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立松和平
良寛 行に生き行に死す。仏教エッセイ。絶筆ということで 途中終了感は否めない。
岡本かの子の仏教エッセイを読んだばかりなので、
岡本かの子=親鸞、立松和平=良寛=道元 として、親鸞と道元の違いを意識して読んだ。
岡本かの子は自己救済のために親鸞の思想に導かれ、立松和平や良寛は 自己犠牲的な生き方に 自分の道を見出したので道元の思想を実践した?
親鸞と道元は 同じ仏教でも プロセスが異なることに驚く。信仰の目的は さとり で同じなのだろうか? 道元の「身心脱落」と親鸞の「空」は 同じ意味なのだろうか?
良寛の生き方
*プロセス=道元思想の実践者としての生き方=清貧、自己犠牲、只管打坐
*結果=自然にまかせた生き方=身心脱落
良寛の自然にまかせた生き方に 人間の理想を感じる
*生老病死は生きるものの自然であり真理である
*災難に逢う時節には 災難に逢うがよく、死ぬ時節には 死ぬがよい
身心脱落とは
*道元のさとりの言葉=身体からも心からも囚われなくなる境地
*人と自然とを固定するあらゆる関係性が壊れ、束縛するものがなくなり、完全に自由自在の境地
*身心脱落とは 坐禅なり
子どもとの手まり
*無心な子供に欲はない〜これこそ身心脱落の境地
*仏道に遊びながら、仏の教えを体現する手まり
蛙声、絶えざるを聴く
*蛙声=そのへん至るところにある仏性が大音響を発して天地のありようを示している=諸法実相の姿
*蛙声は良寛のさとりの契機?