紙の本
大きな変化が求められている時代
2010/12/26 20:05
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:mikimaru - この投稿者のレビュー一覧を見る
イタリアでは1978年に法律(通称バザーリア法)が制定されたことで精神病院の解体がはじまり、内部にいた患者らが医療スタッフの助力のもとに町で自主的な共同生活を営むなど、世界でも例を見ないほど解放が進んできているのだそうだ。
いっぽう日本では、1964年にライシャワー米国駐日大使が統合失調症の少年に刺されて重傷を負った事件をきっかけに精神衛生法の改正が強く叫ばれたこともあり、そのころ時代としてはまさに「患者は精神病院に収容しろ」という流れの中にあった。
もっとも、80年代以降は入院患者虐待や不審死事件が大手の精神病院で発覚しはじめ(大和川病院事件、宇都宮病院事件)、結果として95年にふたたび法律が改正された。地域の行政のあり方が精神病院の偏在を許してしまった時代が長く(例:P.199によれば、80年代に住民あたりの精神病院数は、都内であっても格差120倍以上であったという)、また、薬や拘禁に依存する診療方針も根強く、本書で描かれているイタリアの事例には、まだまだ及ばないのが実情のようだ。
本書は朝日新聞、朝日ジャーナル、週刊金曜日などに連載した記事をもとに、追加編集したものであるとのこと。
冒頭から、著者自身がかつて(1970年)アル中を装い12日間の入院をした体験からはいる。かなり衝撃的だが、これは以前の著作やその後の出版物でも書かれている話のようだ。わたしは初めて読んだので、その内容と行動力にショックを受けてしまった。ろくに診察もされず、退院を普通に申し出ても許されなかったが、家族が「入院費が払えない」と言ったら、出してもらえたという。
メインの部分としては、イタリアでの取材をもとに、バザーリアという人物と法律制定までに協力した数多くの人々についてつづっている。イタリアも以前は患者の拘禁や放置、虐待が見られ、多くの患者や司法精神病院(精神病の人が法を犯した場合などの収容施設)は、積極的に外へ出すほどの理由付けが見たらないか、引き取り手がないからそのまま留め置くうちに、さらに状態が悪化してしまった人たちであふれていた。
バザーリアという人物の登場は、まさに時代への大きな風穴となった。協力者がこの時期に多く現れたこともまた、運が彼に味方した、イタリアという国に味方したのだろう。
そっくりイタリアに倣えとは言わないが、日本にもまた、何らかの形でのバザーリアが現れることを祈っている。
投稿元:
レビューを見る
『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦』の浜井浩一さんに取材にいくことになり、あわせてこの大熊さんの本も読んでみた。
何年か前に、フランコ・バザーリアのことを知りたくていくつか本を読んだ(『自由こそ治療だ』とか『トリエステ精神保健サービスガイド』とか)のを、また読みなおしたいと思った。
多くの先進国で、脱施設化・地域化をめざす精神保険改革が始まり、精神科病床は減り、これまで入院していた人たちが在宅で暮らすための社会資源が増えていった、という。だが、日本は、そういう時代に、精神科病床を増やしつづけ、入院し続けている(させられ続けている)人が多数いて、在宅の暮らしを支える資源もたよりないままだ。
マニコミオ(精神病院)をなくす法を(通称バザーリア法)つくったイタリアは、20世紀の終わりまでに、すべてのマニコミオを閉じ、全土に公的地域精神保健サービス網を敷いた。
かつて、精神病院の鉄格子の内側に入り、『ルポ・精神病棟』を書いた著者は、このイタリアの多くのまちが、精神病院を使わずとも重い統合失調症の人たちを支えていることを知り、『ルポ・精神病棟』から39年経って、やっと解決編を書く機会が訪れたと、はじめに記している。
バザーリアの後継者、フランコ・ロッテリの講演(pp.58-68に掲載)より
