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詩や哲学、小説、あらゆる分野を飛び越えて、
壮大ながら、最小限で構築されているミニマムコスモス。
頭の中こそがすべてを構築し、破壊していく命のスープであると。
一単語も見逃せない、
見落としたらすぐに文章の中で行方不明になってしまう。
そんな緊迫感に満ちている凄まじい作品である。
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この本は、追放された書物である。逃走する書物であり、隠蔽された書物であり、ゆえに、何よりも寛容で、何よりも凄艶な、恍惚の書物である。
本書を隅々まで満たすことばの様々は、日常的で慣習的な、通常の言語的了解をことごとく阻む。しかし、その拒絶はどこまでも感情的で、扇情的で、蜜のような誘惑を纏った挑発としての拒絶である。ル・クレジオとの甘い遊戯の果てに我々読者が辿り着くのは、決して錯乱した混沌ではなく、美しい秩序である。雑じり気のない、純粋な調和である。しかし、その整然とした融合は紛れもない倒錯の、狂気の秩序でもあるのだ。
狂気。それは例えば、蒼褪めた馬の頸に縋りつき慟哭する狂気かもしれない。コカインによる浮遊と眩惑に支配された、気怠い狂気かもしれない。分裂病的な、あるいはノイローゼのような、病理としての狂気でもいい。とにかく、そこには逸脱がある。平常からの、尋常からの、通常からの逸脱がある。ル・クレジオが『物質的恍惚』として素描してみせたのは、この逸脱の秩序である。
我々が生きる世界や日常と輪郭を同じくして併存する言語体系は、稚拙で不安定な実践の下に成立している。そこでは多くが零れ落ち、漏れ出し、切り捨てられ、連綿と続く差延の営みだけが循環している。ル・クレジオの慧眼が捉えたのは、その循環、その体系化と画一化からむしろ積極的に逸脱してゆこうとする、ことばの自律的な欲望であった。言語として構造された逸脱は狂気の秩序として、ここに"essei"の体裁を借りつつ作家の過去、経験を表現するにまで至っている。
恍惚のことば、感情と感覚と感動とが、ぶつかり合い、殺し合い、愛し合って織り成す論理と詩情の螺旋は、豊潤な文藝を孕んだまま文学の外へ、表現の外へ、そして言語の外へと優美に上昇する。その過程で丹精に語られるのは、究極にまで微分された内省的な自己であり、自我の方法である。
ル・クレジオにとって、自己や自我はほとんど全くの虚無であるように思える。内側へ内側へと潜り込み、魂の有様を抉ってゆく彼の双眸に映えるのは、ただ漠とした空白だった。彼が目指したのは、虚しく広がる自我の伽藍に意味を、内容を、肉体を、息吹を宿すことだったのかもしれない。だからこそ、生々しく鼓動し、循環し、排泄する、生命体としてのことばが必要だった。器官としての自己を形成するに足る、苛烈で、精密で、グロテスクなまでに自律した文体が必要だった。
若かりし文学者の葛藤は彼を支配する言語体系を遥かに解体し、その美貌の奥に潜む苦悩を、狂おしい程の言語的放蕩の果てに、極めて写実的に描ききった。その徹底した描出は、平素我々が何を失い、何を逃し、何を無化しているかを、そしてまさにその対象それ自体をも示す。
避け得ない喪失を、約束された追放を、そしてそんな欠落に宿る一抹の救済を、人は恍惚と呼ぶのだろう。であるならば、やはり、本書こそは、あらゆる救済を背負った、物質的恍惚である。
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本書は、生誕以前人間にはなにがあったか、死後人間はどのようであるかという、人間の根源に関する無知を、ル・クレジオ自身の経験と過去をもとに、虚無として描き出したエッセイである。
では虚無とはどのような虚無か?
まず本書には、形而上学的な記述に見られるような論理的展開、すなわち整合性と分析を旨として思索を進めていくような意図は一切見られない。むしろ体系化を避け、一般的な言語の有り様から積極的に逸脱してゆくかのような語り口が続く。主人公は、明確な輪郭を与えられることも無く、非常に直裁な仕方で諸事象を語る。それを経て無限や永遠といった観念にまで細やかな記述は及ぶ。この不明瞭な語り手による記述からは、文体の内部に虚無を演出しようとする明らかな意図が感じられる。
次に本書の表題に立ち返ってみたい。「物質的恍惚」とはどのような状態であるか?そのことを理解するためには、物質という語彙を、その定義が指示する範囲の外延に留まるような「物質」であると解釈する必要がある。ここで「物質」とは、近代的な意識の生み出した様々を否定する「物質」であり、近代的な感覚にとっては科学の光を逃れてゆく闇の「物質」でもある。この作品における近代自我の消失にも、私はル・クレジオが演出した虚無の片鱗を見出した。ル・クレジオはその思想を明らかにせず、思想のうちに宿る物質から「物質的恍惚」という記述された虚無を作り上げた。私が魅了されたのは、そんな人工的な虚無の美しさである。
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エッセイというととかく軽い感じの読み物を連想しがちだが、これもエッセイなのである。めちゃくちゃ重厚なエッセイ。
初ル・クレジオに本書を選んで……正解だった。
ついていくのが至難で何度か脳が機能停止しかけたものの、その精緻な語り口にただただ圧倒され、無上の悦びに浸ることができたから。
大海でアップアップしながら漂っている状態もまた、ある種の恍惚を生むものなり(笑)
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圧力。言葉の全弾発射。
生きる前のこと、生きた後のこと。そういうことを表すためにまず今を、今の有形や無形を書き表そうとしている。そう感じた。
小説なのかもしれないが小説的ではなく、哲学的でもあるけれど哲学書とは違う。
唯一無二の本。
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言葉という思弁が構築する観念の城塞、もしくは感覚を鋭敏化させた彼岸の景色。とても20代とは思えない、言語の命脈を熟知しているかのようなその鬼才ぶりと、決して20代にしか描けない、生命の果てへの純粋たる観念が渾然一体となった凄まじい書物。言葉が言葉と重なり合うことでイメージが爆発し、論理的作用によって追い詰め感性的効果によって突き落とそうとする、理屈とイメージが溶け合った表現がひたすらに素晴らしい。そして真空へと無へと向かうそのベクトルの力は「無限に中ぐらいのもの」である生の根源と共振し、越えていくのだ。
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自分が生まれる前のことで始まり、自分が死んだあとのことで終わる、このエッセイは今年読んだなかで、いちばん好きな一冊かもしれない。無数の人々や無数の表現から自分が構成されているという考えは好きだったし、自分自身に向き合う感覚になった。
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こんな本読んだことない。読むのがつらかった。めっちゃ時間かかった。
一語一語を理解できず、流れに身を任せるしかなかった。
途中から何について書いてるのかわからなくなるのに、所々ではまったく共感でき、未知なる世界に導いてくれて止めるに止められない。
「沈黙」の章は神秘的ですべてであって何もなく、死生の話しで好きだった。
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作家にとって言葉とは何だろう。それはもちろん、自家薬籠中の物としている素材であるはずだ。だが、同時にその言葉が限界となって彼/彼女を苦しめるとしたら。このエセーの中でル・クレジオは言葉を通して世界を記述し尽くすことを試みている。眼前に存在するもの、脳裏をよぎるもの……もちろん凡そそんなことは不可能なわけだが、その不可能に挑む果てに前衛文学のようでもあり哲学小説のようでもあり、そんな浅い整理に収まり得ないような深い書物のようでもあるこの奇書をこしらえてしまったのだから恐ろしい。読みながらその情熱に息を呑んだ