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美術の観賞方法
1。知識にとらわれずに自由に見る。子供の視点
2。作品に背景を理解しながら見る。解説型の観賞方法
ー知的満足を味わう
3。思索的に見て、意味を作り出す観賞の仕方
二つのアプローチ
1)何が起きているか?どんな出来事が起きているか?
2)これは何だろう?
この3番目のアプローチが大事。
ー
アートとは、自分と作品との間に生まれる化学反応のようなもの。
美術作品と鑑賞者が引き起こす現象がアート。
美術(アート)という現象(出来事)と美術作品(アートワーク)を区別して考える。コンテクスト論
なるほど、アートを自分の体験や解釈する過程、物語づくりの過程、思索する過程とする。アート作品は作者が生み出したものだが
鑑賞者に育てられ育っていくもの。
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若い世代は芸術鑑賞の方法を知らずに育ってきた。
鑑賞できたとしても、そこから抱く感想は画一的であることが多い。
その一因として、小中学校での試験対策のための鑑賞が挙げられる。
教科書にかいてある、どこの誰かさんが書いた「作品の説明」を読む。
その通りの印象を持つようになる、というかそれがまるで正解かのように暗記していく。
ある国の国宝級の芸術品が日本にやってきて、その特別展などがしばしば催される。
これも見方によっては、これらの作品はああいうものだ、という固定概念を持たせる一因と言えるだろう。
しかし芸術家たちはどうだろう。
一概には言えないだろうが、少なくとも多くの人は、見る人の数だけその作品には味わい方が存在すると考えていると思う。
本書に綴られている、佐伯氏(認知心理学者)による言葉を紹介したい。
「アラワレたものではなく、アラワシウルコトの無限集合が絵画なのだと信じる。」(p.31)
つまりは、この本のタイトル『私の中の自由な美術』とあるように、作品をどのように見て、どのような感想を持つかは自由であるということだ。
そんなの言われなくても・・・と言いたくなるだろう。
果たしてそれはどうだろうか。
試しに、本書に掲載されているいくつかの作品を見てほしい。
そしてしっかり向き合ってほしい。
きっとたくさんの発見があるはずだから。
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日本人はなぜ絵の見方に自信がないのか!? 国民病ともいえる謎に深く切り込んだ書。自分らしい「自由な鑑賞」が見つかるよう、様々な事例をもとにわかりやすく解説。文中の名画の数々はカラーで掲載され、美術や絵画に予備知識のない読者でも楽しく読みすすめることができます。本書読了後、「見る」とは何かを考えさせてくれます。
子どもに見えておとなに見えないもの…
美術の自由な世界を失わないために
「対話による美術鑑賞」の重要性にいちはやく注目し、教育現場への応用と普及に取り組んできた著者が、子どもたちの豊かな目を通して、美術鑑賞の本当の魅 力を紹介。インターネット社会がもたらす視覚情報の氾濫に警鐘を鳴らし、想像力という「生きる力」で、美術の自由な世界をふたたび取り戻すための一冊で す。
序章 アートはあなたの心を映す鏡
1章 私たちの絵の見方
2章 なぜ私たちは見る力がないのか
3章 子どもの絵の見方
4章 見る人がいなければアートは存在しない
5章 絵の中に入ってみよう
6章 注意深く見ると見えてくるもの
終章 私たちにとって美術鑑賞とは何か
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日本全国の美術館で「対話型鑑賞」が行われるようになりつつあり、一種のブームが起こりつつあるのではないかと思われる昨今だが、「対話型鑑賞」のバックグラウンドにある問題意識や理論、その方法、その実際などについてまとめて知ることのできる本は、案外少ない。
対話型鑑賞のためのボランティア研修などではアメリア・アレナス『なぜ、これがアートなの?』が参考図書として勧められている。確かにこれは「実際にこういう見方をしてみよう」という参考にはなるけれど、なぜ対話型鑑賞が必要なのか、そこで何を問題としているのかなどについて書かれているわけではない。
そのような意味で、ここにきて、ようやく全体を概観することのできる本が発行されたのだな、という印象を持った。
いますでに、対話型鑑賞に興味を持ち、研究をしたい大学院生なども現れているし、おそらく今後は増えていくだろう。そういう方にはぜひこの本を読んでみることをおすすめしたい。
