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東日本大震災からまもなく五十日を迎えようとしている。第一次世界大戦の時の記録によると、戦争のプロでも四〇~五〇日たつと、戦闘消耗と呼ばれる状況に陥り、武器を投げ捨てて、わざと弾に当たろうとするような行動に出るものが現れたという。そろそろ新たなステージに入るべき時が、来ているのかもしれない。
本書は阪神淡路大震災の時に神戸大学で精神科医を務めていた中井 久夫氏による五十日間の記録がベースである。ことは今回の震災の際、ノンフィクションライター最相 葉月さんが自宅にて落下してきた本の中に『1995年1月・神戸』を見つけ、著者にネット上での全文公開を要請したことに端を発した。そこに、今回の震災の記録を追記して生まれた一冊が、本書である。
◆本書の目次
東日本巨大災害のテレビをみつつ 2011年3月11日ー3月28日
災害がほんとうに襲った時 付・私の日程表 1995年1月17日ー3月2日
二つの記録は、一つは被災に対しての外部としての立場、もう一つは内部としての立場である。しかし、いずれの立場においても共通しているのは、著者による俯瞰の目線であり、背景を観察する能力である。著者自身、被災後に病院へ出向きすぐに行ったことは、医局の整理、電話番、ルートマップの作成だった。そして、その後も、隙間を埋めること、盲点に気づくこと、連絡のつくところにいることの三点にに徹し、自身の役割を「隙間産業」と定義したそうである。だからこそ、次の災害にも活かされるアーカイヴを残すことができたのであろう。
このような視点は、著者が精神科医であることによるものが大きいのではないかと感じる。目に見える患者の症状そのものに着目するのではなく、その背景にある要因や環境を観察しなければ、真の解決は望めない。被災という悲惨な現状に直面しても、その視点は同様である。神戸という街や、日本そのものが持つ精神を踏まえて行った数々の指摘には、ハッとさせられるものが実に多い。
その一つに「デブリーフィング」というものが挙げられている。ブリーフィングが任務内容説明であるのに対し、デブリ―フィングとはその解除のことである。これを解除宣言として行うのではなく、緊張をほどいてゆき、心理的に肯定し、達成を認めるという儀式が必要なのである。重要な任務についた人たちに、デブリーフィングを行わずに家に返すと、不和の原因になりかねないそうだ。
本書が最も読まれるべきなのは、今回の震災において外部でも内部でもなかった、首都圏に住むような人たちではないだろうか。直接的に被災を受けているわけではなく、どこか申し訳なく思いながら、さまざまな不安やストレスを抱えている人も多い。そういった人たちこそが、お互いをデブリーフィングしあう必要があるのではないだろうか。本当の戦いは、これからである。
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ボランティアから帰ってきて、いまいち地に足がつかない自分に生気を吹きこんでくれた本。
阪神大震災を経験した精神科医の当時の手記。
加えて今回の震災を受けて書き下ろした文章を収録。
『昨日のごとく』を読みたかったが絶版だったため、同じ文章が納められているこちらから読んでみた。
臨場感と筆者の観察力がすごいですね。
記録としても重要な本ではないでしょうか。
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かつて「神戸」で、被災者からぜひとお菓子や果物を差し出された医者がいた。避難所で物が余っていたわけではない。全財産をなくしても、感謝の気持ちを表したかったから。
阪神淡路大震災の救護に関わった精神科医は、当時、躁状態の中で記録を残した。そこで何が起こり、何が必要だったか。今回の大震災に寄せて、新たに四分の一ほどの頁を書き足した。
まずは、被災者の傍にいること。彼らの恐怖と不安と喪失の悲哀とを、安心な空気で包むのだ。花がいちばん喜ばれる、という話もある。そして救護者への救護。著者も、「神戸」の十日後からおぞましい夢を見、四十日後には二十四時間眠った。救援が成功したように思える時期に、明らかになる問題もある。被災者にとって食料や水や燃料の不足はいっときのこと。不足が解消した時に、いかに外とつながり、生活を再建するかという課題がようやく見えてくるのだ。
(週刊朝日 2011/6/11 西條博子)
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中井久夫『災害がほんとうに襲った時』のなかにある印象的な言葉。
