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私には難しくて殆ど理解はしていないが、面白かった。判らないのに何なんだという感じだが面白かったのだから仕方無い。
日本語って詩なんだなあなんて思った。この、た、に、また感銘を受けてしまう……もっと賢くなりたいものだと思いながら今後もパラパラとめくるだろう。
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これはかなり面白い!古語の豊さに気づくことができるし、それを踏まえた上で古文が読みたいと思うきっかけになるかも。あと、文章から藤井先生はきっと教養豊かなのだと感じられる。読んでいて面白い。個人的には大野先生のタミル語が海を渡って…という説を「ロマンティックで楽しい」と評しているところがツボ。
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現代人が「~しました」と過去か完了かわからない表現で一括してしまうところを、古代のヒトは時間感覚をおよそ8種の助動詞で表現している。
豊かな時間感覚を持ち合わせていたことが忍ばれる。
時の流れを楽しみ、今の時もまた幅のある豊かなものであったに違いない。
そんな古代人を垣間見させていただいた気がする。
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自分の修士論文に関係する内容だったので、図書館入りを待たずに購入。
詩人の感性って新鮮! 目を開かれた思いがしました。
この本をきっかけに『言語学大辞典』も読むように。
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「き けり つ ぬ たり けむ たし」と呪文のように40年前に覚えた連用形接続の助動詞たちの取り扱う日本語の「時制」のなんと豊かなこと。技術系の仕事をしている時も、現代語にせめて「き」「つ」「ぬ」が残っていれば、と思うことがよくある。独断で展開される牽強付会な論理の展開もまた痛快。古典が好きな人には一読を進めたい。同じ著者の「古文の読み方」も読んでみよう。
やっぱり大野先生の「係り結びの研究」と日本古典文学大系(旧体系)の源氏物語(山岸特平 校注)は、読んでから死ぬべきか。読まずに死ねるか!本がどんどん多くなって困る今日このごろ。
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古典語の時に関わる助動詞(筆者は助動辞という)について、どういう整理がなされるのか、期待しながら読んだ。
それに、近代の文法理論で捉えきれない論理があるのかも、と期待するところもあった。
残念ながら、期待に応えてもらえなかった気がする。
まず、私が躓いたのは、krms四面体のくだり。
たしかに、けり/けむのように、「k-i」は過去に関わっているとは理解できる。
「a-ri」が存在、ひいては継続相につながていくことも。
推量に関わる「a-mu」も加わるのも、これまでの説明とそう大きく変わらない気がする。
そこで語尾をつくる「-asi」を加え、これらを四面体の四つの頂点とする立体図を考えているのだが・・・
ついていけないのは、それぞれの頂点となる要素は、語を構成する要素yだとしても、同等の地位にはないものが並列的に扱われてしまっていることだ。
頂点kとrを繋いで、「けむ」が得られ、頂点sとrを繋いで「らし」が、同様にrとmで「らむ」、kとmで「けむ」なのだが、mとsを繋いでも何もできない。
rも、mも、他の要素の下につくものだからだろう。
しかし、本書41ページのように「立体図」にしてしまうと、不可解なことが出てきてしまう。
線分krの周りの空間が時間域なのに対し、頂点sの周りが形容域、頂点mの周囲が推量域という領域の不統一も、このモデルのすっきりとしないところだ。
説明の便宜のために考え出された図にすぎないのだろうが、かえっていろいろな誤解を与えそうな気がする。
さらに、「けり」と「き」の説明も、どうもすっきりしない。
「けり」には詠嘆の用法はないという部分は納得した。
また、「あり」を要素として含むので、現在と関わりをもつものだという説明も理解できる。
ただ、「き」は神話的過去というのはどうなのか?
筆者自身も徒然草では、体験的過去の「き」と伝承や伝聞の「けり」で書かれていることにふれている。
時代が下って、そのように用法が変化することもあるのだろうが、筆者の言う神話的過去と、そういった用法のギャップについては説明らしい説明がない。
また、「大鏡」や「愚管抄」の使い分けにいたっては「省略に従うほかない」とされている!
それは「神話的過去」という説明とは整合的な説明ができないということなのだろうか。
本書を最後まで読むには読んだけれど、このような点が多くて、どうしても筆者の姿勢に信頼が置けなくなってしまった。
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古の日本語には、過去を表す助動辞(助動詞)が、6種<き、けり、ぬ、つ、たり、り>あった。そして、それぞれに、違った時制を持っていたのである。今の日本語が過去を表す助動辞は、<たり>の変化した<た>の1つだけだ。言葉が時を下ることで、簡易、単純化していくのは世界どこでも見られる傾向だが、簡易、単純化しているのは言葉だけなのだろうか。今日の自分たちは、時間を過去、現在、未来の3時称で捉えることを普通としているが、昔からそうだったとは限らない。もっと多元的な時空世界を生きていたのかも知れない。冒頭に上げた過去を表す助動辞も、”過去を表す”というのは、今の日本語からみた当て推量に過ぎないのである。筆者の”非過去”という呼称はとても興味深い。また”krsm四面体”なる野心的取り組みとあわせて示唆的である。
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結局今ひとつ違いが分からない。
「尼になりにける」は語る現在までにもう尼になってしまっていまにあることを言い…
ヌは間もなく起こらんとすることを言うのでは。
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昔の人は、時間を表す助動詞、き、けり、ぬ、つ、たり、り、けむ、あり、などを使い分けしていた。これらが、現代では、た、になってしまった。これらの助動詞の使われ方を述べる。高校の古文の知識も薄らいでいるので少し難しかったなあ。