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2010/06/25
脳死患者からの臓器の摘出を「承諾」できる仕組みが、「人体をその人のものではなく、社会のものにする」仕組み、つまり「人体の公有化」の仕組みになるというのに、恐怖感を抱いた。民主主義の「暴走」を止めるブレーキは、民主主義それ自体にはついていないということ。これから先、尊厳死や高齢者等への医療についても、誤った道を進まぬよう見ていかなければと、強く感じた。
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日本社会では今、「いのち」はどこに向かっているのか。臓器移植法の改定により「脳死」が「人の死」とされ、家族の承諾だけでも全年齢で臓器提供が可能になった。7月の本格施行を控え、多くの人が遭遇しうる「ご家族の臓器を提供しますか」という問いに対し、知っておきたい事実や脳死・臓器移植をめぐるさまざまな声を伝える。
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[ 内容 ]
日本の社会では今、「いのち」はどこに向かっているのだろうか。
臓器移植法の改定により「脳死」が「人の死」とされ、家族の承諾だけでも全年齢で臓器提供が可能になった。
本格施行を控え、多くの人が遭遇しうる「ご家族の臓器を提供しますか」という問いに対し、知っておきたい事実や脳死・臓器移植をめぐるさまざまな声を伝える。
[ 目次 ]
1章 知っておきたい、考えたい、脳死・臓器移植13のこと(脳死・臓器移植とは何か;日本における脳死・臓器移植;2009年の臓器移植法改定;脳死とは実際はどのような状態なのか ほか)
2章 家族として脳死と臓器移植を経験して
3章 さまざまな声(脳死臓器移植は愚行である;脳死移植を考える;小児脳死診断基準と長期脳死;脳死移植について ほか)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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この本は、脳死による臓器移植に反対の視点で書かれた本です。医者や哲学者、歴史学者、様々な人たちによる、脳死による臓器移植についての論文が読め、いのちの尊厳や民主主義の限界などにも言及されていて、とても勉強になりました。
脳死判定がかなり適当であることと、自分が脳死宣告された時のことを考えると、臓器提供って怖いなと思います。
精神障害や重度障害者は臓器提供者になるべきだとかいう考えが世の中にあることにも絶句。
痴呆老人の内臓もとってしまったらどうか、とかよく考えられるよな。怖いよ。
だからって、臓器移植でしか助からない人に、限りある命だからあきらめなさいとは言えないよな。実際自分とか、家族にそういう人が出たら全力で移植してくれる人探すと思うし。
内臓や命が切り売りされる世の中になったんですね。考えるとなんて恐ろしい現代社会。
ポストモダンの問題がここにも。
「わたしをはなさないで」の世界が、このままでは現実に起こりうるかも。
一章の〈9〉(10)とか得に熱心に読んでしまった。親から虐待を受けて脳死になった子供は、誰が臓器提供の判断を下すのか。親から暴力を振るわれて脳死判定を受けた子供は、何も言えないまま、誰かの判断によって内臓を摘出されて肉体的にも死んでしまう。二回も殺されないといけないなんて、その子が何をしたんや・・・。
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私はドナー遺族である。父の一部を顔も知らない誰かに渡したことで、父の遺志を継ぐべきなのは遺族だけであると理解できた。その点で臓器移植という医療には感謝している。提供したものは臓器であって、父の記憶や思いではない。
歴史から、人類学から、社会学、法学から、様々な学問の観点で論じられている。議論の末に、臓器移植を後悔し悩む、遺族・患者がいなくなればいいと思う。
が、脳死と呼ばれる状態に陥るのは順番待ちの患者のせいでも何でもなく、ただそれは運命でしかない。
二人を巡り合わせる医療システムが、パーフェクトになることはおそらくかなり遠い将来のことではないか。それまでの間すべきこととして、移植患者、ドナー遺族のメンタルケアにこそ力を注ぐべきだと感じる。
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「脳死は死なのか」
最近この問いに対する論議が聞かれなくなってきている。
この本は、脳死を死とすることに疑問を呈し、その根拠を述べている。
脳死判定の必要性は、臓器移植の進展に伴い意味が増してきた。
臓器移植用の臓器を待つということは、他者の死を待つということでもある。
目の前の患者の生存に全力をつくす、という医学の理念と矛盾するという指摘を読むと、その通りと思えてくる。
「脳死は死なのか」
この問いに対する論議が凪いできた今、実状と照らし合わせながら導入時とは異なる落ち着いた論議を行う必要があるのかもしれない。
