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1、古典世界の醜‥イデア
2、受難、死、殉教
3、黙示録、地獄、悪魔
4、モンスター(怪物)とポルテント(予兆)
5、醜悪なもの、滑稽なもの、猥㐮なもの‥カリカチュア
6、古代からバロック時代までの女性の醜さ‥マニエリズム
7、近代世界の悪魔‥サタンから哀れなメフィストテレスへ
8、魔女信仰、悪魔崇拝、サディズム
9、フィジカ・クリオーサ(肉体への好奇心)
10、ロマン主義による醜の解放‥美の黄昏
11、不気味なもの
12、鉄の塔と象牙の塔‥ロンドン、デカダンス
13、アバンギャルドと醜の勝利‥シュールレアリズム
14、他者の醜、キッチュ、キャンプ
15、現代の醜
絵や参考文献に圧倒される。芸術史の総ざらいといった感じ。
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電車の中で読めない重さと、刺激的な絵画の数々。
「醜」という強烈な表現は、厳しい現実の奥をさらけ出す力を持っています。ヨーロッパの各時代の歴史、宗教、美術を知らないと
ただ重いだけの本になってしまいます(汗
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表紙とタイトルからまるで教科書のような堅苦しい印象を受けますが、第五章まで読み進めてみるとその初感もだいぶ変わってくると思います。
美しく精密に表現された多様な醜いものたち(悪魔であったり、老女であったり、奇形だったり)の妖しげな魅力もさることながら、
この本のページの大部分を占める「臭い老女」「不快な悪臭」、「醜い乳房」だのの古今様々な物語や歌集からの"醜"にまつわる抜粋文章が非常に刺激的で、興味深いです。
中でも、長年様々なケツの拭き方を研究し、ついに最高の尻の拭き方を発見したと宣言するところから始まる「尻ふきの発明」は必見です。
野グソ中に草むらで見つけた猫でケツを拭いてみたり、帽子や襟巻きで拭いてみたりと色々試行錯誤を繰り返していきますが、
何でもその結論によると、産毛生えたての鷲の雛鳥にまさる尻ふきはないのだそうです。これは大変勉強になりました。
その他にも、「ドーナツの上に排便」という題の、大人二人が尻を突き合わせて皿の上のドーナツに糞をしているまさにその様子を彫刻した作品などが載せられています。
すぐ隣の右ページには、何かを訴えかけるような表情でアクロバティックな態勢でお互いの顔に屁をふっ掛け合う痴愚神が描かれています。
そのどこか遠くを見るような眼差しと見つめ合えば、口に含んだ爽健美茶が初夏の夜霧となるのも時間の問題というものです。
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幅允孝さんがマイベストに挙げるウンベルト・エーコ『醜の歴史』。
わが子を喰らうサトゥルヌスからSWのヨーダまで。西洋の美と対になる芸術が次から次へと出てくる。
醜には逆説としての美が潜んでいて、怖いもの見たさについついページを繰ってしまう。
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どの時代にも醜いものがあります。
古典世界から現代に至る醜さを集めたものがここに。
まるで図鑑のような情報量の多さなのですが、どうも絵にばかり目がいってしまいます。
なぜなら本当に綺麗で魅力的な、醜さがそこにあるからです。
