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成田空港で時間に追われながら、タイトル買いした本。談志から客として認められるくらいに落語を学んでいる人でないと談志の言わんとするところは解せないでしょう。私は落第でした。
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この本を読んだ翌朝、私は「ぬるま湯」で顔を洗っている事に、ふと疑問を感じた。
昔の人は「冷たい水」で顔を洗っていたはずなのに。
なぜなら「ぬるま湯」という選択肢がなかったから。
現代は「ぬるま湯」にありふれている。私もその環境にどっぷり浸かっていた。
明日から、いや、今日から「冷たい水」で顔を洗おう。
談志師匠、私は私なりにこの本からこんな事を学ばさせていただきました。
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立川談志の著作は何冊か読んだ。
それも既に現時点での家元自身ではない過去のものを追っていたので、リアルタイムで家元の落語に対する姿勢を読み取ることが出来たのはこの本が初めてだ。
それにしてはあまりにあとがきの文章には胸が苦しくなる。
僕が興味を持つのが遅かったか。
理想像を創りすぎたか。
まだまだ、観ていたいんです。
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『落語とは人間の業の肯定である(立川談志)』 もっと落語を聞いたり人生経験をしたりして10年後もう一度読んでみよう…
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もっと早く意識すべきだったひと、いっぱいいらっしゃると思います。これで、本当の落語家がいなくなるわと、本人はいうでしょうね。芝浜が見れただけがせめてもの救いか〜 本当に寂しい限りです。 ご冥福をお祈りいたします。
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談志の芝浜を聴けないので、これを読みながら大晦日を過ごした。
本当は、今年、談志は芝浜をやったけれど、
私は、今の談志の芝浜は、怖くてもう聴けないから、
だから、こころの中の談志に語ってもらうために、これを読んでいた。
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立川談志の落語愛と落語魂がヒシヒシと伝わってくる。
「俺がいるから客がいるのだ」と言ってのける生き様はかっこいい。
そして、歴代の名人達に関しての考察も凄く面白い。
三語楼の落語を聞いてみたくなった。
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1936年1月2日東京生まれの74歳。
立川談志、その名前を口にするだけでピーンと空気が張り詰め、次の瞬間、ギャハーッと爆笑する、類まれなる不生出の落語家。
上手いとか、味があるとか、粋だとか、名人だとか、という形容そのものを拒否する、あるいは超越した、その構成力・読解力・描写力において並ぶ人がいない前代未聞で空前絶後の落語界に舞い降りた天使か悪魔、否、預言者・指導者としてのモーゼか、救世主としてのイエス・キリストか、はたまた守護神としての阿修羅とでもいってよい人物。
一方で、伝統的風習が残存する通好みの究極の名人芸として古今亭志ん朝がいましたが、もちろん世の趨勢はそちらの方にあるのですが、落語をはじめとする現代の芸能というかお笑いというか、その世界の旧態依然としたどうしようもない陳腐で下品で堕落した頽廃的なマンネリズム丸出しの、名前を出すのも不愉快な、さん△、とか、たけX、や、つる♤,あるいは、もうよしましょう、ともかくほとんど、形容矛盾ですが、観客もわかる楽屋落ちにしかすぎない惰性の笑いで充満している中に、ひとすじの光が差し込むように、奇跡に近いかたちで福音のように差し伸べられたのが、立川談志の機知に富んだ諧謔的な笑いの世界です。
・・・だったはずなのですが、そういう無限の可能性を秘めていたのに、年を重ねて深化した現実と本書は、しかし、残念ながら、そういう風には現実化していないというか、多分に矮小化されて、ついに彼の真価が真に問われることなく現代に到っていると言わざるを得ない情況で、そして彼自身もそれに対して焦燥し疲労困憊して、かつて『現代落語論』(1965年)で言及されたことがらは形骸化し見るも無残に後退しているように感じるところも無きにしも非ずですが、まだまだ幕が下りた訳ではありませんので、起死回生の一発を、わたし狙っております。
いま現在、お師匠さんは糖尿病を患って療養中ということで、すべての落語会を中止されているご様子ですが、何卒、充分養生なさって、できるだけ早く回復されてまた元気なお身体で、先鋭なる毒舌をお聞かせ賜りますことを祈願しておりますので、もっと生き抜いて、談志師匠!