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全ての人に読んでほしい本。脳死状態でも、意識はあるのかもしれない。意識はあるのに、意志はあるのに、発言できずに殺される恐怖。それを考えるとただただ恐ろしい。私は絶対家族を臓器提供させないし、自分も臓器移植は受け入れないと思った。
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薄い本だけど、内容はわかりやすく充実している。
脳死移植問題は、自分とはなかなか関係のない話題に一般的に思われていると思うけど、自分や身近な人の脳死は突然の事故などで起こりうることであり、どうしたいのか、家族の意見は、など普段から考えておくべき重要な内容であることに気づく。
また今までは、脳死した臓器を生きたいけど先天性疾患などで生きる事が困難な人に移植することも、様々な側面はあるにしても、意義あることとも言えると思ってた。でも経験した人の話や移植に関わる様々な闇の話を読んで、今の状況には賛成できなくなった。
今意見を持って考えてると思っている人も、一部の側面からの情報のみで意見を出した人が多いと思う。臓器提供した人の苦悩や、移植不成功だった人や家族の言葉、移植しても普通の人より寿命は短いこと、なぜ移植する状況になったのか、人の命を犠牲にしてまで生きるべきなのかなど、多くの賛否を考えるための情報が不足している、限られた情報の中で意見を出しているのは正しい結果ではない、移植賛成派に情報操作されたら、そのまま騙されて流されてしまう。そういう恐ろしい面もあることに気づいた。すべての側面(移植される人、臓器提供する人、その家族、医療関係者、制度制定に関する人、外国の臓器移植関係者など)について知ってからでないと本当の答えは出ないと思った。そこで世論調査の賛否をとっても、その結果は意味がないと思う。
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脳死、臓器移植について考えさせられました。脳死判定が必ずしも確かではない事を考えると、臓器移植が人を殺す事になると思う。様々な人の意見が記されていて非常に興味深い内容でした。
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結構衝撃を受けた本。
脳死・臓器移植反対の立場から書かれたことを考慮しても、納得させられてしまう。
脳死したら、その体は動かないと思っていたが、そんなことはない。
脳死患者にラザロ徴候(刺激を与えていないのに、体が勝手に動く)が起こっている時に人工呼吸を外そうとすると、チューブに手が伸びるそうです。メスを入れるときには暴れだす。そのために麻酔や筋肉弛緩剤を投与する。
背が伸びたり、体重が増えたり、妊娠をしたりもするそうだ。
このようなことが起こっている中に「あなたの子どもは脳死です。法律的に死にました。臓器をください。」と言われたらどうするか。自分の子どもではなくても死んだとは思えないだろう。
また、脳死=人の全身的な死の科学的理論「有機的統合性」と「ドライブ論」。これについても批判されていて、なるほどなーと納得させられてしまう。
そして、臓器移植をした後の生存率も思った以上に高くはない。
などなど、いろいろと考えさせられる内容がある。
これについて議論したいなー。
是非一読を!!
(まっちー)
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素晴らしい。
そして自分が如何に無知であるかを改めて知った。
世の中には知らないことが多すぎる。
「死」ひいては「生」を改めて考える非常に良いきっかけとなる本
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脳死、臓器移植について深く考えさせられた気がします。賛成派反対派それぞれにちゃんと言い分があってどちらも納得できるものです。自分の無知さに恥ずかしくなったりはしましたが、これを機にもっと深く勉強してみるのもいいかもしれません。
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おすすめ資料 第116回 人の"死"とは?(2010.10.8)
2009年7月「臓器移植法」が改正されました。
改正後は、本人の同意がなくても、家族の承認での移植が可能となりました。
2010年7月の施行後1ヶ月で初の家族同意での移植がなされたとの報道があり、その後堰をきったように本人の同意のない移植が相次ぎました。
子供からの移植も可能となり、法律上は「脳死」が人の死として定義されたことになります。
人は死とは無関係でいることはできません。
「脳死」=死との定義は、日本で生きるすべての人に「死」とは何かという問いをつきつけています。
また、家族の「死」について選択をせまられることも十分に考えられます。
あなたは人の死・いのちについて、自分の意見を持っているでしょうか。
本書は、現在の移植法のあり方に反対する立場から、コンパクトに脳死、臓器移植をめぐる問題をまとめています。
もちろん、反対がイコール正しいというわけではありません。
少なくとも「死」「いのち」については、マスコミや他人の意見ではなく「自分の意見・考え」を持つための不断の思索は必要であると思われます。
「無関心」や「無知」が許される状況ではないことを認識する意味でも、一読をおすすめします。