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『美の歴史』の姉妹編である。造本もレイアウトも『美の歴史』を踏襲してゴージャスな本となっているが、ひとつ異なる点がある。本文の活字が一回り小さいのだ。『美の歴史』は 1行33字だったが、こちらは 1行に36字詰めこんでいる。あてずっぽうだが、『美の歴史』より文字量が二割か三割多いようである。
なぜ『醜の歴史』の方が文字が多いのだろう。一つ言えるのは「美」は「美」単独で語れるが、「醜」の方は「美」と照らしあわさなければ本として成立しないということがある。虫の好かないものも巧みに模倣されれば美となるというアリストテレスの言葉が序文に引かれているが、本書があつかう「醜」はあるがままの「醜」ではなく美的対象に高められた「醜」なのだ。
もう一つ、幸福な家庭は似たりよったりだが、不幸な家庭はそれぞれ違うと言った作家がいるが、「美」と「醜」では「醜」の方がはるかに多様である。本書を開けば歪んだり、不均衡だったり、責めさいなまれたり、苦悶したり、死に瀕していたり、幽鬼のようであったり、怪物じみていたりと、「醜」の広がりに圧倒されるだろう。
「美」の場合は古代ギリシアにおいて比例・調和という柱が確立されていたが、「醜」の場合は「悪」が一つの柱になるだろう。ギリシア文化には地下に黄泉
ハデス
の国があるが、そこは悪に支配されたおぞましい領域であり、ぞっとするような生き物が徘徊している。それは人を惑わすセイレンであったり、猛禽類と女体が合体したハルピュイアだったり、蛇の髪と猪の蹄をもつゴルゴンだったり、獅子の胴体に人の頭部をもつスフィンクスだったり、人の胴体に牛の頭部をもつミノタウロスだったりする。
ところがキリスト教が登場すると、「醜」=「悪」は神の秩序の中にとりこまれてしまう。宇宙は神が創造したもうた以上、全宇宙は美であり、一見不調和で醜いものも全体的調和の一部だというわけである(アウグスティヌス『秩序論』)。これでは異教の怪物たちも形なしである。
それどころではない。キリスト教は罪人として十字架に架けられ惨めに死んだ男を神と崇める宗教であり、「醜」は神の一部なのだ。アウグスティヌス『説教集』から引く。
十字架にかけられていた主は醜かった。しかし、その醜さがわれわれの美となるのだ。現世では、われわれは醜いキリストにすがりつこう。醜いキリストとはどういう意味か。われらが主イエス・キリストが十字架に架けられなかったら、私が栄光に導かれることはあり得ない。主によって、全人類が私のために十字架に架けられるのであり、私も全人類のために十字架に架けられるのだ。キリストの醜さとはそういう意味だ。
もっともキリストのむごたらしい死を受けいれるのにヨーロッパ人は千年を要した。初期キリスト教美術で描かれるキリストは理想化された「善き羊飼」であり、十字架は抽象化されたシンボルとしての十字架にとどまった。これにはキリストの神性と人性をめぐる神学論争も関係していたようだ。
中世後期になると磔刑が写実的に描かれるようになり、ルネサンス以降は十字架で酷たらしく殺され、苦悶の表情を浮かべるキリストが��れでもか、これでもかというばかりに描きこまれるようになる。聖者の殉教もキリスト教美術の重要な画題となる。
一方、万人に訪れる死を想いださせるための「死の舞踏」や生きている内に悔悟をうながすための「死の凱旋」というテーマも流行した。ペトラルカの『死の凱旋』という死を引用しよう。
此所にて、幸せな人と称されし者ども
教皇、王侯、皇帝ども、今や
まる裸で、悲惨な乞食の有様なり。
かの財宝は、今いずこ? かの名誉、
宝石は、笏杖は、王冠は、
司教位の冠は、緋色の衣は、今いずこ?
滅びゆくものに、希望を抱く人こそ、哀れなるかな!
