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「煩悩は生きる力」と断言する、インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!
2010/10/16 11:11
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投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
インド仏教の指導者・佐々井秀嶺師が自ら赤裸々までに語り尽くした、己の生き様とインドの現実、そして生涯を賭している闘う仏教についての、熱いエネルギーの充満した一冊である。
激しい情の人、行動の人。直情径行の人と言っても言い過ぎではない佐々井師は、若い頃は深い悩みにのたうちまわり、自殺未遂を繰り返しながらも、出家して求道の道を遍歴し、タイを経てついにはインド中部のナグプールにたどりつく。そこは、インド仏教復興の指導者アンベードカル博士にかかわる故地であった。
本人は、瞑想や夢のなかでのお告げに導かれた結果だといっているが、これはまさに自らの内心の声に従い、きわめて強い内発的動機付けによったものであろう。自らの大いなる欲望は、すなわちインド仏教復興の使命として受取り、日々エネルギッシュに邁進する人生。これはまさに菩薩行そのものというべきであろう。
非暴力主義を貫き、インドに根強く残る不義不正と「闘う仏教」。これこそ、佐々井師の生き様そのものである。「慈悲に基づく大きな怒り」、これまた奇しくもダライラマ14世も同じことを言っている。社会正義を忘れた日本の仏教への大きなアンチテーゼといわねばなるまい。
佐々井師の「闘う仏教」をとおして見えてくるのは、ここ数年マスコミでよく話題になる中流階級を中心とした、経済発展著しいインドという明るい側面ではなく、カーストの最下層で苦しむ一般民衆の現実である。仏教復興運動を快く思わないヒンドゥー至上主義者による、度重なる佐々井師の暗殺未遂など、インド社会の暗く、どす黒い現実が見えてくる。読者もまた、こうしたインドの現実から眼をそらすべきではないだろう。
現在74歳の佐々井師はすでにインド国籍を取得しているが、昨年2009年には、日本を出てから44年ぶりにはじめて一時帰国した。その際の、率直な感想が第4章に語られているので、これもまたたいへん興味深い内容だ。
「煩悩は生きる力」と断言する真の宗教者のコトバを、ココロとカラダで感得したい。「苦悩を離れて人生無し、悩み無き人生は、無」であると。ホンモノの宗教家とはどういう存在か、あくまでも文字をつうじた接触でしかないが、その気迫、その覚悟を、切れば血がほとばしるようなコトバをつうじて感じることができるのは幸せなことである。ぜひ一読を薦めたい。
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日本人よ「立ち上がれ」
2023/05/26 16:29
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投稿者:チップ - この投稿者のレビュー一覧を見る
インドの仏教の最高指導者が日本人だは知らなかった
「マツコ会議」で佐々井さんの事を知り、波乱万丈の生涯、「闘う仏教」の姿勢に感銘を受けた
日本の仏教が「宗派」の差にこだわり、座ったままで立ち上がらない事に檄を飛ばしている
これは仏教界だけでなく日本国自体もぬるま湯から出られず徐々に衰えていると思う
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(2010/10/16読了)佐々井師の自伝的書。「破天」は長大なので、佐々井師の入門編として最適と思う。随所で師の心の葛藤に、こちらの心が動かされる。ジャイ・ビーム!
