紙の本
知の共和国の変遷史
2010/12/18 13:18
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゆうどう - この投稿者のレビュー一覧を見る
「知」とは何なのか。「情報」とどう違うのか。
〔全世界で実験室(ラボ)が台頭し、アメリカがはかない勝利に浸り、せわしない技術の躁状態が続くなかで、わたしたちは永続的なものと一時的なものとを選り分けなくてはならない。「情報時代」を華々しく推進しようとする人々は、往々にして、知とは人間同士をつなぐものであって、決して情報を集めることではなかった、という事実を忘れてしまう〕〔p.289)とある。つまり、著者によれば、「知」とは永続的なもので、「情報」とは一時的なものである、という解釈である。
続いて、〔Wikiやブログといった電子回路の中に新たに生まれたコミュニティーによって、従来信用証明されていた文化の門番たちが溺死させられれば、オンラインでの信頼できる正当な知の追及は、ますます難しくなり、決して簡単にはならないのである〕という現代の状況についての危惧を表明する。多分、このあたりの問題意識から出発して、西洋の「知=知識」の歴史を省み、たどったところに著者の意図があるのだろう。その「知識社会」の起源を、アレクサンドリアに代表される古代の図書館に求め、中世の修道院、大学(知識コミュニティとしてのウニベルシタス)、近世の「文字の共和国」(主に手紙による知識階級ネットワーク)、専門分野(近代的な研究大学)、現代に続く実験室へと続く流れを跡付けたのが本書である。歴史をたどった足跡が目次に表れている。つまり、〔西洋の歴史において、知が六度にわたって根本から再発明されてきた〕(p.270)のである。新たな「制度」が発明されたとき、古い「制度」は〔新たな目標を与えられて新たな制度に飲み込まれるか、まったく異なる使命を担わされて置き去りにされるかのいずれかになる。〕「実験室」という「制度」が発明された現代においては、前者の例が専門分野=大学の大衆化であり、後者の例が修道院である。
しかし、こうして「知の制度」の歴史を振り返ってみると、古代に発明された図書館がしぶとく生き残っていることに興味がわく。アレクサンドリアの時代には「知」の生産の場であったものが、現代では「知」の所蔵庫に様変わりしてはいるが。それでも、近代以降、新たな隆盛を極めているといっても過言ではない。しかも、古代への回帰ではないだろうが、デジタル・ネットワーク化の進む現代においては、単なる「書庫」から、インターネットを取り入れた「知」の生産の場に変身しようと格闘しているようにも見える。
〔冷戦のコンピュータ実験室で密かに生み出されたインターネットのおかげで、「デモクラシーや商業の命令に従う普遍的な図書館」という古代の夢が蘇り、大衆が、象牙の塔の専門分野の外側で情報を、そしてひょっとしたら知を、共有できるようになった〕〔p.275〕証である。
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文字が発明されて以来、西洋世界において、知識が集積され発展していく「知の拠点」がどこにあったのかを追っている。2300年前のアレクサンドリア図書館から始まり、現代のインターネット検索の話まで、人類の知の来し方を大雑把につかむことができる。
興味深かったのは、アレクサンドリア図書館が試みた世界中の本を収集しよういう行為が、今のグーグルと同じ発想ではないかということ。今グーグルでは世界中の大学や図書館と提携して、歴史上の本をすべてスキャンしようとしているが、この本の後で読んだ『グーグル秘録』のなかでラリー・ペイジが、それを思い立ったのはまさにアレクサンドリア図書館が念頭にあった、と書かれており、時空を越えた知の結びつきに感動を覚える。
また、著者も述べているとおり、この本の中に出てくる拠点のなかで私たちに馴染みがないのは、「文字の共和国」という知識人のネットワークである。1500年から1800年まで、ヨーロッパはここが知の拠点であったとされているが、これは具体的な場所ということではない。絶対王政や長期の戦争が続くなかで身動きの取れなかった知識人や研究者たちが、主に手紙を媒体として、何百人、何千人という単位で結ばれ、情報交換したり、共同研究していたのだという。そんなネットワークが、何百年も昔にかなりの規模で存在していたと知ったのは、この本からの最大の収穫だ。
非西洋世界(中国やインド、イスラム)で、同時代にどのような知の拠点が存在したか各章で簡単に比較されている。最終章の「実験室」以外は、非西洋世界に西洋を凌ぐような知の拠点が存在しており、「実験室」だけが「西洋以外の文明にまったく類似品のない知の制度なので」(p.288)ある。これは、現在、西洋が優位であることの証でもあるが、それがごく最近のことでしかないことも示している。
