁと思うがどうにもならんのですよ」 六十代前半は、しだいに気力も失われ、 屍 のようになっていく日々を送っていた。その日常が限界に達したのであろう、ある日突然「カネがなくともテントがあれば日本一周も不可能ではない」と思いたった。
テントと自炊道具を自転車に積んで自宅を発ったのは六十四歳のときである。 朝、富山市内の自宅を西へとむかって発つと、夜には石川県の小松市に到着していた。走行距離は百二十五キロ、自転車という乗り物は一日でかなりの移動ができるとあらためて知った。それまでの鬱屈を晴らすかのように日本海沿岸を駆けぬける。夜は街はずれの雑木林にテントを張る。六日目には鳥取県内に入った。この間、風でテントが吹き飛ばされそうになったり、駅舎の待合室で眠っていると浮浪者に声をかけられたりと、緊張を強いられた。
青森~秋田~新潟~上越を経由して、自宅に帰りついたのは、出発して四十五日後のことである。三千六百七十キロを走破した。 驚くのは、以後の人生の展開である。たとえば富山~片山津(往復二百五十キロ)の日帰り自転車旅行などは苦もなくやってのけていた。だが諸行無常、同居していた実母が亡くなり、妻も大腸ガンにより急逝し、独居生活を送るようになる。その直後の七十一歳のとき、第二回の列島走破を敢行する。さらに八十歳を記念して「これが最後」のつもりで第三回、そして八十四歳のときには第四回……と自転車とテント泊の旅をつづけていた。この間に再婚もした。 「自転車旅行をすると、そのあとかならずいいことがありますよ」 定年後につかみとった八十翁の確信である。
旅行ブームがいきつくところは、いくつ異国を訪れたかという「国盗り物語」になってしまうのか。無限の好奇心を否定するつもりは毛頭ない。私も「なんでも見てやろう」のクチであり、一国よりも二国、二国よりも三国を体感したほうが見聞は広まると素朴に思っている。しかし反面、自分なりのライフワークがあると、それにむけて日々の励みが集中していくように、それぞれの「こだわり」をもとに構想や企画を打ちたて、自分らしい旅を重ねると独創的な「大旅行」ができ、満足感も大きいのではないかという思いがつよくある。
旅する人たちが発信するホームページやブログを見ていると、このタイトルに出くわした。どのような旅かというと、ピラミッドに象徴されるような、 尖った石の建造物に出会いにいく旅であった。ミャンマー、タイ、メキシコ、イラン、トルコ、ペルー、インドネシア、シリア……など、そこには世界の遺跡をめぐった体験が綴られ、掲載された写真を見ているだけでたのしくなる。
このHP『tomo-san's home』( http://www4.airnet.ne.jp/tomo-san/)の主は、関西在住の土肥智子さん(取材時四十八歳)である。職場では経理事務をこなしながら、独身の身軽さもあって、興味のおもむくまま国内外の旅をつづけてきた。最初から「〝とんがり石〟の旅」という構想があったのでもない。あるとき、わが旅の記録を整理していると遺跡、それも石の建造物に関心が集中しているのに気づいた。それならばと以後、旅行会社の DM やメールマガジンを見るにも「とんがり石」にこだわることにしたという。
「農民芸術」と呼ぶのは、かかしが民俗文化財であるだけでなく、そこに折々の農民の胸の内が表現されているからでもある。終戦直後には失われゆくいかめしさを強調するためなのか、不要となった鉄カブトと軍服をまとうかかしが見うけられた。昭和二十年代の後半には、農村の新しい風として「考える農民」が喧伝されたせいもあって動くかかし、不況により合理化が推しすすめられると棒にビニールをくくりつけただけの省力かかしや肥料袋に 藁 をつめただけの手抜きかかしが出てきた。男たちが農村に進出してきた工場で働き、妻たちが田畑を守るようになると女装のかかし、さらに学生運動が盛んになるとヘルメットをかぶった左翼かかし、マネキンのお古を利用したポルノかかしなどが水田をにぎわした。
旅のキーワードやテーマは、ひとそれぞれにある。 町井貞一さん(取材時九十一歳)は、市役所を定年退職してから興した測量設計会社が軌道に乗り、八十五歳まで働いた。 「これじゃ仕事に追いまくられるだけの一生でおわってしまう」 仕事への未練を断ちきるためにも以後は夫婦でドライブ旅行をするようになった。ただし、漫然とした旅をしていると、たちまち仕事に舞いもどりそうでもあり、仕事にかわる達成感を味わえるような旅の企画をたて、実行していった。「小京都めぐり」「松尾芭蕉を訪ねて」「神宮と名のつく神社めぐり」等々。下調べに一週間、旅に一週間、帰ってからの整理に一週間……という具合に、時間を三分割して深く旅を堪能してきた。