北ヨーロッパは深い森に覆われていたが、そこにはキリスト教によって放逐された異教の怪物たちが逃げこんでいた。中世人たちは怪物に引かれ、聖堂の破風や柱頭を怪物で飾った。また怪物に道徳的寓意をあたえることでキリスト教世界にとりこんだ。『フィシオグロス』などの道徳的動物誌が流行した。その一節を引用しよう。
ユニコーンは額の中心に角が一本生えている。その狩の仕方であるが、汚れなき乙女を使う。ユニコーンは乙女の膝に飛び込み、その乳を飲み、それから王の宮殿へと連れて行かれる。ユニコーンは救世主の象徴である。実は、ユニコーンは処女マリアの膝を棲処としたのである。
こうした奇々怪々な動物誌は未探検の土地へのあこがれをはぐくみ、旅行記がもてはやされるようになった。さまざまな旅行記が驚異
ミラビリア
を伝えたが、もっとも成功したのは12世紀にあらわれた作者不詳の偽書簡『プレスター・ジョンの手紙』である(『バウドリーノ』参照)。その一節。
余、プレスター・ジョンは君主たちの王であり、天が下にあらゆる富、徳、権力において、地上のあらゆる王を凌駕する。
われらの領地に生息する動物はグリフォン、虎、ジャッカル、ハイエナ、野牛、サギタリアス、野生の人間、角のある人間、ファウヌス、サテュロス、それぞれの種の雄、ピグミー、犬頭人間、四十キュピットの背丈の巨人、一つ目の動物、サイクロプス、フェニックスと呼ばれる鳥、天穹の下に棲まうほぼあらゆる種類の動物がいる。彼らは皆、天からの食べ物しか口にせず、五百歳まで生きる。しかし、百歳になると、そこにある木の根から湧き出る泉の水を三回飲み、若返って力を取り戻す。われらのうちには姦淫する者はいない。いかなる悪徳もわれらに力を及ぼさない。
醜い怪物は未知の土地だけでなく、ヨーロッパでも徘徊するようになった。悪魔と魔女である。異教の知恵をつたえる女たちが魔女のぬれぎぬを着せられて火刑にされたが、魔女裁判が猛威を振るったのは意外にもルネサンス以降であり、アメリカを含む新教諸国でも盛んにおこなわれた。
そもそもルター本人からして悪魔にとり憑かれていた。『卓上語録』には次のような笑うに笑えぬ条がある。
しばしば私は悪魔をおならで追い払った。ばかげた罪で誘惑されたときには、こう言った。「悪魔よ、昨日もお前におならをしてやったが、ちゃんと帳簿につけたか?」
目が覚めると、すぐに悪魔がやってきて論争をふっかけるので、しまいにはこう言���てやった。「俺の尻をなめやがれ……」
敵対する集団を悪魔視する傾向はどの社会にもあるだろうが、イスラム教徒とユダヤ人を罵倒した15世紀のフェリクス・ファブリの『聖地、アラビア、エジプトにおける巡礼』のような文献ほどあからさまな例は他にないだろう。
サラセン人はある種のひどい悪臭を放つが、そのために彼らにはさまざまな種類の沐浴の習慣がある。また我々ヨーロッパ人は臭わないから、彼らは我々が一緒に入浴しても気にしない。しかし、ヘブライ人に対しては同じように寛大ではない。ヘブライ人はサラセン人よりさらに臭うからである。サラセン人は我々ヨーロッパ人が彼らの風呂に入るのを歓迎する。なぜらなら、レプラ患者でさえ健常者と一緒になると喜ぶように――健常者が侮蔑されているからではなく、レプラ患者が健常者との接触が自分の病気を癒すのに役立つかもしれないと考えるからである――、悪臭を放つサラセン人は我々のように臭わない者と一緒になるのを喜ぶのである。
いちいち紹介しているときりがないので、最後に『バウドリーノ』の聞手となったコンスタンチノープルの歴史家ニケタス・コニアテスの『年代記』の引用で締めくくりとしよう。ビザンチン皇帝アンドロニコス一世が失脚し、処刑される条である。
これらの拷問に苦しみ、他にもここでは語らない無限の責苦にあわされたのだが、アンドロニコスは強靭な魂の持主であったから、これらの災いに襲われても、果敢に耐えていた。彼が殴りかかってくる者たちの方を振り返って言ったのはこれだけだった。「主よ、憐れみたまえ」、そして「なぜ、お前たちはこのもう折れている葦を押しつぶすのか?」両脚から吊り上げられた後でも、愚かさきわまりない群衆は、責めさいなまれたアンドロニコスを放っておくことも彼の肉体を容赦することもせず、彼が着ていたものを剥ぎ取り、彼の生殖器を切り落した。悪党が長剣を彼の口腔から内臓へと突き刺した。ラテン人が何人か、彼の肛門に新月刀を突き立てた。そして、周りに並んで剣を抜き、どの剣が一番切れ味がいいかを試し、一撃を加えては自分たちの腕前を自慢しあった。