「災害においては柔らかい頭はますます柔らかく、硬い頭はますます硬くなることが一般法則なのであろう」
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この本は阪神・淡路大震災のときに現地で医療活動にあたったある精神科医の記録です。出版社が同じなこともあるのですが「夜と霧」を連想させました。
今も現状が刻々と変わっているそうなので、この記事を書いたときにどうなっているのかわかりませんが、東日本大震災や福島の原発事故で被災した現地の写真や映像を見るたびに悲痛な気持ちになります。
この本は16年前、阪神・淡路大震災のときに精神科医として現場の指揮を取っていらした筆者の文章に新たに東北・関東大震災に関する文章を加えて再編集したものです。この本によると震災直後だと、怪我などの肉体的な傷が多いのに対して、被災生活が長引いてくると、今度はPTSDなどの、心の傷や障害が出てくるという記述を読んで、実感としてこみ上げてきました。
実は僕も震災直後に、避難所で2日ほど夜を明かしていたことがあって、その様子を自分のツイッターやフェイスブックに流し続けていました。非難解除が最終的に出たのは3日目だったのですが、この本に書かれているとおり、その場にいた人間のほとんどの顔に重い疲労、特にご年配の方にその傾向が見られました。
そして、この本の中には現場で医療活動に当たっている医師たちにもものすごいストレスがかかっていて、戦場にいる兵士たちと同じような精神状態になっている、という記述があって、僕は想像することしかできませんが、やはりそれだけ過酷な現場だったのだなと。読んでいてそんなことを考えてしまいました。今も現地で被災されているかたがたにはほんとうにお見舞いを申し上げたく思います。
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東北と神戸は、様々に異なる面はあるだろう。15年前と現在、ネットワークの発達の違いを感じる。
メディアの報道、PCから携帯へ、パケット通信、SNS、Twitter、時間が早く、短時間でできる。
支援者・スタッフには休息が必要である。
災害の(救援の)情報は外部から得る。(神戸←東京)
テレビ・FAX・メディアが役立つ。
頭をクールに指揮。
統制・調整・一元化を要求したものは、現場の足をしばしば引っ張った。
トリアージ・避難民と避難所、ルート確保、地域が分かると良い。(その地区の地名の入った本をあらかじめ読んでおく)
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精神科医が関与観察した阪神淡路大震災の50日間。
あのとき、
医者たちは、自分たちで考えながら有機的なネットワークを形成していった。
混乱の中で、
情報や人の波とたたかっていた。
必死だった。
看護師やボランティアの力なくして、
その現場を支えることはできず、
多くの人の機転なくして、
成り立たなかった。
今回の東日本大震災のことも記載されており、
考えさせられることは多い。
人の体力がもつ期間は限られている。
援助する側、援助される側、どちらも日本人は不慣れなのかもしれない。
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精神科医・中井久夫氏が実際に体験し、医療行為にも当たった淡路大震災の一連を綴った本。東日本大震災が発生し緊急出版になった本で、阪神淡路大震災を経験した視点から、東日本大震災に関して思う事も書かれている。災害が起きた時にどのように医療従事者が行動を取るべきか、この本からもかなりの参考になるのではないかと思う。
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中井久夫が阪神大震災時後に書いた『1995年1月・神戸』は、昨年の3月の大震災後に、まずネットで無償公開された(そのきっかけとなったのは最相葉月さんで、東京の住まいで落下した本のなかにこの本があり、これはいま役に立つと判断したことだという)。
その後、編みなおされて新たな本が出る予定だということは知っていた。その新しい本を図書館で見かけたので借りてきた。冒頭には新しい稿として、「東日本巨大災害のテレビをみつつ 2011年3月11日-3月28日」が置かれ、『1995年1月・神戸』から「災害がほんとうに襲ったとき」が再録されている。