こうした企画の集大成が、八十八歳のときにやってのけた「桜前線を追う日本縦断」の旅である。まずは百科事典や歳時記などで全国各地の桜の名所を調べ、つぎに名所のある市役所に見ごろの日を問い合わせ、資料も取り寄せて場所の確認をする。そうしてみずから日本地図を作製して( 図版 14 参照)「桜前線」を描く。その年の気候によって「桜前線」の通過時期に変化をきたすが、とりあえずは基本を踏まえて柔軟に対応することにした。
三月二十日、京都府内の自宅を発つと、大阪からフェリーに乗って宮崎へ。宮崎神宮~霧島神宮~えびの高原~吉野ケ里~太宰府天満宮~ 防府 天満宮とまわりつつ、北上する。「桜前線」の動きをにらみながら、毎朝、翌日泊まる予定の宿に電話を入れる。泊まったのは民宿、ペンション、国民宿舎、湯治場など、あくまでも〝桜〟本位で選んだ。 吉備 総社 ~草津~関宿場街道~鈴鹿~恵那~駒ケ根~諏訪大社~甲斐駒ケ岳~河口湖をへて、東京・千代田区の千鳥ケ淵に到着すると、桜は散りかけており、間一髪でまにあった。
「カネはないが時間はたっぷりあるので、いちばん安い交通手段を極力利用しました」 たとえ予算が十万円ほどであっても、それを〝時間〟で補い二十万、三十万円の価値を生みだすように遣うのが加藤さんの旅の信条である。第四章で紹介した小山義雄さんとおなじであった。
小笠原諸島(東京都) のなかで住人がいるのは父島と母島だけ、ただしいったん母島に渡ると、なかなか父島に帰れず、計二十日間の滞在となった。環境保護のためなのか島でテントを張ることができない。いたしかたなくユースホステルを利用したが、費用節約のため素泊まりとし、庭を借りうけて炊事・洗濯をした。
「離島」のなかで渡航に手こずったのは、意外にも青ケ島(東京都) であった。伊豆大島から一日一往復の船で渡るのだが、天候に左右されるので年間就航率は四十三%とのこと。加藤さんが乗船しようとする日にかぎって欠航となり、挑戦四回目にしてやっと念願がかなえられた。 「渡れたものの、今度は帰れなくて……」
単車で「日本全市」「全米州都」めぐり 「おカネが潤沢にあって、いつでも旅行はできるとあのころ思いこんでいたら、どうなっていたことやら。いつまでたっても腰をあげていなかったのではないでしょうか」 化学会社の元技術者・飯島英雄さん(取材時八十五歳)は、自身の「大旅行」の数々を振りかえってこう語る。旅の企画と行動がからみあって、つぎつぎ構想がふくらんでいったひとである。 退職する直前、これからは暇つぶしに近隣を駆けるのもいいと、一台の五〇 cc スクーターを買った。会社を去る日、後輩から「記念の海外旅行はどちらへ?」と尋ねられ、返答に窮した。それまで海外どころか国内すらそれほど旅をしていなかったのである。まずはこの引け目を払拭するため敢行したのが「日本一周全市めぐり」の旅であった。
当時(昭和五十九年)、北は稚内市から南は石垣市まで全国に六百五十一市があって、それらすべてをスクーターで訪れた。その証明として各市庁舎の前に立つ自分の姿を撮影することにした。自分にふさわしい定年のセレモニーといったところか。百二十八日間かけて全市をまわり、全走行距離は一万八千キロメートル、総費用は約九十万円であった。
その翌年、海外旅行として手はじめにアメリカへとおもむく。ただし、これもまた独創的な、アラスカとハワイを除く「アメリカ四十八州都めぐり」である。渡米すると、すぐさま二五〇 cc バイクを購入して、各州都を訪れる。百日間に及ぶその旅の全走行距離は約三万キロメートル、総費用はバイク代もふくめて百四十万円という、信じられないほどの安さである。千三百ドルで買ったバイクは、帰る間際に六百ドルで売却した。こうしたちえ が旅を可能にした。