▼…私たちは患者を管理するという考え方を捨てると同時に、患者を放り出すという考え方も捨てました。我々の仕事は持続的に患者の面倒を見て、リハビリ活動を助けることです。患者のリハビリを行うということ、それと市民たちのリハビリを行うこと、言い換えれば患者と一般市民との間の関係を新たなものにしていくということです。(略)
社会の中には異なるさまざまなものが存在し、全体がいきいきと活動していく。社会の中で最も弱い立場にある人との関係を切らないこと。それが大事です。だれもが一市民なのです。そして、だれもが狂人になる可能性を持っているわけですから。…(pp.62-63)
バザーリアやその弟子たちの実践する精神医療と、日本人が知っている精神医療とには、大きな違いがあると著者は書く。日本で統合失調症になったとすると、おそらく多くの医師は、病的な言動がいつごろ始まり、どんな振る舞いがあるか、周囲がいかに困惑したかを根掘り葉掘り聞き出して、病名や病状をカルテに書くだろう。そして抗精神病薬を処方し、ときには精神病棟へ送りこむだろう。
バザーリア派は、こうした診断や治療のプロセスを嫌う。診断や投薬は主役ではない。
▼その理由はこうだ。"生殺与奪の権を振りかざす"医師と、医師の"御託宣"に振り回される"無知・無能な"患者、という図式の人間関係は治療に有害無益である。医師の診断は、患者の社会的評価を失墜させたり、一般社会からの排除を助長したりするおそれが十分にある。だから診断することを躊躇するし、権威の象徴である白衣を着ないし、電気ショック療法は捨てたし、強制治療を極力避けるし、とにかく患者の心身をねじ伏せる恐れのある処置を回避しようとするのである。
目の前に現れた利用者は、「病人」��はなく、「苦悩する人」「生活に困窮をきたした人」とみる。だから病気に大きなスポットを当てずに、患者の危機的状況を招いた社会的な問題、経済的な問題、人間関係の問題、の解決に主眼を置く。(pp.117-118)
といっても、1978年に180号法(通称バザーリア法)ができてからのイタリアの改革が順風満帆だったわけではない。1980年にはバザーリアが亡くなる。80年代には180号法をつぶそうとする反バザーリア派が大攻勢に出たという。バザーリア派は、「家族に負担をかけない精神保健改革を」「患者の生活の実態調査を」と反撃、全国調査もおこなわれたが、一部の州をのぞき、マニコミオはなくなりつつあったものの、それに代わる支援システムがあまりに不備だった。180号法を支える州法の制定にも消極的なところが多かった。
ところが90年代になって、構造汚職が摘発されて連立与党が大敗し、情勢が大きく変わった。1994年には、トリエステなど先進地域で行われてきた地域精神保健サービスをイタリア全土に普及させようというプロジェクト、「精神保健の擁護三年計画」が打ち出された。
20世紀の終わりまでにマニコミオを閉じたイタリアでは、2001年の保健省の統計によると、"週6日、1日12時間以上稼働する"地域精神保健センターが707か所あるという。だが、この707か所のうち、「年中無休、24時間オープン」という、本当に頼れるところはまだ50か所だ。
トリエステの精神保健サービスを世界最高レベルに押し上げた人、フランコ・ロッテリの、イタリア全体の精神保健の評価。
▼…イタリア全体を眺めれば、マニコミオ時代の負の遺産は根絶されてはいない。多くの大学医学部や民間医療機関がまだ、患者の人生全体を見つめることもなく、薬物中心の治療法にこだわっている。これを後押しする製薬会社や反バザーリア派家族も侮れません。ですが「精神病院のない国」が出現したのは厳然たる事実です。ゆっくりではあるが、いい方向に向かっていると思います。…(p.143)
精神病者を"オッカナイ人々"と思ってしまうココロを、それは誰もがなりうる病気で、精神病者は自分たちと変わらぬ「人」なのだというものに動かしていけるかどうか。あるいは、「生活に困窮する人」として、つまりは、支援の必要な人として、罪を犯した人たちや依存症の人たちをみることができるかどうか。そして、自分もまた、そうした支えを必要とするときがあるだろうと想像できるかどうか。
(7/11了)
投稿元:
レビューを見る
臭い物に蓋をする。異物を隔離して無かったことにする。
そんなおかたづけを、治療などとは呼べない。
