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観察映画。想田監督の作家との視点から学ぶ、日常を捉える方法は、映画鑑賞に限らず、勉強になるところが多かった。
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印象に残った一節『ドキュメンタリーの素晴らしさの一つは自分にとって大切な瞬間や時間を保存することができる、ということだと思います。』226ページ
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「選挙」「精神」の想田監督による(ちょっと乱暴だけど)ドキュメンタリー論。
文脈は異なるけれど、「写真を撮るに際し撮影者の存在をどう処理するか」
という問題を常々考えていた僕にとって、
本書は今まで考えてきたことと大きく重なる部分があったり、
新たな視点を与えてくれた点で貴重なものだ。
本書の内容を大まかにまとめると、
(1)「観察映画」の定義・手法
(2)その方法論を採用する理由
(3)その方法論を基に撮影した映画のエピソード
ということができるでしょう。
(勿論本書の構成はこれとは違います。)
世界から何かを学ぶこと、その方法を学ぶことの一助になる。
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虚心坦懐に素材を観察した結果から見えてくるものを編集する撮影手法に意外性を感じた.「選挙」には個人的に強いメッセージ性を感じていたし,あれだけ面白い作品がプロットなしに撮られたとは到底思えなかったからだ.
監督の撮影手法が自分の脳に実装できたとしたら,ありふれた日常も,何かしらの意味性を帯びて立ち上がってくるかもしれない.
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『精神病とモザイク』の著者の新しい本。新しい映画「Peace」の話を中心に書かれている。結局私はこの人の映画をまだどれも見てないけど、8月末に上映会で見た「中村のイヤギ」のこととか、他の映像表現のことを考えたりしつつ読む。
こないだの「中村のイヤギ」上映後の座談会のなかでは、字幕の話が出た。映画のラストでうたうカン・ムニョルさんの歌に訳をつけないのかという話と、映画全編に(聞こえない/聞こえにくい人用の)日本語字幕をつけないのかという話と、二つあった。カン・ムニョルさんの歌詞の「分からなさ」については、『We』169号でも張さんに話を聞いたように、その分からなさを大切にしたいという思いがあった。
この本で、想田は「映像と言葉」として、「Peace」に出てくる植月さんの話を書いている。
映像としては「植月さんは黄色いヘルメットを被りゲートルを巻いた、寿司を美味しそうに食べるユーモアのセンスのあるおじさんで、歩くときには足を引き摺るようにしていて、言葉はちょっと聞き取るのが難しい」(p.137)という人だ。
▼しかし、彼の状況を説明するために、「知的障害」とか「発話に何らかの障害」とか「足に障害」と表現した瞬間に、植月さんは既成の「障害者」というイメージに押し込められてしまう危険がある。言葉=理解の枠組み=我々の思考回路そのものだからだ。…
逆に言うと、映像にはそのような言葉の呪縛、つまり固定観念を乗り越えられる可能性がある。…ドキュメンタリー映像は、うまくすれば、現実を理解する枠組みそのものを溶解させ、更新するための契機になり得る。(p.137)
想田は、映像にナレーションやテロップを重ねることで、その映像を見る構え、思考の枠といったものを先に差し出してしまうのではないか、だからそれを避けたいと言っているのだと思う。
「分かる」とは、言語ではっきりと理解することなのか?ということも考える。自分の分かる言語で、自分の分かるように?