『1995年1月・神戸』を去年の春に読んでいたけれど、新編のこの本を読みなおして、「災害がほんとうに襲ったとき」の末尾、1/17からおよそ40日後の3月2日に記されている、この一節が印象にのこった。
▼夕方、秘書とJR神戸駅前に向かって歩いた。春の匂いを風が運んでいた。すべてはほどけてやわらかかった。「終わったという感じが流れているね、まだ不通の電車も避難所もあるのに」「4、50日しかスタミナは続かぬだよ、生理的に」「その間に主なことをやってしまう必要がありますね」。われわれはやりおおせたのだろうか。(p.111)
この4、50日の「戦闘消耗」の話が、「私の日程表 1995.1.16~2/28」に書かれている。
▼「戦闘消耗」とは、ベテランの下士官など、戦争のプロが、程度の差はあっても突然戦闘を継続するのがバカバカしくなり、武器をかなぐり捨ててどうでもなれという態度に出ることであって、ナチス・ドイツが戦争末期までこまめに兵士に休暇を与えて鉄道で故国に帰していたのも、米軍がベトナム戦争で三週間ごとにヘリコプターで兵士を前線からサイゴンに送り返していたのも、40日から50日をピークとする「戦闘消耗」を避けるためであった。ここで、興味を感じたのは、軍事精神医学では「戦闘消耗」は困った病的状態とされるが、実際は、戦闘という無理を自己激励によって心身に強いてきたのが限界に達して、雪の積もった竹が跳ね返るように、精神が正常化する事態だということである。(p.129)
95年に61歳の精神科部長だった中井は、昨年77歳だった。神戸の記憶をよびさまし、重ね合わせ、比較し、考えたことが冒頭には書かれている。「現場は重要だが、まわれる場所の数は限られている。現場に立てば、そこの眼の前の印象に支配されてしまう」(p.13)と中井は書き、神戸の経験を重ねながら新聞記事やテレビ報道をみていた、という。
私は去年の3/11の夕方以降、いつもはほとんどみないテレビ映像を何時間かみて、ひどくつらくなった。翌日はテレビを消し、ネットのニュースも、メールもあまりみないようにした。その3/12には、また長野北部を震源とする大きな地震があった。以後も、かなり大きな「余震」が頻々とあり、けれどその揺れをは身体でほとんど感じることのない大阪の私には、17年前の1月や2月のあの余震の続いた日々、ぐっすり寝た気のしなかったあの頃を重ねて、かろうじて想像できるものだった。
その距離感を、あらためて感じる。
今回読みなおして、中井が「長大な天皇論���を執筆した話が書かれていることに気づく(前に読んだ時には、何も印象に残っていなかった)。「私の中の「昭和」が私を突き上げ、私はほとんど狂わんばかりにして」(p.101)書いたというその論文は、知る人は少ないと思うとあるのだが、図書館で探してもらえば、読めるだろうか。
(3/15了)
※追記:ネット検索で探してみたところでは、「「昭和」を送る─ひととしての昭和天皇─」(文化会議239号、1989年)が近い気がして、図書館でこれを読みたいですと頼んできた。
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17年前、大阪の実家で阪神淡路大震災に遭った。昨年、結婚して転居してきた千葉で東日本大震災に遭った。東日本では、1晩ながら避難所で過ごすということも経験した。
家に帰ってテレビに映し出される画像が、阪神淡路のときの街の様子と重なり、しばらくの間息をするのも苦しくなったことがあった。そんなころ、この本とめぐり会った。
少しずつ読んでいく中で、いつも中井先生の文章で感心させられる観察眼、冷静な記述に、読みながら自分の中で起きていることを整理し、落ち着くことができた。
阪神淡路大震災の際の医療現場の記録しても貴重なものである。
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東日本大震災に関係する小話。独り言みたい。
「有害でないのならやって悪いことはないだろう」
デフリーフィングとはなんだろうか。
ドゴール「状況がすべてである」
「何ができるかを考えてそれをなせ」
黄色い花を飾った。
放置されている違法は黙認されているとみなされる。
後半は神戸人最高!の話。
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終わり部分にある筆者の急性ストレス障害に関する記述が一番気になった。たんたんとした記述だが、現実には相当堪えたものがあったのだ。
・デブリーフィーング
・フクシマ・フィフティズは架空なのでは?
