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真相追究の果てに残された課題と謎
2010/06/04 00:40
13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yjisan - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本列島最北部の寒村、青森県五所川原市飯詰地区に住む和田喜八郎が自宅を改築した際に「天井裏から落ちてきた」門外不出の秘本、との触れ込みで1970年代に忽然と人々の前に姿を現した『東日流外三郡誌』。寛政~文政年間に安東一族に関する歴史と伝承を蒐集した秋田孝季と和田長三郎吉次(和田喜八郎の直接の先祖)によって編纂されたというその大部な歴史書には、倭国(日本国)に滅ぼされるまで津軽地方で繁栄を謳歌した幻の古代東北王朝・荒覇吐王国の歴史が記されていた。
和田がこの文書群の複写を津軽安東氏ゆかりの地である青森県北津軽郡市浦村に提供し(無償ではなく高額の複写料を取っている)、市浦村は1975年(昭和50年)に刊行した『市浦村史資料編』の中に『東日流外三郡誌』を収録した。
公的機関のお墨付きとオカルトブームを追い風に、『東日流外三郡誌』は〈勝者である日本国の正史から抹殺・隠蔽された真実の歴史を語る超一級資料〉と全国的に話題を呼び、マスコミで大々的に報じられ、関連書籍も山のように出版された。あのオウム真理教にも影響を与えたという。
しかし1992年に提起された「自分の著作物が和田に盗作された」という1件の民事訴訟をきっかけに、文書の真贋をめぐって大論争が巻き起こった。江戸時代に書かれたはずなのに近代以降に出版された本からの盗用疑惑が持ち上がるなど、次々と浮かび上がる『東日流外三郡誌』の不審点。内容や語法・文法の分析の結果、『東日流外三郡誌』を昭和中期以降に創作された偽書と推定した「偽書派」は、筆跡鑑定や誤字の特徴も踏まえて偽作の「犯人」を「発見者」である和田喜八郎と特定した・・・!!
本書は、この戦後最大の偽書事件を最初から最後まで執拗に追いかけた地元新聞記者が、自らの取材記録を基に事件の全容をドキュメント形式で綴ったノンフィクションである。関係者への丹念な取材によって和田の嘘を1つ1つ暴いていき、天才詐欺師・和田の偽造と演出の全手口を白日の下にさらけ出す展開は臨場感たっぷりで、まさに「なまじの推理小説よりもはるかに面白い」(立花隆談)と言えよう。新聞記者だけあって真贋論争の複雑な内容を平易な語り口で説明してくれるので、畳みかけるような文体の妙もあって、純粋な読み物としても楽しめる。戦前の著名な偽書「竹内文書」との意外な接点など、皮肉たっぷりの和田批判にはニヤリとさせられる。
しかし本書の射程は「犯人のトリックを明らかにする」に留まっていない。和田が作成した『東日流外三郡誌』は、和田の近所の住民ですら「少し歴史の知識のある人なら、おかしいと思う内容です。逆に、あまりにお粗末すぎるために、だれも取り合わなかったのかもしれません」(本書66頁)と評する程度の稚拙な偽書であった。
にもかかわらず何故、多くの著名な知識人や大手マスコミまで騙される戦後最大の偽書騒動へと発展したのか。筆者はその背景を丁寧に炙り出す。金銭欲と功名心に煽られた支援者たち、村おこしを目論む地元有力者、前例主義と横並び意識に凝り固まった周辺自治体、「謎の古文書」という甘美な響きに幻惑された郷土史家、売れれば良いという無責任な商業主義に走ったマスコミ・出版関係者、自らの政治的・思想的な主張の裏付けに利用した新左翼、地域的コンプレックスから「自分たちにはかつて栄光の歴史があった」(事件発生当初は三内丸山遺跡は見つかっていなかった)と信じたかった東北の人々・・・・・・その殆どに積極的な悪意はなかった。けれども彼等はこの滑稽かつ深刻な騒動に翻弄され、ある者は被害者に、またある者は結果的に和田の協力者となったのである。
いやむしろ、彼等は被害者であると同時に加害者であったと言えよう。
だが日本史を専攻する研究者の端くれとしては、アカデミズムの「不作為の罪」については重く受け止めざるを得ない。本書には『東日流外三郡誌』をはじめとする和田の数々の「作品」の写真が掲載されているが、私のような駆け出しの研究者でも、一見して怪しいと分かる代物ばかりである。学界関係者の殆どが「触れるに値しない」(本書347頁)と判断したのは無理のないことであろう。
しかし「あれは素人が騒いでいるだけ。学界の人間は誰も信じていないのだから問題ない」と沈黙してしまったのは、如何にも残念だ。性質の違う本だから一概には比較できないが、学界が「つくる会」の教科書を「荒唐無稽」と徹底批判した時の10分の1、いや100分の1のエネルギーでも投入していれば、この問題は早期に収束していたかもしれないのだ。