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落語とは、人間の業の肯定である
業とは、好奇心
落語とは、非常識の肯定
文明ー常識 エジソン 文化ー非常識 スポーツ、娯楽
人情噺 常識的なもの 親子はやっぱり一緒がいいね 主人と番頭の関係はこうでなくては 円生 芝浜、子別れ、
滑稽噺
非常識を主に語って笑いにする 志ん生
正面切っての反常識は許されない→ロシアジョーク
与太郎 落語的視点 生産性がない
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結局、読み切れやしねぇ、返却日が図書館の休館日をイイ事にして(よかぁない)何とか読み終える。何故、此を先に読まなかったのか、5冊揃った時点で頁を繰ってみりゃあよかったんだ。常識、非常識、品がある、品がない、下品、上品、上手下手、ヘタクソについて解り易く書いてあって、自分の悩みを解消してくれるものであったのに。家元、ごめんなさい、反省します、反省だけなら、猿でも出来る、解ってんのか、此の野郎!******************************どうしよう、図書館に頼んだ本が纏めて5冊も一度に来ちゃったよ。2週間で読み終えられるの、オレ?
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談志の落語論もある程度読んできたが集大成といってよい。業の肯定、非常識の肯定、イリュージョンまでは理解できるが狂気までは行き過ぎ、考えすぎではなかろうか。亡くなった後の番組の志の輔との対談でお前も狂気に近づくと話していたがそこまでは…
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落語論というか、落語感、落語観か。寄席にまで蔓延する、悪しき常識。当たり前の事は真っ当だがつまんねぇ、と。有難がって読むもんじゃないが、読めば落語が少しは分かる。
家元はいいよ、向こうには江戸がある。また、落語が寄席で演れる。
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友達の結婚披露パーティ兼本の交換会で当たった本。
僕は談志をほとんど知らない。
寄席も行ったことがない。
だから言っていることの半分も理解できていないんだと思う。
でも落語というもの、人間の「業」、「自我」、「非常識」。そして何より「談志」。
その「匂い」は感じ取れたんじゃないかと。
「談志 最後の三部作」第一弾!
らしいんだけど、続きは買うべきか...
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タイトルは『談志最後の落語論』ですが、この本には我々が求めているような、落語に関する答えは書かれていません。
読み手も、ある程度落語に触れていないとわからない内容になっているでしょう。
『火焔太鼓』がどんな噺か。『黄金餅』における「人間の業の肯定」とは。
そう書いている私もまだまだ落語には浅いですが、談志の落語から、落語は『厩火事』のような教訓を教えるものではなく、もっと「人間の不可解な部分」を追求するものだと知りました。
「不可解な部分」をひとつの噺にする。これは落語にしかできないことです。
そして談志が死んでしまった今、我々は落語とどのように向き合うべきか。そのヒントを談志は教えています。
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これで最後か。
読む人は家元のファンばかりだろうから、当然「現代落語論」も「新釈落語咄」も読んでる人だろう。ということは、「あー、終わんなかった」という感想を持つ人が少なくないと思うのです。結局攻めきれなかったか、と。
で、問題は、この続きを誰が書くのか、だと思うわけです。
家元の落語論を踏襲していれば、誰が、どう書いてもいいと思うのです。
5年以内に10人くらいが続きを書いて、20年後に誰のロジックが残っているかとか、そういう判断でいいのではないかしら。
なんかこうー。
「行き詰まった文芸批評を記号学からのアプローチでみんな掻っ攫っていっちゃった」みたいな事態になるんではないかと、ちょっと思ったりしている。