想田が自分のインタビュー観を根本から変えられたという、エディ・ホニグマンの「フォーエヴァー」というドキュメンタリー映画は、ショパンやプルーストなどが眠るパリの有名な墓地を訪れる人にホニグマンがカメラを向け、インタビューする作りだという。その中で、プルーストの墓に参るためフランスへやってきた韓国人男性のシーンは、こんなものらしい。
▼彼は英語が苦手らしく、プルーストになぜ自分が魅せられているのか、うまく説明できない。ホニグマンが「韓国語でどうぞ」とうながすと、急に生き生きとして韓国語で語り出す。その内容は字幕で翻訳されないので、韓国語の分かる観客以外にはチンプンカンプンだ。ホニグマンも最後に「あなたの言っていることは私には分からないけど、ありがとう」と礼を言う。しかし、彼の真剣で情熱的な話し振りを観るだけで、「この人はホントにプルーストが好きなんだなあ」ということだけはひしひしと伝わってくる。(p.173)
この話を読みながら、私は聾のOさんと映画の話を思い出す。長門裕之から映画「にあんちゃん」の話になったとき、当時まだ10代だったO���んは聾学校の寄宿舎をぬけだしてよく映画を見にいったというのだった。邦画に日本語字幕などついていない時代、聞こえないOさんは「にあんちゃん」を胸が苦しくなる映画だったと話した。
想田のこの本を読んでいると、聾の人は映画を見るときは洋画(字幕がついているから)というのも、確かにそういう傾向はあるにせよ、私の思考の枠、思い込みの一つかもしれへんと思った。私は思わずOさんに「その頃、字幕ないですよね?」と訊いたのだ。
テーマを先に決めることの「罠」の話も、なんとなく分かるなーと思った。これはテーマにあうかどうか、そのことばかりが気になっていては、おもしろいものをカットしたりすることにもなる。
毎号、毎号、特集タイトルは最後に決まる『We』みたいだ。とはいえ、「Peace」という作品は、"平和と共存"をテーマにという依頼があってそもそもは制作された。だから想田は「テーマを忘れて、この作品を撮り、編集するように」(p.228)したのだという。
この本の1章「撮る者と撮られる者」に、想田の妻・柏木の祖母である"牛窓ばあちゃん"の話が出てくる。広島市で生まれ育ったばあちゃんは、1945年の8月6日には、2人の幼い娘とともに市外に疎開していた。
▼原爆が落とされた日、突然空から預金通帳や書類などが降ってきたので、ばあちゃんは「市内で何か大変なことが起きているのではないか」と直感し、知り合いのおじさんのジープに乗せてもらって、広島市へ入ったという。(p.23)
原爆投下後のキノコ雲を上空から撮影した写真や映像を撮ったのは、原爆を落とした側、投下後に猛スピードで現場を離れた側だった。地上では、広島市外で預金通帳や書類が降ってきたのだと思った。キノコ雲の直下にいた人たちは、熱線に灼かれ、爆風に吹き飛ばされ、死んでいったのだと思った。
(9/13了)
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Peace」の想田監督のドキュメンタリー論。映画を通したもミュニケーション論と受け取る。映画において監督はピッチャーなら、観客はキャッチャーではなく、バッター。どう打ち返すか。見る側の力が、良い映画には試される。
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ブログに全て書きました。
http://zuruzuru-ikiru.blogspot.com/2011/08/peace20110804.html?spref=tw
テレビ論、メディア論としても一級品。ただし内容を完全に楽しむには、想田監督の作品を観ておくことはマスト。今なら、最新作Peaceが渋谷イメージフォーラムで上映中。
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私は、取材・執筆の仕事をしています。
仕事でなくても、「これは面白い」という感じたものは、NPO活動という別の枠を使って、取材しにでかけています。
「取材したい」と思うのは、その取材対象に魅力を感じているから。
だから、その対象に会って、もっと詳しく聞きたい。
それで、取材に出かけてしまう。
そういうことだと思っていました。
もちろん、好きは、好きなのですが、
「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」(相田和弘・著、講談社現代新書)を読んで、もう少し深い欲求が、私の中にあることに気がつきました。
相田監督は「観察映画」という映画を撮影されています。
「観察映画」では、撮影する人は、テーマを設定せず、台本をつくらず、ひたすら対象者を「観察」しながら撮っていきます。
映画にはナレーションや音楽、テロップはつけず、完成した映画を見る人にも、ひたすら「観察」してもらいます。