これでは世間から「象牙の塔」と批判されても仕方ないのではなかろうか。自省を込めつつ。
それにしても神社まで自分ででっちあげてしまった(石塔山荒覇吐神社の神官を称した)和田の偽作への執念には恐れ入る。『東日流外三郡誌』公刊後も和田家では次から次へと古文書が「新発見」されたため、『東日流外三郡誌』を含む「和田家文書」の総数は最終的に4817冊に及んだという。個人による偽書作成としてはギネス級の分量ではなかろうか。
偽作の動機としては、金銭欲や名誉欲、果ては東北人特有の「中央」に対する怨念まで指摘されているが、和田は自分に批判的な者の取材には決して応じぬまま亡くなってしまったため、真相は分からない。虚言癖の愉快犯にも見えるし、嘘をつき続けている内にそれが真実であるという自己暗示にかかってしまった狂気の老人と解することも可能であろう。いずれにせよ、20代から古文書・古物の偽作に手を染めていたという、この怪物じみた希代のトリックスターの生涯は、奇怪な偽書事件と共に、長く語り継がれることだろう。
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当事者たちにとっては思い出したくもない「事件」だろうが、野次馬として外野から見る限りこれほど面白い「事件」もない。
2010/03/14 15:29
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
当事者たちにとっては思い出したくもない「事件」だろうが、野次馬として外野から見る限りこれほど面白い「事件」もない、というのが感想だ。あまりにも面白いので、地下鉄の目的駅を乗り過ごしてしまったほどだ。
『東日流(つがる)外三郡誌』という「偽書」については、耳にしたことはあるが、数多い「偽書」の一つだろうと、あまり真剣に捉えたことはなかった。
文庫版の表紙に書いてあるように、「戦後最大の「偽書」はいかにして生まれたのか」を執拗に追い続けた、岩手県生まれで青森県八戸市で育った、青森県の地方紙「東奥日報」の東北人記者が、「事件」終了後に求められた書き上げた、400ページ超にわたる一書である。東北人特有の粘り強さが、「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞」受賞をもたらした。この間の、偽書否定派からの誹謗中傷も含めて、さぞかし大変なものだったろうと、苦労がしのばれる。
とはいえ、繰り返すが、この本はめちゃくちゃ面白い。さすが、本業は青森県にある米軍基地問題をライフワークとして追ってきた「事件記者」である。この本も、1992年の「事件発生」から2003年の「事件終結」に至るまでの、12年にわたる「事件」追跡の記録を、時系列でまとめたものだけに、「事件」のあらましすら知らなかった私のような読者にも、「事件」の全容が手にとってわかるように書かれており、十二分に堪能、いや納得させられた。ある意味で、上質のエンターテインメント小説のような趣きのあるノンフィクション作品に仕上がっている。
しかしそれにしても思うのは、関西生まれの私などには、けっしてうかがい知ることの出来ない、「三内丸山縄文遺跡」発見以前の、かつての東北人がもっていた屈折した思い、それと裏腹のプライドの高さである。それが、『東日流(つがる)外三郡誌』の作者に、この途方もない「偽書」を書かせたエネルギーになっていたようだ。最初はカネのために始めた「偽書」製作も、世の中に受け入れられているうちに、どんどんエスカレートしていって、本人も関係者にも収拾のつかない状況に突っ走ってしまったのが事の真相だろうか。
文庫版の解説を書いているノンフィクション作家の鎌田慧も青森県弘前市出身の「津軽人」であるが、鎌田慧は「狂騒華麗な津軽三味線やネブタ祭りに熱中し、天衣無縫に踊りまくる彼らの気質の一端を奇想天外の虚言を吐いて、快活に笑い飛ばすかれらである」(須藤儀門)というコトバを引用して「津軽人」の特性を説明している。板画作家・棟方志功を知っている人には奇異には聞こえないこの発言、『東日流(つがる)外三郡誌』の作者にもそのままあてはまるようだ。
面白うて やがて哀しき 『東日流(つがる)』かな
なんて句を詠みたくもなる作品である。
超々おすすめである。
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面白い。一気読み。
ただ、「東日流外三郡史」についてはト学会経由で知ったから良いものの先に知っていたらどっぷりとはまっていた可能性も。
これと思い込んだら、その史観に沿うものしか見えなくなる自分の性格を知っているから・・・。
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オカルト雑誌によく取り上げられる「東日流外三郡誌」。書名はよく耳にしていました。