・「状況が全てである」というドゴールの言葉
・神戸のホームレス受容
・取材のヘリコプターに対する過敏、憎悪
・人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知される必要がある。
・弱音を吐けない立場の人は後で障害が出る。
・全財産を無くしても感謝の気持ちは伝えたい。
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「総じて、役所の中でも、法律を墨守する者と現場のニーズに応えようとする者との暗闘があった」(p.49)
・平時において法を遵守することは極めて常識的な事柄に属するが、危急の事態においてはこの「常識」がいかに足手まといとなることか。それよりも、その場その場で最優先課題をしっかり見定め、その解決のためには法の目をくぐることすら厭わなかった者のほうが結果的に多くの人々を救ったのである。「有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった」(p.41)。そして、「災害においては柔かい頭はますます柔かく、硬い頭はますます硬くなることが一般原則なのであろう」(p.78)。
・阪神大震災後、貨幣経済の崩壊とともに共同体感情が生まれ、そして貨幣経済の復活にやや遅れて共同体感情が消滅したという。この両者の関連性についての仮説は実に興味深い。3.11後のいわゆる「絆」の発生と消滅についても似たようなプロセスが見られたことを思い出した。
・「総じて、内部からみた外部と外部からみた内部とが次第に別ものになってゆく。これが時間がたつにつれて起こるもっとも大きな食い違いかもしれない」(p.134)。この認識の自覚は、3.11後を語る者にとって、他のあらゆる認識に先立つべきものだ。
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こういうのも読んでおかねばならないかなと思って買ってみた。
しかし、内部向けに書かれた文章とあって、日記的色彩がかなり強い。
阪神時の病院の様子を知るには良いけど、一個人が今後の参考として読むような種類の本では無かった。一般人向けという感じでも無いし…ターゲットが難しそう。
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「災害がほんとうに襲った時」。
1934年奈良県生まれの精神科医・中井久夫さん。
終戦時11歳。2016年現在82歳でまだお元気なようです。
精神医学の専門書を始め、専門外のエッセイ的なものなど、多数の著作があります。
神戸大教授だった1995年1月、阪神淡路大震災。
そのときの体験を記録した「災害がほんとうに襲った時」という原稿と、2011年3月、東日本大震災の後に書かれた「東日本巨大災害のテレビをみつつ」。
この2編をまとめて2011年の4月にみすず書房さんが本にしています。
中井久夫さんは、一般から見ると無名かも知れません。テレビに出るような活動はほぼされていませんし、地味な出版社からの本が多いです。
それでも、読んでみると、水が流れるように読み易く、かつ謙虚な人柄が良く判ります。
中井久夫さんの本を、これからもぼちぼち読んでいく、というのは、大げさに言うと生涯の読書の愉しみです。そして、「ふむふむ」と「なるほど」もいっぱいあります。
★★★本文より。以下、「東日本巨大災害のテレビをみつつ」2011.03.11.-03.28.
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今度のことで知ったのは、東北地方がモノづくりを担う、その比重の大きさである。低賃金によるのであると言うが、日本が同じ国なのに地域によって報酬が違うとは思ってもみなかった。せめて正社員ならば同一労働同一賃金と思い込んでいた。
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道州制が格差を合理化しないか。北海道と沖縄と言う所得の低いところから始めるというのがちょっと怪しい。
米国の州の貧富の差は大きいのである。
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私がいえるのは、まず、被災者の傍にいることである。誰か余裕のある人がいてくれるのがありがたい。それが恐怖と不安と喪失の悲哀とを空気で包むのである。
大阪府の付属池田小学校の学童殺傷事件のとき、大阪府警は女性警官と被害者の家庭配属して日常生活を援助させた。これが非常に喜ばれたという。
死者を出した家には手続きだけでもたくさんの仕事があり、その上に日常生活も続けねばならない。
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救護者の救護も忘れてはならない。
精神的ケアを行ってから家庭に返さないとDVが起こりかねないそうである。
米軍でもPTSDの応急処置はhot meal and rest で、ビスケットなど冷たいものではダメだと強調してある。そして炊事を手伝わせるところから始めるという。そんなに難しいことをやっているわけではない。
私の医師監察では震災後1日は水分だけで行ける。3日まではカップラーメンでも何とかやれる。以後は、おいしいものを食べないと、仕事は続くのだが惰性的になり、2週間後あたりからカゼが流行って、1人がかかると数人以上に広がり、点滴瓶を並べて横たわっていた。
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第1次世界大戦でわかったことであるが、前線の古参下士官つまり戦争のプロが、40~50日経つと、突然、武器を投げ捨てて、わざと弾に当たろうとするような行動に出るという。これを戦闘消耗と呼んでいる。
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ボランティアに必要��のは最小限の生活道具と並んで現地の地図である。道案内に現地のスタッフがとられる時間は予想外に大きい。
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調査団やマスコミの人を内心は願い下げにしたくなるのは、同じことを聞かれ、すこしずつ違うアンケートを何枚も書かされるからである。
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とにかく、ロジスティックス(補給)が重要なのである。
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災害の外にいる私たちには、テレビの情報は非現実感をそそりこそすれ、関心の同心円的拡大にはあまり役に立たない。
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世界的に政治家が不足しているが、日本の枯渇ぶりはひどかった。
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改めて思う。日本人は希望的観測に盲従する傾向があると。
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「既知のメッセージ」が8割、「ニュー・メッセージ」が2割のときに、もっともよく伝わるという。この法則に近い報道だといちばんわかるのである。
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関東大震災との比較をしてみよう。当時に比べると、日本の社会は格段に成熟していると言ってよかろう。