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○生きるとは解釈である。その際の解釈に主観という語は適さないと個人的な意見
○解釈は、他者をの介在の中で見出される
○自分自身の見方というものが問われることがなく、また溢れるマスメディアによる視点の誘導。そこに資本主義的な性質である「選択」が相まって、人は迷宮に入る。
○美術作品がモノ、美術がコトであることをメタ化し、たとえば情報という語句での展開にもっていくとすると、
資料・データ・事実がモノ、情報がデキゴト(現象)になろうか。
トナール的な主観の練磨が選択には必要になる。
その主観は構成主義的なものではなく、他者との対話、介在の中でみえるもの。
「美術とは製作者と鑑賞者による相互作用(現象)である」
この至言を無理なく腹に落とし込むことの出来る良書。
とっかりとしてのそれとして最適。
「日本の大衆は特定の時期に集中して美術館を訪れる。ふだんはめったに美術館に行かないが、大展覧会にはこぞって訪問するという行動様式が見えてくる」
「大切なことは日常的にどのように美術と接しているかであって、話題の展覧会に行ったかどうかではない」
「美術作品を見て、ああ、いいなぁと陶酔すること自体、決して悪いことではない。それどころか作品をみて息をのみ、素晴らしさに胸打たれるのは鑑賞の醍醐味だ。しかし、それは鑑賞の始発点ではあるが、終点ではない。それで満足するのではなく、出会いの印象をきっかけに作品をしっかり見つめ、思い巡らせてしくことによって鑑賞は深まっていく。陶酔だけでは、その境地には達していない。」
「絵の表層を眺めるだけでそこから先に入っていかない。いや、どこをどう見ればいいのかという基本的なところが釈然としない。自信がない。だから自分なりに感じたり自分なりに考えたりすることに抑圧的になってしまう」
「自分の眼でみていない。自分の頭で考えていない。このような抑圧的な観衆も、実は美術を楽しみたいと思っている。そこで彼らが美術作品をわかろうと努力するとき、その多数は、解説に救いを求めようとする」
「解説とはいわば他者の目を通した作品の見方だということ。監修を担当した誰かが作った台本を、レシーバーから聞いているにすぎない。当然のことながら、他者の見方で何かを見てしまうことの危険性は、現代の映像社会を生きる私たちが敏感に感じ取り、注意を払わなければならない問題である」
「登場人物に感情移入したり、その行動を自分なりに評価したりしながら自分のなかに映画の世界を構築し、楽しんでいるはずだ。この映画を作った監督の意図などを考えるのはマニアックか映画評論家くらいだろう。このように自分と結びつけて詞から記憶を呼び起こしたり、憧れたりすること、それを私たちは自然に行っている」
「佐伯胖/絵は作者の何らかの意図の表現だという考え方には反対である。私たちが絵を見るのは、描かれているモノを見るのではなく、ほとんど無限と言ってもよい多数なコト(事態)」を見る(知る)ということである。アラワレタものではなく、アラワシウルコトの無限集合体が絵��なのだと信じる」
「知っておけばよい、見せておけばといといった教養主義的な安易な態度。」
「美術作品の鑑賞が、美術作品の知識をえることにすり替えられている」
「日本人が美術館に行くのはせいぜい2年に1回。元よりアートと出会う機会がきわめて少ないのだから、見方が育たないのも無理はない」
「欧米諸国の市民が美術館を能動的な学習の場ととらえているのは、美術作品を鑑賞すること、絵画や彫刻を見ることにやすらぎ以上の意義を感じているから。」
「教える側であれ、教えられる側であれ、正しい見方という概念には、物事には必ず正解があり、学習とは正解を知っている偉い人から教えを請う行為だという教育観、学習観が潜在的に横たわっている」
「美術作品を自分の感性や関心によって見る体験、自分の経験や自分自身と重ねてみたり、自分なりに味わう経験なくして、こうした知識的事柄をいくら覚えても、美術を鑑賞したことにはならない。」
「芥川龍之介/芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。言わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具えている」
「文化を参照して見るのではなく、子どもは自分の生活と重ねてみる。しかし最近になってそれがたんに彼の個人的な経験にのみ起因するのではないと思うようになった。」→たとえばアメリカ人は口、日本人は目の形から相手の表情を読み取るというデータがあるように