書店でこの本を見たときにタイトルで、その本の内容を白日のもとにさらすものだと予想がつきましたがちょっととまどったのはその厚さです。
読んでみると内容が濃く、「歴史が特に好きなわけではなかった」地元紙の記者が最初は首をかしげながら、次第に「郷土の歴史にウソを塗りこめることは許せない」というスタンスで偽書に挑んでいきます。
真実でないものがどのように流布され世間の認識を得るのか、という切り口で見ても面白いノンフィクションです。久しぶりに一気読みしました。
「家の天井裏から落ちてきた」という発見譚も屋根裏がない構造の家である写真があり…
「〇〇という部分がないとつじつまが…」という話のあとに必ずそれを埋めるような新たな文書が見つかること。
なにより、癖のある字体の発見者が書いたと思われる筆跡。
完膚なきまで…と言うレベルで反証しつくします。
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青森県の片田舎から発見された、古文書「外三郡誌」
勝手に引用されたと言う学者からの、裁判を担当する事になった
地元の新聞記者が、偽書?の疑問を抱き関係する学者達と次々と
真相を明らかにしてゆく過程は、推理小説を読んでいるよううです。
昔「東日流外三郡誌」の文庫本を読み、ロマンの有る話だと思って
居ました。新聞で偽者では無いかとf議論になったのは記憶に
有りましたが、こういう経緯が有ったとは驚きです。
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「東日流外三郡誌」はなんとなくどっかで聞いた程度には知っていたし,100%偽書であろうとも思っていたのではあるが,この機会に一度通して読んでおくのもいいか・・と思って手に取ったものである。
帯になまじの推理小説よりも面白いとあったので,最近「でっちあげ」や「福岡一家殺人」などを読んできた流れもあって,購入してみたものである。
やはり全貌を知るとなかなか今まで知らなかったことや物事の深みというものが見えてきて面白いものである。
例えば,高校のときに日本史で「邪馬台国論争」を扱ったことがある。邪馬台国をめぐる学者の議論に「邪馬臺国はなかった」「邪馬壹国はなかった」論争(「臺」と「壹」・・・微妙に違うので見間違わないでね)という論争があるのだが,そこで聞いた名前がここでも出てくるとは思わなかった。古田武彦氏と安本美典氏がここでも出てくるのである。
また,「東日流外三郡誌」という歴史書を偽作したという程度にしか考えていなかったが,いやいやとてもとても・・・。なんと関連の歴史書や図版,書簡等,なんと総数数千点,それどころか二次元世界を飛び出して,遺骨や書簡や刀剣類から塚から仏像,果ては副葬品(土偶)までを都合よく次から次へと捏造しては「発見された」と言って出してきているのだった・・・。
この全貌を知るだけでも十分に興味深いものがある。壮観でさえある。以前「疑惑のデパート」といわれた人がいたが,さながら「疑惑の総合商社」である。
しかも,そのどれもがいい加減な粗悪品であり乱造品でありながら,そのどれもが都合よく理解したい養護派や,善良な一般人をも易々とだまし続け,良心的な学者が無視する中で,十数年以上にわたり,歴史家として「生計(たつき)」を維持したのである。
良心的な学者というのは,この本の中で言及されている内容によれば,そもそもこんなもの信じておらず,こんなものに付き合っている暇はなく,黙殺しており,黙殺していたことが学会の否定的意見の表出だったというのだが・・・・。
しかしそんな言い分は社会常識上,通用するのだろうか。
この本の中でも取り上げられている一学生の意見「学者は真実の前には冷厳・冷徹であるべきである」という意見の方がずっとわたしには説得力がある。偽書をきちんと叩いて健全なものを育てるというのが正しい社会のありようではないのかという気がする。
実は,この本を読んで考えさせられたことのひとつはまずこの点である。
正しいものを扶け,誤りを質す。弱きを助け強きを挫く。真実を求め,曲学阿世を排す・・・。こういう当たり前の正義への対応というのは,考えてみると現代日本では必ずしも実現されていないのではないかという気がしたきたのである。
この問題で,「学者は無視することが否定だと考えているんだ」と一度は読み進めたものの,やっぱりとても違和感があるのである。
おそらく学者たちは自ら行動し,調査するのも面倒だし,余計な論争に巻き込まれるのも面倒なのではないか,それにもし万が一自分の説が誤っていれば自分が傷つくだけだ。自分が傷つかないためにも厄介なものには近づ��ないほうがいい。大声でムキになって反論している学者にすら白い目を向ける。
言い立てている側も多少反論されても認めないケースも多い。
例えば南京大虐殺なども全市民以上もの被害者数など,現実的にありえない話なのに,いまだにそれに対してきちんとした否定がなされておらずあくまでも各学者が水掛け論を言い合っている段階にある。