これから先、知はどのように発展していくのか。インターネットともに、「群衆の叡智」が注目されているが、行く末を展望するうえで、この本のように来し方を振り返るのは意味があるだろうと思う。
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副題に在る通り時間軸を非常に広くまたその場所も図書館から教会、インターネットにいたる多様な視点で捉えていて、知が単に企業や商業目的に、あるいは時の政治的、経済的理由からそのために知的活動の自由度を落とすようなことが有ってはならないと強く感じた。個人的に宝物の書にするつもりです。翻訳者と解説者に特に敬意を払いたい。
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レビューはブログにて
http://ameblo.jp/w92-3/entry-10863924430.html
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2011 8/22パワー・ブラウジング。筑波大学図書館情報学図書館で借りた。
知識の社会史、の中でも知識の制度史について、西洋史を中心におき、中国・アラビア・インドを必要に応じて参照しながら扱った本。主な主張は「知が六度にわたって根本から再発明された」(図書館、修道院、大学、文字の共和国、専門分野、実験室」というもの。
この6つが再発明の担い手である、と明言しているところは面白い。
面白いけど、知識の社会史的な話としてはそれほど新しい発見は含まれていないようにも思う・・・つくづく6つを「再発明」と捉えてそれを中心に変遷を描いているのが特徴っちゃあ特徴って感じ。
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選書テーマ:知のあり方が変わると私たちはどう変わるのかー
紀元前3世紀のアレクサンドリア図書館で知識を得ることとグーグルでつぃきを得ることの何がちがうのか?
作成者:文学部文学科○年
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本著は古代ギリシアから現在までの知の制度の遍遇を辿った本である。
著者が注目するのは「知の制度」であって、知そのものではないのがポイント。
本著を読むと、知というものがそれ自身の正当性によって生き残るのではなくて、政治的、社会的要因によって決まると思えてしまうのは
学問を志す人にとっては悲しい話だが…
結論部はインターネットも含めた現代の知の体制についての考察。
19世紀に出現した「専門分野」と「実験室」という知の制度が現在残っている知の制度である。
実験室の制度は、その実験的性格とカウンターカルチャーが結びつき、シリコンバレーを生み出した。
著者はインターネットが新たな知の制度というわけではなく、「実験室」の制度に大きく貢献した技術であると見ているよう。
「いまや「知識労働者」にとって、知的な興奮が経験できるのは、学術の自由がある伝統的な避難所たる大学ではなく、
実験室の実験主義が企業の起業家精神と出くわして絡み合った場所であることが多い。」
というのは慧眼。
これからは純粋な学問の府ではなく、私企業が知を生み出す場所の中心になってしまうのではないかと思うと悲しい。
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ずっと手元において、他の本を読むたびに読み返したい本。
特に第6章「実験室」に衝撃を受けた。
以下、第6章「実験室」からの抜粋。
・「客観性」は、4つの要素から成り立ちます。
1)制御された平穏で予測可能な環境の中で、再現可能な結果が意のままに生み出されること=「実験室(ラボラトリ)」
2)実験室で導きだれた法則は、同じ環境であれば宇宙のどこでも、100万年前も1万年後も変わらない。言い換えると、時空を超えてどこでも成り立つ。
3)1,2の特徴があるので、基本的に「論争」は必要ない。「正しい」とされた業績は、科学者の共同体全体から「事実」として受け入れられる。
4)実験室で導き出された法則を正しく見定める科学者の共同体を大衆は受け入れているので、3で現れた「業績」は広く世間に受け入れられる。
・この「客観性」は実験科学、上記の1を実現する環境が生まれてはじめて成り立ちます。
それが、西洋で1790年ごろに成立します。
というのは、その時点で、質量を始めとしたさまざまな要素を正確に数値で表すことが可能となり、その環境でフランスのラボラジエが、「客観性」に重きを置く実験を行い、「客観的な知識」を得る方法を確立したからです。
