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よく考えて見たら、「お米を作るために、技術をつけなければ」といって、畦塗りだけを部分的にどこかで練習したり、草むしりに仕方を部分的に練習する、そういう人はいないと思う。あくまで、「お米を作る」という「実践」の中で、「畦塗り」や「草むしり」の仕方は身についていくし、それをしないと「お米を作れない」から、「やるしかないからやる」というものだと思う。このような「実践」に際しての「受動性」を含んだ「方法」のことを、本来は「技術」と呼ぶんではないかという気がした。例えばヴァナキュラー建築であるとか、棚田とかは、先行的に、「それを作らないと生きていけない」というのがあって、そこに付随して、いろんな「技」があったということだろう。この「それを作らないと生きてはいけない」という所が、意外と技術考察においては、みそになってくるんでないかと思う、つまりこの「大地」での「死」の回避。
アートにおいても、結局独立した技術を身に着けるということは出来なくて、あくまでも、現実的に作品を作り上げて行く時に、それは身について行くものだと思う。「技術をつけるために練習する」というのは、あまりに違う。まずは、「呼びかけ」や「作らなければいけないと実感させられる世界からの働きかけ」があって、最終的に「かたち」を出す上で、そうした技術が必要となるだけだろう。もっと言えあ、そこにしか「技術」はない。
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技術が本来それであるところのものには、道具、器具、機械の制作と利用とが属し、製作され利用されるもの自体が属し、また技術が役立つべき必要と目的とが属している。このようにしかるべく整えることの全体が技術
現前していなものから現前へとつねに移り行き進み行くものにとってのあらゆる誘発は、ポイエーシスであり、‹こちらへと-前へと-もたらすこと›である
★たとえば花が、それ自体において、咲くことへとほころびることがあるからだ。これに対して、手仕事的・芸術的に‹こちらへと-前へと-もたらされたもの›、たとえば銀の皿の場合、‹こちらへと-前へと-もたらすこと›の裂開は、それ自体においてではなく、別のものにおいて、すなわち職人と芸術家とにおいてである
‹こちらへと-前へと-もたらすこと›がそれ自体の固有性を出来させるのは、ただ伏蔵されたものが不伏蔵的なものに至る場合だけ
技術は単なる手段ではない。技術は開蔵のひとつのしかたである。
テクネーは、‹こちらへとー前へと-もたらすこと›、すなわちポイエーシスに属するのである。それゆえ、テクネーはなにか詩的なもの
★テクネーが開蔵するのは、それ自体を自分からは、‹こちらへとー前へとーもたらすこと›なく、まだ手許にはないようなもの、それゆえ場合によってさまざまな外観を呈しうるし、さまざまな結果にもなりうるものである。
★そのものから製作のしかたを決めるのである
技術は開蔵のひとつのしかたである。技術がその本質を発揮するところとは、開蔵と不伏蔵性とが、すなわちアレーテイアが、真理が生起する領域
現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発-引き渡せという要求を自然にせまる
★かつてこれを農夫が耕作したとき、耕作とはなお、育てること、手入れすることを意味した。農夫の行為は耕地の土壌を挑発しない。穀物の種を蒔くという農夫の行為は、種をその成長力にゆだね、そしてその成長を見守るのである
近年では、畑地の耕作も、自然を調達する、これまでとは別種の用立ての吸引力に巻き込まれてしまった
挑発する調達によって存立するものに固有なのは、いったいどのような種類の不伏蔵性だろうか?いたるところで求められているのは、即座に使えるように手許にあること、しかもそれ自体さらなる用立てのために用立てられうるようにあること
必要なのは、つねにすでに人間に呼びかけ、その労力を要求しているあのものを、先入観にとらわれずに聞き取ることだけである。人間はそのように呼びかけられ、要求された者としてのみそのつど人間でありうる。それほど呼びかけは決定的なのである。人間は、つねにその目と耳を開き、その心を打ち明け、思慮と願望、陶治と仕事、懇願と感謝とを惜しまないなら、自分がいたるところですでに不伏蔵性なもののうちにもたらされているということに気付く
不伏蔵的なものの不伏蔵性は、それが人間を、彼に割り当てられた開蔵のしかたに呼び出すたびごとに、すでにそれ自体の固有性を出来させている
人間が、研究しつつ、観察しつつ、みずからの表象の一領野としての自然を追求するなら、彼はすでに開蔵のひとつによってよびかけられている
この開蔵は人間のなすあらゆる行為のどこか彼岸において生起するのだろうか?そうではない。しかし、それはただ人間のうちにおいて生起するのではないし、決定的に人間によって生起するのでもない
永続するの代わりに、吠え続けるという語句を用いた
まず、技術的なものばかりを見つめるのではなく、技術においてその本質を発揮しつづけているものを洞察すること
技術を道具とみなすかぎり、われわれはそれを操ろうという意志に固執したままにとどまる
人間は大地に、詩人的に住む