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必生、この大欲こそが大楽金剛、煩悩は生きる力なのだ。
この国の宗派仏教からはみ出さざるを得なかったひとりの彷徨える仏教徒が、渡印45年、ブッダ発祥の地で仏教復興運動率いているという。まさに闘う仏教そのもの。
-20101202
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なかなか良かった。
けどやっぱりインドと日本の「宗教」というものに対する認識の違いのせいか、理解出来ないことも多々。
うーむ。
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女性と恋に落ちたり、蛇を殺めてしまったり本当に人間くさいところ満載なだけに親近感が沸きます。仏教の教えの本というよりも差別撤廃を願う運動家の本として面白い本でした。
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インドに帰化して40年以上インドで生活している僧侶の話。すごい人生があるものだ。
インドのカースト社会では、向上心を持たないのではない。持つことを許されない人たちがいる。夢や希望を生まれた血筋だけを理由に根こそぎ奪われた人たちがいるのだ。
不安はどこにいても何をしていても必ずつきまとうもの、なにかにしがみつこうとするから不安になる。何もしなければ失うものもないはずだ。
アンベードカル氏というカーストと闘った勇敢な人がインドにもいたのだ。
小さき我が溶けて大いなる我と融合し、大いなる我が小さき我を包みこむ。
人間、生きていれば、自分は今までこういうことをしてきた、これだけのものを手に入れrたと我執にとらわれ、自意識の皮で身を守ろうとする。
私たちがこの世に生まれたのは、宇宙の欲の結果。
自殺をしたいなんて思ったら、考えてほしい。放っておいてもいつか必ず人間は住む。だから死に執着してはいけないのだ。生きていることが逆に珍しいのだ。
苦行とは人生とは、自己との戦い。他人がどう評価するかは、二の次。むしろ戦いを捨てた生き方こそ批判にさらされるべき。
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佐々井秀嶺は、日本の総人口よりも多い約1億5千万人のインド仏教徒から上人様と呼ばれる、インド仏教運動のリーダー。故ラジブ・ガンディー首相からインド名、アーリア・ナーガールジュナを贈られた人物である。
日本を離れて44年。2009年に帰国した荒法師がみた現代日本を活写した聞き書きノンフィクションの秀作だ。
日本ではインド経済の勃興が華々しく伝えられているが、インドという国がどういう成り立ちをしているのかという報道は少ない。インドにかぎったことではないが、日本人は海外情報に関心が薄い。僕も、カースト制度があり、その激烈な差別と比較したら、日本国内の差別などあってなきがごとし、という理解があったくらいだ。
そのカースト制度を支えているのが、ヒンドゥー教である。インドは仏教発祥の地だが、現代インドはヒンドゥー教が浸透しており、仏教の力は衰退している。その仏教を復興している男が、インド人僧侶ではなく、日本人の僧侶、佐々井氏である。
若くして生きることに悩み、自殺未遂3回の経験をもった僧侶。タイ留学を経てインドでの布教活動にはいる。宗派にこだわることなく、仏教を学んだ。インドの地で、カースト制の最下層である不可触民出身のアンベードカル博士を知る。博士は、1956年不可触民約30万人とともに、ヒンドゥー教からの集団改宗を挙行した人物。インドに仏教復活宣言をした革命家である。世界史に名をとどめるガンジー以上に、インドの闇を知り、それに光を当てようとしていた。しかし、若くして急逝。インドの仏教運動は足踏みをしていた。そこに現れたのが佐々井氏である。博士の偉業を知り、その後継者たらんと活動をはじめ、いつにインド仏教界のリーダーとなった。
その佐々井氏は、日本に帰国して、日本の仏教者たちが、座禅のような浮き世離れした修行と、こまかい教義の違いで宗派に別れていることに怒る。毎年3万人の自殺者が出る日本という国に怒る。
インドの仏教は、ヒンドゥー教と闘いを経て再生している。ゆえに「闘う仏教」である。その闘争の場には、瞑想や座禅という修行はない。被差別民衆を救うために、社会活動あるのみである。
社会問題と闘う姿勢は、現代日本では一部のキリスト教信徒に見られるだけになっている。日本の仏教は葬儀と座禅と、こまかい宗派ごとのたこつぼ業界になっている。嘆かわしいことだ。これは今に始まったことではない。明治時代のハンセン病患者の救済活動に奔走したのは、外国からやってきたキリスト教徒だった。社会運動に立ち上がらない、鈍いという体質は、仏教界にまだ残っている。
佐々井氏は、日本の禅道場に集まった300人の修行僧のまえで「さあ、皆さん、立ち上がってください!」と獅子吼した。
「今の今を見ることです。死後の世界など関係ない。今ここで、人間と人間がいかに仲良く、いかに尊重し合えるか。そして互いを認め合い、平和で平等な世界を築いていこうとするのが仏教。瞑想に浸ってばかりで現実の他人の痛みに目を閉ざしてはいけないのです。大乗か小乗かなど関係ありません。ましてや、宗派にこだわっている場合ではない。さあ、皆さん、立ち上が��てください!」
僕は仏教に関心をもってきた。佐々井氏の存在を知ることで、またひとつ仏教への距離が近づいたことをうれしく思う。
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◆学んだこと
○大乗の実践とは?