理解できない(する気もない)狂人を見えない場所にしまっておくだけの治療効果の無い「治療」は、矯正効果も意味も無い規律を強いる監獄に似ている。
イタリアでは1998年までに精神病院を全廃したという。
それが有効な手段になるのは、患者の人生をサポートする体制を整えてこその話。
家族に丸投げするのでも病院に閉じ込めるのでもなく、社会の中で生きていけるように社会が支援する。
医療という社会活動。病気を見張る場所から生活を助けるシステムへの転換。
患者をただ追い出すだけでは路頭に迷う。
病院を半端に残しては、重篤な病人が病院に取り残される。
この政策は、病院を完全に廃止し、すべての人が利用できるサポート体制を整えることで、はじめて真価を発揮する。
福祉関係は北欧がダントツでイタリアはどちらかといえばダメなほうというイメージがあったけれど、こと精神医療に関してはイタリアこそが世界の先を行くらしい。
とはいえ南北格差があったり、相性抜群の保守とネオリベがおててつないで逆風を吹かせたりで順風満帆とはいかない。
その辺もふくめて、変えようとする勢いや力に勇気付けられる。
バザーリアはなんだかハーヴィ・ミルクとイメージが重なる。
ひるがえって日本は半世紀遅れの(しかも逆方向の)変化を推進しようとしているらしく、知った現状にも知らなかったという事実にも滅入るばかりだ。
日本で精神医療やカウンセリングの敷居が高いのは偏見や国民性以前にシステムがお粗末すぎるってのがあるんだろうな。
滅入るエピソードはあるけれど、本自体の印象は全体にポジティブ方向に導いてくれる。
人に勧めたくなる。知って欲しい。
投稿元:
レビューを見る
海外と国内の精神医療の歴史を知ると、目を背けたくなるような事実ばかりだった。自分が患者だったらそんな場所にいたくないというだけでなく、そんな場所で働きたくないという気持ちも強く抱いた。
イタリアが精神病院を廃絶し、精神障害者を地域で支えていく仕組みを作って現在に至るまでの流れから、改革に携わった人の勇気と信念を感じた。
日本でも、精神科病床を減らそう、地域で支えていこうという言葉は聞くが、実際のところまだまだ入院に頼っているところが大きいと感じた。
イタリアのある県の精神保健局長の「人間は複雑な関係性の中で生きています。だから私たちも、利用者の生活上の複雑さに正面から向き合って解決の道を見つけます。病気の兆候を観察するのではなくて、病気の背後の人間関係だの、労働環境だの、住環境だのを理解して対処する。それが精神保健センターです。こんなことは病院ではできません」という言葉が印象に残った。
幻聴や妄想があるからといって地域と切り離して生活させるのではなく、障害を持ちながら地域の中で生きていくためにどう支えていくかが大切なのだと思う。
投稿元:
レビューを見る
その昔、「ルポ・精神病棟」で物議をかもした著者による、いわば解決編を目指した著書。国内の歴史を詳述した部分も知らないことが多かったが、メインは豪州と並んで精神科病床が少ないことで知られるイタリアのトリエステにおける取組みについて。コムニタという医療・看護つきのグループホームが多く、やはりある程度の受け皿は必要そうであるが、地域精神保健サービスを充実することで病棟解放が進んでいるようだ。日本のように、均一性が重要視される国とは、社会の中で正常とみなされる範囲が違っていたり、狂気というものに寛容なお国柄もあるのかもしれない。活動自体はイタリアに共産主義が流行し始めた頃、さかんになっており、中心人物も共産党の関係者が多く、反精神医学のにおいがしなくもないのだが、精神病というものの存在自体を否定するわけではないとはっきり言明されている。■バザーリアは、狂気は治すべきものとは思っていました。でも、狂気は物事を伝える一つの兆候として意味があるのだ、狂気にコミュニケーションとしての意味を持たせるためには、当人に市民権を与えなければならない、とも言っていました
投稿元:
レビューを見る
昨日観たイタリア映画「人生、ここにあり」(原題:Si Puo Fare やればできるさ)の副読本として。べてるの家からもお薦め本として提供されていました。
投稿元:
レビューを見る