当時は死体の写真を売って歩く奴がいて、関西にも売られてきたらしい。
一般に、戦前は野次馬社会である。火事だァという声がかかると、しばらくして、わが家の前を「どこだ、どこだ」と言いながら駆け抜けてゆくのが1人や2人ではない。
建築現場の囲いには丸い穴がいくつか空いていた。この穴に首を突っ込んでひねもす、工事見物をする人たちのものである。
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デブリーフィングを行うのは、1つには、行わないでそのまま家庭に戻すと、不和の原因になりかねないからだそうである。
「あの時の俺の気持ちがわかるか」という確率は多少とも増えるだろう。
ブリーフィングとは、ある任務にこれから従事する人たちへの具体的な任務内容説明であるから、デブリーフィングは言葉どおりにはその解除ということである。これは解除宣言ではなく、緊張をほどいてゆき、心理的に肯定し、達成を認めるということである。
デブリーフィングの最中は絶対にトイレに立ってはいけないといわれるが、この息抜き禁止は適度の緊張を場にもたらす。「あなたはベストを尽くした」と言われて悪い気はしない。行動を認知されて肯定されるとほっとするはずである。
日本では「反省会」という名で任務達成者の心的外傷の解消を図っていたと知って、米国の研究者はその中身を知りたがっていた。
まず「よくやった」という気持ちを実感できる状況を作る。そして、ぜいたくな食べ物である。これは免疫力を向上させる。生理的に、そして心理的にも、である。
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マーシャル群島での水爆実験でハワイが停電し、これでは核戦争の場合に通信が途絶しておおごとであるとして開発されたのがITネットワークだ。
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中流階層の消滅は一般に社会的危機となる。アメリカが先に経験したとおりである。ごく少数の富者と多数の貧者との社会がその後に続いた。
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★★★以上、「東日本巨大災害のテレビをみつつ」2011.03.11.-03.28.
★★★以下、「災害がほんとうに襲った時」1995.01.17.-03.02.
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有効なことをなしえた者は、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行った者であった。
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設計段階から職員のアメニティーを良くすることが実効性のある何事かをなすための基本的前提であると確信していた。
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時々刻々、最優先事項は変わった。一つの問題を解決すれば、次の問題が見えてきた。「状況がすべてである」というドゴールの言葉どおりであった。
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後から咎められる恐れを抱かせるのは、士気の委縮を招く効果しかない。現実と相渉ることはすべて錯誤の連続である。治療がまさにそうではないか。
指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。「何が必要か」と電話あるいはファックスで尋ねてくる偉い方々には答えようがなかった。
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このネットワークは、誰が命令した訳でも指示した訳でも無かった。片手で数えられる中堅精神科医が動きながら形作っていったものであった。上長はそれを追認することがもっとも重要な仕事であった。それができるのがまあよい上司である。
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精神科から救急部に出向していたH研修医によれば、三日不休で働き、おにぎり一つにありついたのが三日目だったという。総じてロジスティックス(兵站)という概念の欠如が目立った。このように飲まず食わずでも持ち場を放棄しない日本人の責任感にもたれかかって補給を軽視した50年前の日本軍の欠陥は形を変えて生き残っていた。
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われわれ精神医学教育はリアリズムを基礎とし、実現不可能な願望思考をしないように訓練してきたものであった。
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加害者が1人もいなかったことは、精神科患者の名誉のためにぜひ言っておかねばならない。
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行政当局が外部の応援を断ったのには接待や宿泊の世話が大変だという本音があった。
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地上の苦悩を知らぬげに飛び回るマスコミのヘリコプターの姿は憎悪の対象になった。
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災害においては柔らかい頭はますます柔らかく、硬い頭はますます硬くなることが一般法則なのであろう。心身に余裕のない状態においてそうなることは容易に理解されることである。
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私たちは涙もろくなっていた。いつもより早口で甲高い声になっていた。第三者から見れば躁状態に見えたかもしれないが、実際には、自己激励によるエキサイトメントであったと思う。万一「空しい」と感じてしまえばそれこそコトだと私は思った。
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暖房の無い病棟を物理的にあたためることは誰にもできない相談である。花は心理的にあたためる工夫のひとつであった。
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やはり人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知され評価される必要があるのだ。
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弱音を吐けない立場の人間は後で障害が出るという。
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日本の政治家の為に遺憾なのは、両陛下にまさる、心のこもった態度を示せた訪問政治家がいなかったことである。
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「暴利」とは、現在しか信じ得ない絶望の所産であり、「掠奪」もまた絶望の所産である。
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