学者は真実に向けた議論などそもそも望んではいないのではないかとすら思うのである。
学者だけではないのかもしれない。
意外とみんなそうなのではないか。
この事件の関係者は,何百万円もの投資をさせられて,まがい物の土偶や仏像を買わされても,詐欺などの訴訟や刑事事件にすらなっていない。だまされたことが恥ずかしいのもあろう。しかし「そこにも一抹の真実がある」とか,「仏像は信じていればいいものだから」・・・などと自分を一生懸命慰め,納得させ,それによって自分の傷をなめて癒すような心情が窺えはしないか。
市井の歴史家などはそういういかがわしい新発見のほうが興味深くて面白がったりもする。義経や信長が生き残っていたり,秀吉や日本海軍の軍資金が埋蔵されていたり・・というのと同様である。
こうして一般人の心の池に投げ困れた偽者という石が,人々の感傷や情緒に媒介されて社会の中に次第に広がって,やがて元の波と一体になって見えなくなっていくのだ。
東日流外三郡史が引用されたりしているものなど,影響を受けたものは意外と多いらしい。そういうものが市町村の正史などの中に紛れ込んでいるのだ。
近代以前ならいざ知らず,科学や情報力や言論の自由が整備された現代におては,ほとんどおきないと思ったがそうでもないらしい。
考えてみれば,「それは間違いだ!」と人の主張や意見や感想を非難するのは,双方にとって心理的なストレスが多いことは事実である。まして価値観が共有されやすかった昔と違って,現代社会では家族ですら認識は共有しにくい時代だ。今の時代,他の研究者の見解や事実認識を否定するのは,かなりの心理的負担を双方にもたらすのだろう。
だからそういう行動がとられずに,「君は間違っている」という明確な否定ではなく,「疑念が残る」「~とは確認しきれない」「~と判断するには限界がある」などの言い回しを駆使しつつ,要は「あなたの見解は尊重するけど,自分としてはそこまではいえません」というような言い回しに終始するのだろう。
まるでそれが個性の尊重であるとでも言うように・・・。
その結果,「偽作」は息を吹き返す。「捏造された事実」「詐称された歴史」「暴論」「ありえないきれいごと」なども息の根を止められずに生き延びる。
裁判の場に上っても被害があったものについて議論されるだけだ。捏造行為の是非は利益や権利を侵害しないかぎり,裁かれないのだ。
「東日流三郡誌」も「でっち上げ」事件も「福岡一家皆殺し」事件もいずれも,事件の全体像に言及した判決は出ていない。曖昧で,中途半端な結論だけが出ている。まるで,「曖昧なままにしておくことにより双方をそれなりになだめる」と言わんばかりに・・・。
こういう姿勢が,日本をここまで正義感や誠実さのない国にしたのではないかとすら思う。
否定すべき立場の人たちがみな責任の及ばないよう曖昧な立場に立つのに対して,嘘を主張する側は必死である。両者の言い分を聞いていると,どうしたって嘘を主張する側の強い主張に自信を感じて引きずられることもあるのではないか。それがまさに今の日本で起きている現象ではないか・・・そんな気すらしてきたのである。
だいぶん話が飛躍し,深入りしすぎた・・・。閑話休題。
さてこの本の後半で,こうしたものを生み出すに至った背景には「東北人の中央政権に対する怨念」というものがあったのではないかと問題提起している。高橋克彦などの本ではよく取り上げられているものである。
単なる事件の事実経緯のレポートに留まらず,その文化的背景にも言及したことで,この本全体,この事件全体がなんとなく東北人の自己主張のようにも感じられた。
安本氏をはじめ関係者の総括も心に残る。
今普天間基地問題が騒がれている。「沖縄県内で仕方ない」という人もや,「自分の住む県に持ってこられてもやむを得ない」と考える人も皆無ではないはずだ。でもそういう人は息を殺し声を殺している。どんな場面にも無言を貫く常識的声(「サイレント・マジョリティ」)はある。上司に異論を唱えられないサラリーマンだって多かろう。真実を叫ぶというのはとても難しいことなのだと改めて感じた。
どうも論点が広がり,この本に書評に留まらず申し訳ない。
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斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』読了。東日流外三郡誌を巡るドラマの迫真のルポ。めちゃくちゃ面白かった!!。その成立過程や背景、特に作中なんども繰り返される「なぜ人々は偽書に惹かれるのか」という問い掛けと東北という土地との関わりが興味深い。超オススメ!!。
