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神学入門書。左巻は近代自由主義神学、現代に生きるキリスト教の話。難解な神学書を現代人にも分かるようにかみ砕いて解説している。文体はきわめて明快だが、内容に厚みがあって一度では理解しきれない。キリスト教世界理解の一助になるだけでなく、ホンモノの学問の世界に触れることができる一冊である。高校生のときに読んでいたら今とは違う進路を歩んでいたかもしれないなぁ。/同著者の本で「神学部とは何か」がある。こちらは神学部を志望とする人が参考として読めばいい本だと思う。
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近代という啓蒙主義の時代、宗教(キリスト教)はかつての力を失ったかに見える。しかし地面に降り注いだ雨が地面に吸い込まれて地下水脈として蓄えられるようにキリスト教も天上から人間の心の中への「神の場の転換」というパラダイムシフトにより依然強い影響力を持つ。ナショナリズムやナチスの思想的背景に自由主義的神学が関わっていた。近代という現代社会を理解するにはキリスト教の理解が欠かせない。
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一応キリスト教系の大学(院)を出ている人間なのだが,大学内に神学部というのがあるのが,どうにも理解できなかった。
すなわち,神学とは学問なのだろうか,どのように学問を構成するのだろうか,ということについて,全く無知なのである。
この本,上下巻じゃなくて右左巻(うかん・さかん?みぎまき・ひだりまき?)という分け方も面白いのだが,そんな私が初めて知った神学の本というわけです。キリスト教の狭義の中で,どのように論理構成を作っていくかという学問があり得るのだなぁ,と納得。
仕事柄,哲学や思想関係の本も読んだりするのだけど,引用するのは体外西洋の人間である。そんな彼らの「意見・主張」の背後にある信条レベルの系譜がわかる,と言う意味では神学についてもある程度の教養がいるなぁと思ったような次第。
文体が時折,急に断定口調になったりするのは,講義・講演をもとにテキスト化したからだろうと思われる。
なので,お話を聞いているような感じになるが,それが嫌じゃなければ大変読みやすい本です。
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カトリック教会の腐敗に抗議したルターは免罪符を焼き捨てた、と我々は世界史で学ぶから、何となくカトリックは旧弊で頑迷で、プロテスタントは清新で科学の進歩にも対応した、と思っている。そんな史観は多分半分くらいあたっていて、プロテスタント神学を構築したシュライエルマッハーは19世紀、科学とヒューマニズムの力で目覚めてしまった欧州の人々に対し、宗教の本質は直観と感情である、と説き、後には絶対依存の感情である、とした。神は空の上にはいないかもしれないが、信じるあなたの心の中にある、として近代人の世界観に迎合したわけだ。
この左巻には『ナショナリズムと神学』という副題がついている。今では普通の国民国家も国民意識も、オリンピックでニッポンガンバレと応援する感情も、近代の副産物であって、古代と中世を振り返れば決して普遍的ではない。そしてナショナリズムはシュライエルマッハーの自由主義神学に源流があるという。佐藤優はそこに神のくびきから解放され、無邪気に人間の力を過信した近代人の姿を見、それが第一次世界大戦に行き着いたのだと批判する。
そして20世紀のバルト。神は見えない世界にいる、人間である我々は神について無責任なおしゃべりをしてはいけないという教えは復古的で、特に無宗教の比率の高い日本人には受け入れ難いかもしれない。しかし大事なポイントは、佐藤優は見えない世界を信じている(たぶん)ということ。9ヶ月前の右巻を思い起こせば、近代知の下で人間万能を信じる我々の世界観も、神に対して決して奢らなかった中世人の世界観も、どちらが優位ということはなく相対的ということだった。我々には科学の力があるから救世主イエスを産み出した古代人より優秀である、という命題は成り立たない。神学者たちの知的レベルに追いつけなかったとしても、そこに気づいただけでも本書を読んだ価値があったのだと思った。
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超越性とは人間によって創り出せないもの。現在の日本人が合理主義の限界に気づき、超越性を回復することが社会と国家の強化にとって必要と語る著者は、国家と民族が結合したナショナリズムを超越性と誤解する危険を指摘する。昭和の大戦による敗戦まで現人神が存在した日本は、その超越性を捨ててひたすら経済合理主義を追求して、近年は米国主導の新自由主義やグローバル資本主義を信奉した結果が、国家社会の溶解が足元まで及んできていることに漸く気が付いた。21世紀に生きる日本人が回復する超越性とは、いかなるものだろうか。