それは「十界」を巡ることです。
十界とは仏教の世界観を現した思想で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十通りを指します。・・・
地獄。これはどん底の世界。本当はそこにも仏様の救いの手が差し伸べられているのですが、それに気づかない、気づけない暗黒の状態。
餓鬼は、欲望に取り憑かれておのれを見失っている状態。
畜生は、理性をなくし反射だけで行動してしまう状態。
阿修羅は、争いを好み他を害することを厭わない状態。
人は、欲望から離れたいと願い、理性を保って争いを避けようと思いながらも、その弱さによって迷い続けている状態。
天は、よく「有頂天」というように、いつ地獄へ堕ちるか分からない不安定な幸福の状態。・・・
声聞は、これじゃいかん、良い先生の教えを聞いて向上しよう、と努力する状態。
菩薩は、自分だけでなく社会民衆と共に苦悩から解放を目指す状態。
仏は、その解放された状態。
これらの世界を、人間はぐるぐる回って生きています。・・・仏道を歩む者は、民衆と手を携えて共にこの十界を巡り、謙虚に悩むことこそが真の修行だ、と私は考えます。 (P160-161)
○必生とは?
なにがなんでもやり通す。辛くても悔しくても歯を食いしばってひたすら生き抜いていく。もし地に倒れたら泥をすすってでも、ただ生き抜く、と。必死の発想には限度や終わりがある一方で、必生には、それがない。死ぬのが当たり前なら、死んでも生きるのが必生です。 (P165)
○仏教の実践?
俗にいう、自分一人が悟りを開くためにあるのが小乗。他者を救済するのが大乗という分類でいくなら、あのとき、丸腰で軍隊に立ち向かったビルマの僧達は、果たして小乗だったのでしょうか?
○立ち上がる仏教とは?
瞑想三昧に浸るには、それを許す環境があってはじめて可能になるということを、よく認識していただきたいのです。・・・座ってばかりでは、慈悲を眠らせることになります。そうなれば、不義不正に屈したのも同然。もはや仏教ではなくなります。 (P170)
○入我我入とは?
小さき我が溶けて大いなる我と融合し、大いなる我が小さき我を包み込む。さすれば小愛は大愛になり、小欲が大欲となる。 (P99)
○宇宙の欲とは?
宇宙の、生きようとする欲が、天地自然を生成し、その一環として、自分という人間が生まれてきたわけです。宇宙の欲には善も悪もない。光や闇も包摂して、大きな調和を成している。・・・人間の小我も大我の一部だということ。 (P103)
◆次に学びたいこと
○アルベードカル。
○竜樹(アーリア・ナーガルジュナ)。
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[ 内容 ]
「煩悩なくして生命なし。
必ず生きる…必生。
この大欲こそが、大楽金剛です。
すなわち、煩悩は生きる力なのです」。
自殺未遂を繰り返し、尽きせぬ生来の苦悩の末に出家。
流浪の果てにインドへ辿り着いた佐々井秀嶺。
かの地で文化復興運動にめぐり会い、四〇年以上にわたりこの運動に身を捧げてきた。
現在ではインド仏教徒の指導者として活躍する破格の僧侶が、波瀾万丈の半生と菩薩道、そして“苦悩を超えていく生き方”を語り下ろす。
[ 目次 ]
第1章 仏教との出会い(発心;世紀の苦悩児 ほか)
第2章 大楽金剛(ナグプール;アンベードカル ほか)
第3章 闘う仏教(闘う仏教とは;インド国籍を取る ほか)
第4章 必生(四十四年ぶりの帰国;高尾の緑 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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仏教に出会い仏教に苦悩し、仏教で救われ、仏教で闘う姿に感涙。波乱に満ちた佐々井氏の人生と、生き方から学び感ずることはあまりに多い。アンベートカル氏の伝記を読んでからのこの本は、インドのカースト社会を知るうえでも衝撃だった。仏教に対する興味がとまらなくなる。
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心の平静を求めるというイメージがあった仏教に、「闘う」というタイトルが意外だったので、読んでみました。日本人がインドの仏教の最高指導者になっている事、教科書では「もう殆どインドには仏教徒は居ない」と教わったのに反して、今凄い勢いで増えている事など、驚きの数々でした。そして、主人公の波乱に満ちた生き方も、まるで小説のようですが、もちろん実話です。
生きるのも死ぬのも苦、じゃあどうすれば良いの?という問いに、主人公が見つけた答え「必生」を、読んで確かめてください。