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紙の本
「豊かさ」と呼ばれるものの空虚さ
2010/01/22 17:14
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ろこのすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
殺人事件がどうやって起こったか、そして犯人は誰か?
こう書くと何の変哲もないただの犯罪小説だと思うだろう。
しかし、この小説はそんな類のものでないというのが最後まで読んで初めて気がつくのだった。
殺人事件が起きた舞台は福岡市と佐賀市を結ぶ国道263号線、背振山地の三瀬峠である。
登場人物は短大を卒業し保険の外交員となった佳乃、裕福な旅館の息子で大学生の増尾圭吾、長崎市の郊外に住む土木作業員の祐一、紳士服の販売員の光代である。そして彼らを取り囲むように配置された友人や父母、祖父母などである。
保険外交員の女性が殺される。彼女はその夜、モテモテ男の大学生とデートすると行って出かけたが相手は出会い系サイトで知り合った土木作業員の男。友だちにはみえをはって大学生とデートすると嘘をつく。このみえからでた嘘と現実の食い違いが殺人を招くことになる。
殺人犯のそれからを追っていくうちに加害者と関わりあっていく女性たちをからめて話は加速していくのであるが、いつも視点は登場人物自身であるところがこの小説を常にニュートラルにしている。
つまり誰が「悪人」かというきめつけるようなまなざしがないのである。
常にその登場人物側から物語りは語られている。
人は一つの事件が起きるとその結果から犯罪にたいする罪を判断しようとする。しかし、ことのあらましをあらゆる角度からみることなしに裁くことはそれこそ「罪」である。昨今のワイドショーや新聞の記事から我々は事件を知ったような気になる。しかし、それはほんの少しの情報から得た判断をもとにワイドショーの記者や新聞記者が記事にしたものであることを知るべきだろう。それを証拠にすぐ判断は二転三転する。
そしてそれにしたがって我々読者、視聴者の判断も二転三転するのである。昨日犯人だったものは今日は無実の人として「独占インタビュー」などと銘打って放映されたりする。
そんなマスコミのあり方に一石を投じた小説ともいえよう。
それと同時に我々の真実を見る力、判断力にもである。
陪審員制度ができ、単眼的物の見方、思考のありかたは大きな問題点となる。マスメディァに対する読者、視聴者の複眼的思考のレベルアップと批判精神を忘れてはいけないことも示唆している小説であった。
また恋するチャンスも場もないまま、ただ無為に働いて一日が終わってしまう若者が出会い系サイトにアクセスする気持ちや、豊かでない暮らしの中、地道に生きていく人たちを丹念に描いていて、そうした視点から社会を見たとき、「豊かさ」と呼ばれるものの空虚さを描き出した作品でもある。
「悪」というものの種はどこから生じるのだろうか。
そして「悪人」とは一体どんな人をさすのだろうかを問う小説であった。
殺された娘の父親の言葉:
(今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うものがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものがなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる)
心にドンとこたえる言葉だ。
紙の本
ふたりぼっちの世界の儚さ
2010/03/07 20:20
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:森山達矢 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品は、言葉にすれば非常に単純で常識的なことを言っているように思える。
「人間は、善良な側面と邪悪な側面、両方を併せもつ存在である」。
あたりまえのことだ。こんなことは、誰でもいえる。
けれども、そうしたことをある程度のリアリティや強度をもって描くことのできる人は少ない。この小説の秀逸のところは、当たり前のうちにあるリアリティやその深さ・深淵をきちんと提示していることにある。
「人間は、善良な側面と邪悪な側面、両方を併せもつ存在である」と、われわれが感じるのは、他者との関わりにおいてである。「良い-悪い」ということは、「具体的な対他的な関係性」のなかで生まれるものだ。
われわれは、取り結んでいる関係に従って、自分の内面を開く加減をおこなっている。簡単にいえば、われわれは対他的な関係のなかで、他者に対して見せていい部分と見せない部分を微妙に調整している。
それゆえ、対他的関係のなかで生じる人格は、多元的にならざるをえないし、関係性が多様化すればするほど、同様に人格のありかたは複雑化する。この小説が描いているように、ある人はある他人にとって悪人に見えるし、また他の他人にとっては善人であるように映る。
この小説が素晴らしいのは、多様化する関係性、それに伴う対他的パーソナリティの多重化を、ある殺人事件をフックとし、多数出てくる登場人物の視点を多様に交差させながら、描ききっていることである。そしていうまでもなく、そこのなかには人間のありとあらゆる感情が表現されている。
文章のなかで、こうした現代的なリアリティが析出されている。この小説を味わうポイントは、ここにあると思う。
この小説は、いろんな読み方ができると思う。例えば「ミステリー」として。
自分はこの小説を「恋愛小説」として読んだ。というか、読み終わって「すぐれた恋愛小説だ」と思った。
同時に、恋愛小説としてのこの小説のモチーフは、なにかに似ているとも思った。
そこで思い出したのが、フィッシュマンズの「頼りない天使」だ。
なんて素敵な話だろう
こんな世界の真ん中で
ぼくらふたりぼっち
吉田修一も佐藤伸治も、「ふたりぼっちの世界」がかくも儚いものでしかないということを表現しようとしている(た)と思う。
関係性が多様化し、人格が多重化すればするほど、「ホントウノジブン」をさらけだすことのできる「Only One」な関係が希求される。けれども、こうした関係性の複雑化は、「Only One」な関係を作り出す条件であるとどうじに、その関係自体を破壊するものである。それゆえ、この「Only One」な関係は、「ありそうでないもの」のように感じられる。
この「ありそうでないもの」を求めざるを得ない存在であること、そうした存在であることの空虚さや切なさ、そして、強さややさしさ。吉田修一が人のなかにみるものは、そうしたものなのだと思う。