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基本的なところは、右巻で記載されているのではないか。近代のキリスト教が歩んだ道筋が大まかに理解できた。
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「宗教の本質は直観、絶対依存の感情である」から、自己の絶対化が始まり、解釈の過剰性を生み、偶像としてのナショナリズムを崇拝すると。わかるようで、わかりにくい。読み物としては2章6章が面白いんだが、表層的というかツッコミが甘いような。結局は紹介している参考図書を読めという事か?著者の幅広い知識のベースとなるのが神学というOS的なものであり、他の学問はアプリケーションなんだろうと思う。
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右巻が宗教についてならば、左巻はナショナリズムに関しての本である。
宗教とナショナリズムが近い関係や、なぜ結びつきやすいのかについて書いてある。今の時代は、イデオロギーよりも、宗教、ナショナリズム、が相対的な位置があがっていると思う。
その理由がわかるような本。
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右巻に続き、シュライエルマッハーとゴーカルデンを元に佐藤優さんが解説を加える。
一応続きではあるが、適宜補足が入るのでこれだけ読んでも問題ない。
弁神論に関する、イエスと世界を壁と穴に例えた表現はすごくわかりやすかった。
まだ消化不良の部分も多いので再読したい。
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30年近く生きてきてキリスト教に対して全くといっていいほど無知であったため手に取った本。
近代人にとって神は信じることが難しいものであり、その上でどのような態度で生きていくべきかというのを中世から近代にかけてキリスト教内での考え方の変化とあわせてわかりやすく書かれた宗教論。
この本のみで判断するつもりはないが、欧米人の根幹となっている部分が少し理解できたかなと思えた。
また、巻末にある「ブックガイド」はハードルは高いがそそられるものがおおかったので、機会があれば手にとってみたい。
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『はじめての宗教論』の続編です。現下21世紀の様々な困難にどう対峙するか?ということが神学的な見地から語られていますが、はっきり言って入門書ではありません。
これは『はじめての宗教論』の続編になります。右巻同様、やっぱりある程度、キリスト教に関する知識がないとこの本を読んで理解するのは難しいでしょう。この本は手元において、2度3度と読み返して、
『あぁ、きっと筆者はこういうことを言いたいんだなぁ』
そういうことがおぼろげながらわかってくると楽しいと思います。
僕も、最近の読書傾向が実用書にばかり偏っている傾向がありましたので、こういう本をたまに読むと、ガツンと打ちのめされるような経験をすることがあるので、そういう意味では、大変有意義な本でございました。読んでいて僕がなんとなくですがつかみかけたことは欧米、特にヨーロッパの人間の潜在意識の中に彼の説く世界観や精神観が内在していて、これを少なくともある程度は理解していなければ洟も引っ掛けてもらえないんだな、ということでした。
僕個人を言えば、キリスト教はおろか、ほぼ無神論者で、宗教関係の本がある程度読んでいますが、基本的に信仰は持っていません。そして、作者は論壇に入る前に外務省で官僚を務めていましたが、よくここに書かれている世界観と外務省というガチガチの官僚組織での職業人として、両立ができたなぁといまさらながら舌を改めて巻くしだいでございました。
しかし、むしろ逆にこういった宗教観や世界観を彼が持っていたからこそ、ロシアの国家中枢や上流社会にインテリジェンスの世界で深く食い込んで、なおかつ逮捕されて小菅の東京拘置所で自らを見つめつつ、収監された日々を送ることができたのではないか?そんなことを考えさせられました。でも、僕自身にとって、ここで記されている世界観や宗教観が果たして役に立つのかどうかとは、また別の話ですが…。
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まず本の内容とは関係ないがなぜ途中で装丁を変えたのか。右巻と左巻はきちんと装丁を揃えて出版しろ。
本の内容だが、話は結構壮大になる。キリスト教の考え方の変遷を探って行ける本となっているが、宗教のほかに国家を交えて語られてある。