他にも面白い文書が目白押しだが、ぜひ図版といっしょに味わってほしい。西洋三千年の文明の底知れなさを垣間見ることができるだろう。
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図版は面白いが、訳文がひどすぎる-
豊富な図版とこれらに付された引用文献の数々、その対置は博覧強記、Umberto.Ecoの躍如たるものではあろうが、如何せん翻訳が拙すぎる。
訳者の川野美也子は「翻訳に関しては、原書に対応したレイアウトの関係上文字数に制限があったためと、著者の思考回路をなるべくストレートに辿っていただくためにあえて直訳に近い形にいたしました。」と記すが、直訳どころか逐語訳にもひとしく、文脈の辿れぬ熟さぬ日本語には辟易もいいところ。これではEcoの深意がどれほども伝わるまい。
これほど未熟な訳をもって、ぬけぬけと豪華本の如き体裁をなし、鳴物入りで出版する会社も非道いものだが、新聞などでお先棒を担ぐかのような書評を書いている有識の御仁たちには呆れかえるばかり。
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ウンベルト・エーコと言えば、『薔薇の名前』。『薔薇の名前』は昔、読んだ。『フーコーの振り子』は挫折したような気がする。本書は、そのエーコが著わした、古今の西洋美術から醜いものの系譜を辿ろうという大部。とにもかくにも高価で重い(物理的に)本だ。図書館に予約を入れてから知ったのだが、『美の歴史』の続編としての『醜の歴史』であり、基本的には美に対しての醜、調和に対しての不調和、快に対しての不快の本である。冒頭、イタリア語と日本語で美と醜の類義語が数十ずつ並べられる。それだけ美にも醜にも様々な色合いがあるというわけだ。醜の多様な局面を15の章に分けて、絵画や彫刻そして文学作品の引用とともに、解説が紡がれていく。図版の豊富さ。テキスト引用の多さ。これだけのものを1人で編纂するエーコの頭の引き出しの大きさには絶句する。碩学とはこういう人を言うのか。しかし決して取っつきにくい本ではない。峻厳な崖ではなく、奥深き森といった感じだ。造詣の深い人は深いなりに、素人は素人なりに、ラビリンスのような森の中で遊ぶことが出来る。朝日新聞の書評で横尾忠則氏が述べていたように、とりあえずは論評にまったく目を通さず、絵だけを眺めるのも「あり」なのだ。もちろん、解説を読めばさらにおもしろいのだけれど。いったい、「醜」って何だろう。読み終わってほぉっとため息が出る。その価値観は時代によっても振れ幅が大きいのだろうし、地域にも、そしてもちろん個人にもよるのだろう。自分が「醜」と思うものを突き詰めることは、すなわち自分を知ることでもあるのだろう。いや、恐れ入りました。すごいです。第一作目の『美の歴史』、それから今執筆中らしい第三作目もそのうち読んでみたい。*自分にとって一番気持ち悪かったのは、アルベルト・サヴィニオの『ロジェとアンジェリク』。気持ち悪いと思いつつ、何度も見てしまう。原典が多分あるんだろうと思うのだけれど見つからない。サヴィニオはデ・キリコの弟。形而上絵画派の一員。この一派の一人のピシスの妹がマンディアルグと結婚したんだそうで。*野蛮人を表す「バーバリアン」。元々はギリシャ語の「バルバリ」=もごもごと訳のわからない言葉を話す人々から来ているのだそうだ。異質なるものは蔑みや排除の対象になるのだなぁ。*自分が醜いと思うものにもっとも近いのは魔女のイメージかも。白雪姫のお妃が化けたような。本書中に、中世、火刑に処された者が魔女ではないかと告発されたのは、多く、「醜女」であったからだとあった。これには唸らされた。*中野京子の『怖い絵』シリーズで出てきた絵もかなりの数、収録されていた。「怖い」と「醜い」。切り口が違うとまた新鮮だ。*とはいえ、このところ、恐ろしかったり気持ち悪かったりする絵の本を読むことが多かったので、何だかすかっと明るく美しいものも見てみたい気になってきた。何事もバランスが大事・・・?