無意識のうちに無知のうちに、弱い立場に置かれた人を、踏みにじり抑圧している側に自身もいることにはっとさせられる。゛常識゛を疑うこと。多数の゛平穏゛のために、少数を踏みにじって痛みを感じない社会の底の浅さを思った。
投稿元:
レビューを見る
法律が出来ただけじゃダメなんだねぇ。人が動かなきゃ。バザーリアというのは凄い人物だったみたいで,興味を持ちました。日本はもう絶望的ですね。この彼我の差を見ても何とも思わないのでしょうか。分かってはいたけれども。
投稿元:
レビューを見る
日本の精神保健における私立病院主義の成り立ちと悲惨な数々の事例から、日本の精神医療の暗い歴史が生み出した監禁中心主義的性格を糾弾したうえで、精神病院の廃絶に成功したイタリア・トリエステの例を挙げ、効果が高くコスト面でも精神病院に劣らない、在宅を中心とした地域精神保健サービスによる治療が訴えられています。
日本のような実質的に治療より隔離が目的となってしまう精神病院偏重でもなく、かといって精神病院から解放された患者たちがホームレス化してしまうアメリカのように放置するわけでもない、第三の道として地域精神保健サービス網の整備によって現実的な精神病治癒が可能となっていることを明示する本書の役割は大きいのではないでしょうか。
精神病院における患者の人権を踏みにじる残酷な虐待の事例については、日本だけではなく精神病院廃絶、または縮小に進む以前の時点での欧州でも多く見られていたことも随所で取り上げられています。
以下は印象に残ったものを一部列挙しています。
・「根っからの障害者蔑視主義の院長が経営する施設強制収容所」
・職員水増しによる医療費詐欺
・懲罰のための電気ショック
・バットで殴るなども含めた、殴る蹴るの暴行による患者の死亡
・高齢の入院者が紐で犬のようにつながれていた
・取り締まる立場の地方自治体や厚生労働省が患者の味方ではなかった
・精神病院の福祉への横滑りについての危惧
・日本の精神保健は病院経営の都合が第一、患者の身の上は二の次
・「日本の行政機関は精神病院をコントロールできていない」
・日本精神科病院協会のロビー活動
・「精神の病気というより、精神病院が原因の病気の人がいっぱいいました」
・「多くの医者は実は本物の改革に乗りきではない」(病院の方が楽で高収入)
・「精神病院は必要悪」という思い込みはこのイタリア旅行で吹き飛んだ
・「死ぬまで精神病院にいろ、なんて、哀れだよね。日本は冷たい国だ」
・ホームレスの60%近くは本来なら医療の網にひっかかる人びと
・「実はここ(精神病院)は監獄なのだ」
・「大事なのは勝利ではなく、説き伏せること」
・「他害の恐れがあるかどうかは、警察の判断に任せるべきことで、精神科医の仕事ではない」
・人出と説得技術、濃厚なコミュニケーション、信頼感、連帯感、対等な人間関係
・精神病院廃絶後に精神病に結び付く犯罪が増えたという証拠はない
・「彼は、批判されようが抵抗されようが、その相手を敵とはみなしません」(フランコ・バザーリオについて)
・「精神病棟への大量収容」という社会現象が残っているのは日本社会だけ
・”発展途上国並み”の精神保健
・「日本の精神医療の主流は、いまだに私立精神病院への入院主義」
・万人の心に宿る”オッカナイ人々”という、固定観念
・「トリエステで始めた精神保健改革の一番のポイントは「狂人(マット)の復権」」
投稿元:
レビューを見る
精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本
(和書)2010年08月27日 16:31
大熊 一夫 岩波書店 2009年10月7日
柄谷行人さんの書評で読むことにしました。
とても面白いです。
何が面白いかっていうと、取り組む姿勢によって全く別物に変わっていくイタリアの精神医療の現場というものが現実に存在しているということに衝撃を感じる。
日本の精神病院はなんなんだろうか?イタリアは精神病院をなくしている。その徹底性に、一切の諸関係を覆せという無条件的命令をもって終わる(マルクス)をみてしまう。人間と「宗教の批判」。宗教と精神医療というところが、なかなか明確に描かれていて面白いです。