「こどもは自分が気になるところにこだわって見る。そうした見方については、実は子どもの絵の研究では以前から指摘されてきたことである」
「子どもは必ずしも絵をまとまりのある画面として見てはいない。ただこれは経験による知であって、絵を見ることに慣れてくれば、徐々に絵を部分と部分の関係、部分と全体の関係としてとらえることができるようになる」
「経験による知である。鑑賞経験を積み、美術作品を見ることに慣れてくればこのような見方が可能になる。絵を見ることは精神発達と比例するのではなく、経験と比例するのである」
「記憶の強さは関心の強さと関係する」
「忘れてならないのは、私たちおとなにもかつてはそういう瞬間があったことである。子どもたちと同じように、先入観なく絵と出会う瞬間があったことだ。失われる見る力。」
「対話による美術鑑賞はいつもこのように作品を静かに見つめることから始まる。作品について自分の感じたことや考えたことをまとめ、言葉にしなければならないので漫然と見ているわけにはいかない」
「自由に見て、すきな作品を見つけてくださいね-「どうして、どこが気に入ったの?」と尋ねる。」
「知識と照合するような見方ではなく、作品から直接に感じ取りイメージをひろげていくこと。美術を鑑賞する上でこれはとても大切なことだと思う。」
「独自の解釈を練り上げていく。美術を鑑賞する行為とはこのように個人的な行為なのである。子どもたちの素朴なまなざしに倣って絵を見るとすれば、市井の人々の鑑賞は自然とこのよう��ものになる。」
「知識を得ることの意味と、この絵を見て味わうことの楽しみとは次元が異なる。明治時代に早くも岡倉天心が「世人は耳によって絵画を批評する」と指摘したように、鑑賞の醍醐味は、知識とは別の方向に向かうものであり、問いを発し自ら答えていく過程にあるようだ」
「岡本太郎/あなたはそこにある画布、目に映っている対象を見ていると思いながら、じつはあなたの見たいと望んでいるものを、心の中にみつめているのではないでしょうか。それはあなたのイマジネーションによって、自分が創りあげた画面です。…鑑賞-味わうということは、じつは価値を創造することそのものだとも考えるべきです。」
「思索的に見て、意味を作り出していく鑑賞の仕方はどうだろう。作品を見るために訪れ、感動し、満足感を得るところまでは、前者と同じである。問題はそのあとである。鑑賞者は、さらに時間をかけて作品を凝視する。じっと見つめていると、見えていなかったものが見えてくる。見ていたつもりで見過ごしていたものが見えてくる」
「アメリカで1920年代から興ったニュー・クリティシズムは、作品を作者や作品の背景と切り離し、独立した対象として読んだ。「読む」という行為によって読者が意味をつくり出すという発想、消費者としてではなく、意味の生産者として読者をとらえるという発想は、のちにロバート・ホルブの受容理論を背景とし…」
「石津は、70年以上も前の論文の中で、国文学者の岡崎義恵が提唱した「鑑賞はそれ自体芸術活動であって学的作業ではない」との見解を紹介している。論文の最後に「鑑賞は学ではなく芸術である」と石津自身も述べているが、その言葉は美術鑑賞について語った次の一文に呼応したものでる。「芸術とは、作品のなかに、あるいはその背後に自己完結的に存在するのではなく、この手前に、この「みる」ことの厚みのなかに共同の幻想として成立する。」
「鑑賞とは作品の手前、つまり自分と作品の間に生まれる化学反応のようなものである」
「作品のなかに意味が実体としてあるのであれば、それを読み解く正しい鑑賞があることになる。しかし意味を作品と鑑賞者の相互作用によって生成するものととらえると、鑑賞は個々の鑑賞者の見方、とらえ方によってさまざまな可能性をもってくる」
「美術という現象「デキゴト」と、美術作品「アートワーク」という物質「モノ」とをはっきり区別して考えてみるとわかりやすい。つまりデキゴトとモノの違い、美術と美術作品の違いである。この考えに沿うと、見る人がいなければ美術(アート)という現象は存在しない。逆に言えば、見る人がいなくても美術作品(アートワーク)は存在する」
「作品はあとからなされる解釈にたいして「開かれた存在」であり、鑑賞者の解釈が作家の意図の範疇に属しているか否かはさして重要ではない、問われるべきは、鑑賞者が生成した自己の内なる感情や思考の独自の質であると述べる(テクスト論)」
「人が美術作品をどのように理解するかを掘り下げた研究は、ほとんどなされてこなかった」
「基本のアプローチ
①どんな出来事が起こっているのだろう
ⅰ何をいっているのかを想像してみる
Ⅱ絵の中に入ってみる
②これは何だろう?