ラボラジエの方法は、誰でも、いつでも、どこででも、結果を再現できます。
・誰でも、いつでも、どこででも、結果を再現できることで、「真理」の「神秘」は消え、科学は技術になる。
・でも実際には、実験室は環境を整えれば整えるほど閉鎖的。それなのに大衆が科学という「客観性」を受け入れたのはなぜか。
・それは、肥料や化学染料、医薬品といった「利益を生み出すもの」を、誰でも、同じ材料、同じ手順を踏めば、製造できたから。「富を生み出す」という事実は強い。
・「再現可能」で「客観的」、という概念は、なので1800年代以降に生まれたもの
・それ以前は、そもそもそういう環境がなかったので、「事実」を様々に「解釈」して、議論を戦わせることが「真理」へ近づく道。「知識」=「政治」の時代。
・科学者の共同体は、高い技術を習得し合う「合意の文化」で発展していった。それは、技術の未熟なものは高いものから習得する「師弟制度」を科学者の中に根付かせた。
という具合。
これって「パラダイム」論を、パラダイムという言葉を使わずに描いているのだけれど、重要なのは「パラダイム」論が論じられた60-70年代は「核兵器」が何よりも大きな問題で、物理偏重になっていたこと。
それに対して、「化学」の成果、具体的には肥料・染料・薬品など、実際に富を生み出し、その富が「近代国家」の幻想を支える土台になったような業績を重要視している(と僕には読めた)点で、論理上の整合性に重点を置く従来の「パラダイム」論よりずっとすっきりしてわかりやすくなったと思う。
さて、よく「議論」のテーマになる、
・「科学は死んだ」
・「文系」と「理系」
・「議論」の意義
なんかは、ココらへ���で一発で粉砕されている。
(僕の)結論
1.「習得可能な「技術」が問題になっている「知」なら、師弟制度が有効。「議論」の余地なし。
2.「論争」をふっかけるのは多くの場合「政治」がらみ。めんどい。めんどいが、1800年代までそもそも「技術的な知」は地上に存在しなかった。
3.とはいえ、こういう「客観性」が「常識」として受け入れられているのは、産業とか希望とかの「現世利益」を「科学者の共同体」が生み出すと信じられているからこそ。その「信仰」が薄れると、「科学は死んだ」となる。
とりあえず読んだ本に追加。
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I・F・マクニーリーほか『知はいかにして「再発明」されたか アレクサンドリア図書館からインターネットまで』日経BP社。知が完全にパッケージ化されている現代では、そのものに興味を持つ。しかし重要なのはそのプラットフォームかも知れない。本書が概観する見取り図はその経緯を明かにする。
本書の注目する「知の制度」は6つ。図書館(BC3C-AD5C)、修道院(1~11C)、大学(~15C)、文字の共和国(~18C)、専門分野(~19C)、実験室(1770~1970)、そしてインターネットへ--。
プラットフォームの変遷史は目新しいものではないが、本書の細論はそのリアリティを伝えてくれる。「知の制度」が時代の変化を促し、そして消えていくのが知の歩みとすれば、固定的図式で事足れりとする臆見をうち砕く。
専門分野と実験室の「知」は国民国家に収斂することで現代世界を生成した。勿論返す刀となり、その起爆剤としてインターネットに注目が集まる。しかし筆者は抑制的。知と枠組みに対する信仰的態度こそ慎むべきなのだろう。訳文が読みにくいのと、世界史的知見が所与の前提で進む議論も少なくないが、おすすめの一冊。
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130803 中央図書館
知を蓄え、世代を超えて伝達するために人類がどのような方法を採用してきたか、そのシステムは今にどのようにつながってきているか、を歴史を俯瞰して記述する。テーマとしてとても興味を惹かれるし、面白かった。ただ学術的にどうか、というと、むりやりジェンダーの話題・ゴシップを挿入してきたり、思いつき程度を大真面目に述べているようなところもなきにしもあらず。
第1章 図書館
第2章 修道院
第3章 大学
第4章 文字の共和国
第5章 専門分野
第6章 実験室
そしてインターネットへ。
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この本で1万年図書館プロジェクトについて触れられている。
http://www.longnow.org/
Stewart Brand : The Clock of the Long Now: Time and Responsibility