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なかなか良かった。久しぶりの宗教、神学関係の書籍。専門的なことが深く書かれているわけではないけど、自由主義神学による現在の我々への影響がわりと細かく、わかりやすくく書かれていて面白かった。なかなか手をつけられずにいたシュライエルマッハー、バルトについての導入にもなったのでなかなかいい読書だったと思う。
13/04/13
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「はじめての宗教論 右巻」に続いて、読了。
しかし、「右巻」と比べて格段に難解になってると思います。
油断してたら、フルスロットルで引き離された感じ。
と言っても、引用部分などがとっつきにくので、全然わからないということではありません。精読すれば、面白いです。
なんといっても「初めての---」だし。
宗教(キリスト教)をベースにナショナリズムが構築されているのだが、そのナショナリズムからしてそもそも「民族」という概念自体がフランス革命以降のものである、という部分は目新しい説明です。
キリスト教は偶像崇拝を禁止ししているのだが、やはり宣誓は聖書に手を置くし、十字架も特別なもの。
ナショナリズムが宗教に取って代わると、国家・国旗がそれを表象するものとなり、橋下氏を始めとする国旗・国歌への対し方はともすると信教の自由に関わるものであるという見方もできる。
と、これは私の見解。
それはともかく、簡単に「神学」と言っても、もぉ、笑ってしまうぐらい広範で多岐にわたり、とても一人で全てを学べるものではないらしい。
その枝葉ディレクトリの一分野に関して大学図書館に所蔵されている書物を読破するだけでも2・300年かかるとか。
しかも、ドイツ語始めラテン語まで勉強しなければならないし。
こういうものをベースにおいて発展し、思考や感性のもととしている欧米がグローバルスタンダードであるとするならば、やはりこれは学ぶべきだろう。
興味深いのは、啓蒙された近代以降の私達はファナティックな一団を別にするとして”天上に神は存在しない”ということを知ってしまった上で、キリスト教を信仰していると。
私には信仰心がないので、イマイチ理解できない点ですね。
それと、神が遍在しかつ絶対の善であるならば、なぜ悪が存在するのか。この件のなんだかこねくり回した聖書の解釈が無理やりっぽくて面白い。
佐藤優さんのいかにもクリスチャンである真面目さが随所にあふれていて、こちらも真面目に読んでしまいます。
キーワード:弁証学=異教徒に対する 論争学=内部派閥に対する
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(p.p.16-17「左巻のあらまし」から切り貼り)
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第1章:シュライエルマッハー『宗教論』から、同氏が近代という時代に与えたインパクトを読み解く。
第2章:神の場の転換が、近代のナショナリズムへの途をいかに開いたのか、エリー・ケドゥーリ『ナショナリズム』を題材に。
第3-4章:シュライエルマッハーが完成させた自由主義神学とはどのようなものだったのか、同氏の『神学通論』から。
第5章:バルト『十九世紀のプロテスタント神学』から弁証法神学を捉え、その上でシュライエルマッハーが切り開いた近代という時代は超克可能かを考える。
第6章:ゴーガルデン『我は三一の神を信ず』あら、弁証法神学の限界を見、さらに神が遍在するこの世界でなぜ悪が存在するのかを検討する。その上で、宗教が我々に課す倫理的課題とは何かを考える。
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私的左巻のミソは、「引用」にて。 p.p.259-259の内容です
もうこの部分がツボ過ぎて、何もレビューに書くことない笑
キリスト教者でもない私がこの筆者の文章を好んで読むのはこの内容に共感するからだと思います。
思想の再構築とか物語の再定義は、日本にとって喫緊の課題だと個人的には考えています。 資本主義に身をゆだね効率的に・合理的にしてきて発現させた現状に致命的に問題があるなら、それを修正をする仕組みを作らなければならない。それが思想の再構築だと考えています。
その点で、某"美しい国"という発想は悪くなかったと私は思う。某"友愛"とかも悪くなかった。どちらもエモーショナルなところが起点になっているコンセプトなので。
・・が、それぞれ首相の個人的主張の域を越えなかった。あと、同じコンセプト下の具体的な政策同士が矛盾するのもおかしかった。
紡がれる物語は、国民全体の共感を得る"高感度"ものでなければならない。
神をもう信じられない現代においても、いまだに宗教が(看過できないウエイトで)存在する理由をよく考えないと、人間と言うものを捉え間違いがちです。
考えるきっかけとしての、神学。
やや難しい内容でしたが、面白かった