ⅰ.意味するものを想像してみる」
「自分の考えを語ったあとに「何を見てそう思ったのか」とその考えの根拠を明らかにするよう促している」
「単純に時間をかけて見ればよいというものでもない。作品を見る距離を変え、全体から細部へ、細部から全体へと視点を変えながら、「睡蓮の池のこの部分には何が描かれているのだろう」と探索し「阿修羅の手のしぐさは何を意味しているのだろう」と思索すれば、ほんの数分で鑑賞が深まってくるのを実感できる見えていなかったものが見えてきたり、初めは気付かなかったことに気づいたりと、いろいろな発見がある」
「他の受講生の発言を聞くうちに、それは色を、形をもち始める。不思議なことに、本当に漠然としたイメージでしかないのに、他の意見に対して、「それは違う」と感じることができる。そしてそれらとの比較によって、外枠が出来あがってくる」
「推論による構築がなければ私たちは世界を見ることができない。能動的に推論し構築する脳の働きがあって初めてそこに何があるのかを認識することができる。つまり世界は、自分が脳の中で構築した視覚的経験として存在する」
「世界が脳の中で構築されたイメージであるとすれば、私たちは一人ひとり違う世界を見ていることになる」
「思索的、能動的に見る仕方は、美術作品の鑑賞だけではなく、現代社会ではいっそう重要性を増している。テレビ・映画・インターネット映像など」
「生活の中に刷り込まれた映像記憶。子どもたちにとって、テレビの映像は現実のそのものとして記憶されている。このことにもっと注意を払わなければならない」
「映像は、すべて他者によるカメラの目を通して出来あがったもの。その視覚は、他者に誘導されたものである」
「見ることは本来探索的であり、意味構築的な行為である。他者の目を通して世界を見ることが日常化している現代の映像社会において、そのような根源的な身方を呼びおこすことが重要な意味を持つ」
「美術作品を見ることは情報の意味を探ることと密接なつながりがある」
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美術館に行く時、人がアートについて話す時に違和感を抱く。
なぜ、印象派の展覧会に人は集まるのか、話題になると集まるのか。記念撮影をするために見に来たのか。
印象派は美しい、誰が見ても美しい世界が描かれている。
そうではない、全く意味不明な現代アートに出会う時、「やっぱりアートはワカラナイ。」と、自分の教養のなさを嘆く、または、それを表現したアーティストを変な人だと言って揶揄する。
それらの姿は、美術との関わり方、見方を学んできていないので、どうしたらいいか分からない中での、言葉や態度なのだと思った。
大人の見方に対して、子どもの見方というのは、自分が見たいところを見る、自分の生活に置き換えてみる、感じたままを見る。大人が失った見方を子どもはしている。
それが必要な鑑賞教育で、見方を伝える場を設定しないと、子どもたちもいつしか、アートが分からない大人になってしまうのだと思った。
今まで思ってきた違和感が書いてありました。
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知識、教養、感動の強要からの解放。
作品の背景を読み解く鑑賞。
絵から湧き上がる感情と、自分の経験・感情を照らし合わせてみる。
作品を観て、感動・陶酔する。
そこから更に作品を凝視して向き合い、想像力を働かせ、作品の意味をつくり上げていく。
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「美術」教育をどう行っていけば良いか。大人以上の子どもの自由な解釈を上手に拾えるような授業をしていくべきだと思う。
「どうしてこのような表現をされているのか」を考え、ぽつぽつと言葉に出し合い、それをひとつのストーリーに仕上げていく学習とか、楽しそうだなあと勝手にイメージが膨らんでいってしまう。
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気になる部分を見つける、ストーリーを考えるくらいならやってきたけど、もっとグイグイいっていいんだね。というか基本は文学とかの楽しみかたと同じはずだなと気付いた。
p81『展覧会に行くとき、前もって自分なりに作者の人物像や生涯などをある程度調べていくと、感動の度合いがだいぶ違ってくると思う』という発言からも分かるように、そのものや自分の内部についてではなく、あからさまで分かりやすい人間ドラマに感動する(させる)風潮がある。バラエティ番組然り。それは見える人間に感情移入することで自分には人間らしい感受性があるのだと確かめている作業に過ぎないと思う。感受性が豊かで、繊細な人こそが正義に見えるから(狼なんてこわくない、を読み直したい)。でも感受性はそんなに単純なものではない。それだけでは自分の経験した感情を掘り返す以上に得られるものはないのではないか。
冷静な知的分析によって自分の内部に新しい発見をしたい。あー
