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幕末や明治維新は日本史上の大きな事件であり、現在の私はとても興味を持っていますが、学校で習ってから時間がかなり経過してしまったことと、幕末の頃の歴史は殆ど授業でも触れることができなかったので、記憶にありません。
この本では幕末や明治維新の頃の事件やそれに関わった人物についてのエピソードが紹介されていて楽しく読むことができました。
既存の政治体制を崩すには、クーデターが何度かあったことは歴史に残っている通りですが、最新の明治維新については私の不勉強のせいなのか詳細がわかっていません。
さらに、日本が戦争に突き進んだことを非難することは容易ですが、そのためには明治維新の前後まで、日本が置かれた環境を理解してから議論すべきだと思いました。
以下は気になったポイントです。
・江戸末期の頃、北町奉行所は千代田区呉服橋辺り、南町奉行所は中央区数寄屋橋辺りにあった、奉行を補佐する与力(200石)は25人ずつ、同心が130人ずつ、同心の下に、目明しや岡っ引(無給)がいた(p15)
・ペリーは、香港経由で琉球に訪れてから浦賀に来た、琉球は薩摩藩の支配下であったが、密かに清国とも主従関係を締結していた(p33)
・琉球王国では、清国や薩摩の使者を楽しませるために、学問はもとより茶道、音楽などの芸能をたしなむことを奨励された(p36)
・徳川慶喜は、代々伝わる家康の秘密の遺言書を見ていたので、鳥羽伏見の戦いにおいて錦旗を見て、朝敵になってはいけないと思って逃げた可能性あり(p43)
・ペリーは琉米修好条約を締結した後に、記念として沖縄から梵鐘を持ち帰り、それはアナポリス海軍士官学校の庭にあった、変漢されたのは130年後の1987年のこと(p46)
・日本が不平等条約を締結してしまったのは、懸案の貿易方式(長崎の出島方式か自由貿易か)に目がいっていて、その他の項目について考慮するゆとりがなかったから(p48)
・茨城県における「先走り損」は、1)939年:平将門の乱、2)1936年:226事件、3)桜田門外の変、でありいずれも茨城県人が関係している(p61)
・孝明天皇が和宮降嫁を許した条件は攘夷であった、開国をとるか鎖国を続けるかの選択を迫った(p80)
・慶喜は攘夷実行を約束して、1863年5月10、23,26日に下関砲台から、アメリカ、仏、オランダに砲撃を加えた(p85)
・1867年10月14日に大政奉還をした後に、12月9日に明治天皇は、薩摩、安芸、越前、尾張等の藩兵とともにクーデター(王政復古の号令)を起こした(p107)
・鳥羽伏見の戦いにおいて、旧幕府軍は兵力の面では優っていたが、何のために戦うのかという目的意識と、優秀な指揮官に欠けていた(p111)
・古くからある国民の祝日は、1月1日(新年節)、2月11日(紀元節:神武天皇の即位日)、11月3日(天長節)、11月23日(新嘗祭:収穫祭)である(p119)
・��治の新政府ができるまで、あまりにも多くの血が流れて人材が枯渇した、有能な人材の消耗は勝者側に多かった、藩の庇護はなく狙われやすかった(p120)
・明治新政府は、天皇を中心とした祭政一致をはかるため、古代から続いてきた神仏混交を禁じた、神道国家による国家の統一であったから(p136)
・近代日本の感覚から見れば、植民地主義は「悪」だが、当時の世界では勢いのあるものが、そうでない国や地方を切り取ることはごぐ普通、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランスはそれを踏襲、ドイツ及びロシア、アメリカは遅れていた(p147)
・1878年に参謀本部が作られたことで、軍が政府から距離を置くようになった、日本の軍隊は天皇に直属する形となった(p148)
・徴兵令が出されたのが1873年、廃刀令(軍人、警官以外の帯刀禁止)が1876年に出された、西南戦争(1877年)はこのような背景ひおいて起きた(p149)
・西南戦争において、最強とうたわれていた薩摩武士といえども、百姓兵(近代兵器と洋式軍隊)に勝てずに、鹿児島県は明治政府に九州された(p151)
・小島判事は、ロシア皇太子事件で司法の独立を貫いたが、その後に大変ないじめに合って、引責辞任させられた、藩閥政治に逆らった例である(p168)
・自治体の長や、議員を選ぶ選挙権のある者は、国税2円以上を収める男子に限定、町村長は無給の名誉職であったので、会社経営者や地主しかなれない仕組みを作った(p174)
・長岡藩は北陸の中で孤立したが、河井(長岡藩家老)は装備の近代化をはかり、藩の防衛戦を戦ったが、彼の戦死により1867年7月29日に長岡城は陥落した(p197)