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寝る前に、布団の中でなんとなく開いたら、青黒い闇の中に浮かび上がったルシフェルの画。
ぎょっとして、本をベットから落としてしまった。
殉教・黙示録・怪物・醜悪・滑稽・猥雑・老い・悪魔・魔女・サディズム・不気味なものなど、ありとあらゆる醜というか恐怖が、古典〜近世〜現代、様々な手法で描かれ表現された多くの作品が紹介されている。
かなりヘビーです。
次に何がくるのか、ページを繰るのに心の準備が必要。映画スチールも多く紹介されていて、「ロッキー・ホラー・ショー」の写真もあり。ああ、これもそうなんですか?きゃ〜♪一緒に唄って踊っちゃうぞ♪てな感じでうきうきしつつも・・・全体的にはかなり緊張して鑑賞。
先に「美の歴史」を鑑賞し、その美しさにほっとため息ををついたけど、やはり人間の本質に迫る「醜の歴史」の作品群は強烈。
夢にみそうです。
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世間一般に「醜い」と思われているものに惹かれてしまうのはなぜだろう。そもそも、それを「醜い」と判断するのは誰なのだろう。不特定多数の意見が常に正しいわけではない。美醜の境界はとてもとても曖昧で、本書に書かれている通り、まさに「相対的」なものだ。個人によっても時代によっても変わる。醜いものが常に醜いわけではないのと同様に、美しいものが常に美しいわけではない。そういう観点からすると、美術とはなんと個人的な世界であることか。眩暈がする。
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読んだというか、文を全部すっ飛ばして観たというか。
「美」と同様に、「醜」にも強い引力がある。
残酷で、醜悪で、おぞましく、身の毛がよだつもの。
そういうのは、正直惹かれるものがあるのだけど、観ていたらやっぱりお腹がぎゅーっとなって、ムカムカしてきて、吐き気を催す。
でもどこかが麻痺する感覚があって、ずっとこういう世界に浸っていたらやばくなるんだろうなぁというのはおぼろげながらわかる。
ああ、安部公房の小説とかに近いかも。
ただ、醜の歴史、といっても西洋の価値観での「醜」ではあるけれど。
『マクベス』の「きれいはきたない きたないはきれい」という言葉がなんか実感。
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古典文学から美術や魔術なんかの悪魔とか異形とか
あらゆる意味合いの「醜さ」を、もう山盛りで紹介解説の本。
引用文献も写真や挿絵も多く、文字数も、ページ数も
めまいがするほど多く、寝てしまうこと必至。
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こわいきもい絵がいっぱい。でも絵だし大丈夫だいじょうぶユーモラスなものもあるしと面白がってペラペラ見てたら後半にマジモンがあってキツくなる。エーコ先生の解説だったはずだが、いつの間にか世界の文学からの引用に頼るようになってくるという編集。あらら。
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[ 内容 ]
現代の「知の巨人」エーコが、絵画や彫刻、映画、文学など諸芸術における暗黒、怪奇、魔物、逸脱、異形といった、恐ろしくぞっとするものを徹底的に探究。
本書は、世界的に好評を博した『美の歴史』の手法により、「醜」の多様性と傾向を明らかにする。
なぜ我々は死、病、欠陥を恐れるのだろうか?
はたまた醜さが持つ磁石のような魅力はいったい何に由来するのだろう。
ミルトンのサタンから、ゲーテのメフィストフェレスまで、魔術と中世の拷問から、殉教、隠者まで、神話上の怪物から、夢魔、食人鬼、デカダンス、あるいはキャンプ、キッチュ、パンク、さらには現代美術まで、実に興味深い構成とトピックにより議論が展開される。
[ 目次 ]
古典世界の醜
受難、死、殉教
黙示録、地獄、悪魔
モンスター(怪物)とポルテント(予兆)
醜悪なもの、滑稽なもの、猥褻なもの
古代からバロック時代までの女性の醜さ
近代世界の悪魔
魔女信仰、悪魔崇拝、サディズム
フィジカ・クリオーサ(肉体への好奇心)
ロマン主義による醜の解放
不気味なもの
鉄の塔と象牙の塔
アヴァンギャルドと醜の勝利
他者の醜、キッチェ、
キャンプ
現代の醜
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
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醜とは何か。
本書はウンベルト・エーコが様々な観点から醜について論じている。論じているわけだが、多彩な絵画や写真、引用を用いているので、画集のようでもある。
印象としては、宗教的な醜(悪魔的、異教的)や病気、差別的なものなど、異なるものに対して醜と捉えるという視点で展開されているように感じる。それは、主に西洋的な感覚であって、東洋人的には、異質と感じる部分もある。