そして七十歳を機に、リュックを背負って「中南米・アフリカ四十五ヵ国」の旅に発った。この旅によって計「百ヵ国」の「国盗り物語」を完結させるつもりであった。しかし政情不安の国があり、体調を崩したこともあって、訪れたのは三十三ヵ国に 止まった。百三十日間、総費用百三十万円の旅であった。 「総計八十八ヵ国になります。この縁起のいい数字で私なりの達成感を味わっております」 そのあと一ヵ国たりとも訪れていない。その理由は、聴覚に異変が生じ、しだいに相手の声を聴きとれない状態になったからである。いま何度も問いかけて、やっとのことで飯島さんから返事がある。
「テレビを見ていても、つまらないですよ。唯一、たのしみは相撲中継でしょうか。あれだけは映像だけでわかりますからね」 そして言う。 「行けるときに行っておいて、ほんとうによかった」 旅の写真を見て、思い出にふけり、眼を細める。
ヨー��ッパを一周する絵画鑑賞ツアーがあると知って、飛びついた絵画好きがいた。ギリシアを振りだしにスペインまで、約一ヵ月かけて美術館をまわる旅行であったが、パリのルーブル美術館にしても訪れたのは半日だけ、移動につぐ移動で、結果は不満だけが残った。 木室公生さん(取材時六十八歳)は、幼いころから絵は観るのも描くのも好きで、勤務先の放送局が東京・銀座に画廊を設けたときは、アナウンサーでありながら望んでその責任者になった。
そのヒントとは、ヨーロッパに定住して、そこを拠点に行動すれば諸費用が安くつき、年金生活者でも可能ではないのか、というのである。たまたまポルトガルを旅した写真家の話を聞くと、その地は気候も人情もよく、物価もヨーロッパでは最安であるということだった。 五十八歳にして辞表を提出した。 「定年まで待っていられない。はたしてそのとき体力気力はあるのか。なにより怖れたのは、感受性がにぶって、絵を観ても感動しないんじゃないか、と」 退職後、東京都内の語学学校でポルトガル語を学びながら、移住計画をすすめていった。結果を先に書くと、移住後、世界二十七ヵ国を旅し、百二十七ヵ所の美術館を訪れるという旅を、年金の範囲内でやってのけたのである。
日本にもどると、東京・港区にある自宅マンションを「五年間」の期限つきで貸しだすべく、海外駐在者の留守宅を管理する不動産業者に周旋を依頼した。期限つきなので家賃は相場の八掛けとされたが、それでも毎月十六万円の家賃収入を得られることになった。それまでの家具調度品については、これもまた海外駐在者が利用する倉庫会社に依頼して保管してもらう。その代金は毎月二万三千円であった。
美術館の宝庫、フランスのニースは、東京から名古屋へ新幹線に乗るような料金で行けてしまう。リスボン~ニース間の航空運賃は往復で二万円前後であった。ニース市内およびその周辺の南フランス各地には、シャガール美術館、マチス美術館、シェレ美術館、レジェ美術館、ピカソ美術館、アノンアード美術館などがある。街歩きをしていても、胸がはずむ。
リスボンからヨーロッパのみならず、サンパウロ、ニューヨーク、サンクト・ペテルブルク、エジプト、トルコ、モロッコ……へと飛んだ。五年間、一度も日本には帰らず、その旅費はさらなる美術館めぐりにまわした。 「世界の名画は自分のものと思っています。それらは世界各地の美術館に預けてある。預けっぱなしではいかんので、いっぺん観とこうという考えでしてね。……いつかお迎えがきて死ぬ。そのとき私の頭のなかに刻みつけたコレクションを鑑賞しながら、やすらかな境地で逝きたい」
「旅の名人」は「人生の達人」
戦前は看護師、戦後は自宅を助産所にして働きつづけ、九百人以上の出産に立ち会った。振りかえると戦争に翻弄され、他人の幸せの手助けをし、自分は独身のまま六十歳を迎える人生であった。
生まれてはじめての海外は、五十七歳のとき小学校の友人たちと出かけたハワイであった。それまでにない刺激があって「これからは私もたのしもう。六十歳になったらいろんな国に行こうと決めたのよ」と言う。孤独になりがちな老いを少しでも華やかに送りたいという気持ちがあ���たのだろう。そして、ひとり旅をするようになる。
「脚が丈夫なうちに遠くに行くのがいい」 ということで、まずはメキシコ、つぎに南米と、一年に二、三回海を渡った。「ようカネがあるなぁ」といぶかる 幼馴染みに、山崎さんは「普段、倹約しているからね」と答えていた。美容院にも行かず、化粧品を買うこともなく「海外旅行」という一点豪華主義を貫いた。 「出費のすべてが旅行代といってもいいぐらいやね」
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