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「東日流外三郡誌」は一時期には真書のように取り上げられていたことがあったのを覚えている。ほぼ偽書と固まった後でも、争いが継続しているということで腫れ物のように長い間触れられない存在だった。白黒付けるのに慎重なのは良いが、余計な誤解を広めないうちに決着を付けることも重要だろう。公共報道のあり方にも一石を投じる本だと思う。
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東日流外三郡誌が全くの偽書だとは知りませんでした。私たちのころは教科書にも出てたような・・・?キリストのお墓とかはまあ、男のロマンと思えば楽しめますが、自治体のお金なんかが絡んできてしまうともう笑い話じゃすまないですね。それにしても地方新聞って面白いですね。
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え?ここまで実名だして大丈夫?って心配になるくらい生々しい描写が続く。なんでこんなオッサンにみんな騙されちゃうんだろ?って最後まで疑問が残る。津軽の抑圧された深層心理とか自治体の村おこし的な希求とか本の中でも色々要因探しはされてるものの、やっぱり第三者としては疑問が残ってしまう。でも本としては、登場人物のリアルな情景が描かれていてワイドショー的な要素がありかなり面白い。少々、著者(元新聞記者)の自己顕示が鼻につくとこはあるけど。
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東日流外三郡誌を執念で追いかけて偽書告発していく記者のルポ。
世の中が必要とするから偽書がでるという視点は面白かった。
偽書だと判っているものを延々と追及されて飽きがきた。
現実はドラマティックではなく地味な努力の積み重ねと良くわかり、筆者に敬服。
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読むまでは、中央に虐げられた東北。
青森のアマチュア歴史家(和田喜八朗)がその怨念を晴らすために
でっちあげた偽書と思っていたが、ことはそう単純ではなかった。
和田喜八朗氏はまず青森を東北を騙した。
「はんかくさい」文書やレプリカで。
本書、今年私が読んだものの中ではBest!
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なぜ偽書作成なんていうハイリスク・ローリターンなことをするのか。なぜ一般人だけでなく、専門の研究者までもが偽書を真書だと信じて、それに固執してしまうのか。そのあたりの心の動きが知りたくて、いま読書中。
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まさにオカルト雑誌『月刊ムー』のようだ。
私が『月刊ムー』の定期購読を止めて以降に、大きな動きがあったようです。
真偽論争に決着がつけらた渾身のルポ。
『月刊ムー』でさんざんっぱら取り上げられたのになぁ~…偽書かぁ~…やっぱりね。
間接情報でしか知らなかったけど、実物を見ると、いかにも怪しげだったのかもね。
どうしてみんな騙されたのかな…村興し・町興しのためとか、好奇心とか、功名心とか…弱いところを突かれちゃったんだね。
最初は仲間内でやってたことが、自治体を巻き込んで…日本中、世界中に広まっちゃった。
折りしも、ポストモダン思潮に乗って、裏歴史みたいなものが、流行った。
実物はこんなに怪しげなものだけれども、みんなが惹きつけられたのは、ロマンを投影したからだろうね。
”まつろわぬ民”から見た歴史というものに。正史以外の歴史というものに。
最初から、創作だと発表したら、こんなに話題にならなかっただろうね。盗用・盗作・継ぎ接ぎで出来上がったものだったんだからな。
ネットがない時代に、出し惜しみと小出しという演出というか、求めに応じて創るという状況が、ブレイクさせたんだな…。ある意味スゲー。
ネットがない時代に、青森の片田舎から大ブレイクしたなんて、超スゲーよwww
「竹内文献」キター(・∀・)ー!
これも偽書かぁ~…まぁ、当然だな…これも絡んでくるとは、オカルト業界凄まじき。
オカルト雑誌からまでもネタを拾ってくるとは、まさにマッチポンプですな。
その昔は、『エニグマ』とか、『ムー』と同時代的には、『トワイライトゾーン』とか、版元の新人物往来社なら『AZ』とかありましたが、今は『ムー』が唯一生き残っていますね。だって、面白いんだもん。
偽書とわかっていても、偽書のネタ元に事実が含まれていれば、いつまでもネタになりますよね。
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推理小説のような、追求シーンにはどきどき
しました
人間は不思議を信じたくあり、公的な立場の時は
ソコを踏み越えてはイケナイ最終ラインがある
しかし、欲を捨てきれないために戦後最大の歴史
詐欺に多くの自治体が巻き込まれるのだ