投稿元:
レビューを見る
うしろ向きだと世間との折り合ひがむづかしいんだがなあ。その件については触れられてゐない。著者の言である「不健康という贅沢が許されるのは自由人」にならへば、「人生うしろ向きといふ贅沢が許されるのは自由人」とでも云ふべきか。
投稿元:
レビューを見る
前向きに生きていないことにかけては、そこそこ及第点だと自分なりに思っていたのだが、他人に聞くと「そうでもない」という。「かなり正常な人生でしょ。」
まぁ、それならそれでいいけれど、南條竹則の新刊『人生はうしろ向きに』(集英社新書)などというタイトルの本に手を出すという行為は、そういう事情ゆえ、どうにも我ながら物欲しげで、嫌なものである。それでも読んでしまうのは、私が単に南條竹則の本が好きだという理由にすぎない。そして、この人の懐古主義、未来否認はそもそもの十八番なので、その点では生理的な共感以外に感想はとくにないわけだけれども、この人のいい点は、他人の褒め方がうまいという点である。オマージュ上手なのである。
本書はおよそ40頁を割いて、イギリスのエッセイスト、チャールズ・ラム(1775-1834)にオマージュを捧げている。そして私は、いっぺんでこのラムのファンになってしまった(まだ本人の著作を一冊も読んでいないにもかかわらず)のである!
ラムの姉メアリーが自宅で内職中に突然発狂し、目の前にいた母を殺してしまったが、どうにか無罪となった。南條は努めて冷静に書く。「自分が責任を持って姉を監視し、面倒をみることを条件に、姉を家に引き取る許しを得た。この時ラムは二十一歳だったが、彼の青春は終わったのである。」
残りの長い人生をメアリーの介護にあて、結婚できない姉を思いやってか、ラムも生涯独身だった。姉の発作はだんだん頻繁になっていったが、2人の同居生活は決して暗いばかりではない。演劇好きの2人は劇場通いをしたり、中国の陶磁器をあつめたりして暮らした。弟は、随筆や劇評をすこしばかり雑誌に書き、パブで酒とトランプを楽しんだ。ロンドンの享楽家のよくある生である。メアリーも、家計を助けようと筆をとり、シェイクスピアの児童向けダイジェスト本などを出版したりしている。
弟の死後、姉は弟の残した遺産と、東インド会社の年金によって不自由なく介護を受け、13年後に弟と同じ墓に葬られた。私は、このような生から出てくる言葉というものを、好きにならずにはいられない性分なのである。
話のレベルがまったく違うが、原発事故によって日本という国土の青春も完全に終わったという実感が、わが読解をいささか歪ませただろうか。
投稿元:
レビューを見る
前半は著者が考える「人生は後ろ向きに」生きるべきと考える至った経緯や根拠が書かれている。
言わんとしていることは理解できるが、いまひとつスッキリと論じきれていない印象を受ける。
後半は、著者が後ろ向きに生きる達人として名をあげるチャールズ・ラムなどの著作の引用と解説となっている。
著者は絶賛しているが、そこに共感できず、私自身は退屈に感じた。
個人的に価値観が合わなかった。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
先人の書をひもとけば、そこには大勢の「うしろ向きの達人」がいて、我々を励ましてくれる。
せちがらい欲望の追求ゲームに背を向け、「昨日」の夢に生きよう、という南條流哲学。
[ 目次 ]
第1章 何事も今より良くはならない
第2章 イヤだ、イヤだ、未来はイヤだ
第3章 人間には「昨日」しかない
第4章 「昨日」の見つけ方
第5章 うしろ向きの凡人と達人
第6章 チャールズ・ラム
第7章 「昨日」の夢
第8章 究極の「昨日」
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]