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学校での授業は「美術作品を鑑賞すること」が「美術作品の知識を得ること」にすり替えられている例がきわめて多い。そうではなく、美術鑑賞とは、美術作品を鑑賞者が独自の解釈で読み解いて楽しむ、「みる」という芸術行為であり、それはきわめて個人的で自由な体験である。思索的に作品を観るための手法として、VTS: Visual Thinking Strategiesを紹介している。
VTSって、すごく楽しそう。美術館に行って、作品をじっくり観たくなった。
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「全てのことには正解がある」なんてことはない。そんなこと頭では分かっているつもりだが、なぜだか美術鑑賞をするときには「この見方は間違っているんじゃないか」とそんな風に思えてしまうのだ。そうして美術鑑賞という行為そのものから遠ざかってしまう。美術鑑賞には「正しいやり方」があるんだという考えは、意外と多くの人が無意識のうちに持っているのではないだろうか。
この本はそんな美術鑑賞の在り方から自分を解き放ち、より自由な鑑賞を提案してくれる。それは、目の前にある作品そのものを純粋に見つめ、そこから作品との対話を図るというやり方だ。作者や時代背景、美術史などもある意味では大事だか、一旦そこから離れ、今ここにいる自分が作品をどう見るかというところから出発することで、意外にも多くのことを読み取り、感じることができる。
◼️p94 品のなかに意味が実体としてあるのであれば、それを読み解く正しい鑑賞があることになる。しかし、意味を作品と鑑賞者の相互作用によって生成するものととらえると、鑑賞は個々の鑑賞者の見方、とらえ方によってさまざまな可能性をもってくる。
作品と自分との間に言わば化学反応を起こすことで、その作品が他ならぬ自分にとって自分だけの価値を持つようになる。その面白さを本書は教えてくれるだろう。名著だと思う。
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美術の鑑賞教育についての本。
一般の人にとっても、「鑑賞」ということを見直すための本となっています。
たくさんの美術作品を、贅沢なカラーで鑑賞できますが、「鑑賞」とはどういうことなのか、ということをわかりやすく伝えています。
それも、風景画や人物画といったわかりやすいものだけではなく、ピカソ、抽象画、現代美術といった、一見鑑賞が難しそうな作品にも触れています。
美術は楽しいけれど、どう見てよいかわからない。ただ感じればいいのだろうか。など、抽象度の高い作品に関しては戸惑いがあるものですが、その点についても本書で触れていて、美術の鑑賞が「創造的」となるための道筋を示してくれています。
日本人は、知識を通してものを見てしまうことがあって、美術に関しても、美術史や作家論といった、小難しい知識を通してでしか「正しい解釈」というものはありえないという風潮があります。
しかし、本書では「知識」が逆に鑑賞の妨げになりうる例もあげ、自由に、開放的に美術を鑑賞することで、見る人が美術から意味を創造していく可能性を伝えてくれます。
鑑賞に関しては、単純な問いかけを通して細部を見ていくというものですが、豊富な実例を挙げています。この実例が、教育をやっている身としては大変興味深く読めた点でした。子どもの鑑賞の仕方ももちろんおもしろいのですが、大学生が大人ならではの目線で卵の写実的な絵画を鑑賞する過程が特に面白いと感じました。
その絵から何を見るかはその人その人違うのですが、一人ひとりの発見が深い解釈につながり、より鑑賞の可能性を引き上げる。
これまで、「なんとなく心地よい」という程度の鑑賞しかできなかったのですが、ここまで細部を見つめ、検討し、意味を再生産する、ということが、一枚の絵からできるのかと、今後の美術鑑賞が楽しみになる本でした。
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物事の捉え方を改めるというより、思い出させてくれるような本であった。STEM教育からSTEAM教育へと、アート教育が求められる中で、どのように子供たちに学びの機会を提供できるのか考えるヒントとなった。
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対話型鑑賞の興味から。
対話型鑑賞だけを紹介してるわけではなく、もうちょっと広い。日本人の美術鑑賞の現状を述べ、陶酔型、よくわからない状態より、思索的、探究的に自由に鑑賞した方がよいと。
対話型鑑賞していても、人に比べて浅いことしか言えない、頭が働かないのが気になってた。見えるもののことしか言えない。そこから広げようとしても○○の感じがするくらいに終わる。ここに書いてたアプローチ法はすごく参考になりそう。
・セリフを言ってみる
・絵の中に入る(人物の関係を考える)
・何か、何を問われているか。見立てる、比喩、象徴、擬人化、自分の経験や日常と重ねる。
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中高生の時、こんな美術の授業だったら、美術を好きになっていたなあ。
美術館で、ただ解説読んで、作品に陶酔して満足していては、本当にその絵を鑑賞して楽しんだとは言えない。頭を使って鑑賞しなければ!