見る人それぞれに、映像を受けとめてもらい、感じとってもらう映画です。
この本の中で、相田監督は、「観察」について次のように書かれています。
『観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)に他ならない。観察は、自己や他者の理解や肯定への第一歩になり得るのである』
ここを読んで、
「ああ、そうだったのね。私」
と、自分の行為に、自分で納得しました。
薄々感じつつも、言葉にできなかったことでした。
私は、「人と関わりたい」という欲求を、おそらく、心のどこかに強く持っているのです。
人と関わることによって、何かを発見したり、刺激を受けたり、
自分自身についてよく分かったり、自分も変わったり…。
そういう経験をすることを求めているのだと思います。
その欲求に従って、自ら行動せずにいられない。そういうタイプなのでしょう。
ただし、「人と関わりたい」と思っても、すぐに親しくなれたり、仲良くなれるわけではありません。
家族でも、友人でも、知人でもない、「取材する人」という立場に立つとき、取材する相手との間には距離があります。
その人について詳しく知りたいので、じりじりとその距離を詰めていくのですが、打ち解けてきたように感じても、やっぱり第三者だよな、距離があるなぁ…と感じることもあります。
逆に、取材が終わっても、メールのやりとりしたり、ご飯を食べたり、友達のように親しい間柄になれる場合もあります。
「人と関わりたい」といっても、「取材」という特別な理由で出会って関わっていくので、相手と緊張感のある関係になったり、家族でも友人でもないからこそ大事なことを教えていただける関係になったりします。
取材は、人と出会うための口実といえるのかもしれません。
いろいろな出会いを経験できることが、面白いのです。
この本には、「ドキュメンタリーをつくる」ということに関する相田監督の考え方が盛り込まれていて、上記の引用箇所だけでなく、興味深い箇所がたくさんありました。
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相手を通して自分を見る。その時々の心の景色を記録する。つまりそういう事なんだろうな。私は、人になかなか関心が持てず、深く入り込もうとするのを避けるので、新鮮でした。
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8/19
意味を付与しない→現実の多義性
観察映画→様々な解釈に開かれた映画
出来事が現実に起きたという保証がフィクションとドキュメンタリーを分ける
言葉を使うこと/使わないこと
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実は、一度学校の講演で、選挙の撮影時のお話を聞いていて、
あっ、と思い読んでみた。
その後の作品が、テーマというか内容が少し気が引けて観ていなかったが、
機会があれば観てみたいなぁ、と思った。
ドキュメンタリーと一重にいっても色々な考え方があるのを深く知れて良かった。作者の知見も◎
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世界はグレーゾーンで、そのことを自覚し、わきまえているからこそ、観察映画は非常に魅力的なのだと感じた。
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ドキュメンタリー映像作家である著者によるドキュメンタリー映像論。最新作『Peace』はいかにして生まれたか。自ら「観察映画」とよぶ独自のドキュメンタリーの方法論を展開する。カットごとに細かい解説を加えるなど、「How toもの」としても読むことができる。いずれにしても、映画『Peace』を見てはじめて読了となるのだろう。早く映画が見たい。(8/26)
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これまでの作品と最新作の『PEACE』をより楽しむためのマストアイテム!
映画本編を観てからのほうがいいかも。
いろいろと影響をうけて、観察映画もだんだんと進化を遂げてきたのだなぁ。
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気付きの多い本だ。「台本至上主義」からの脱皮を望む潜在願望があったのだろう。
例えば何かのプロジェクトや会議の前には事務局として「落としどころ」を模索しがち。オチに無理矢理持ち込むんじゃなくて、もっとその場のライヴ感みたいなものから新しい発見があったりしないのかと思ってたところ。
そうゆうとこでも、前半の観察映画製作プロセスの考え方は大いに参考になる。
テーマは原因ではなく結果。テーマは後から発見される。深いな、考えさせられる。
善悪二元論、どっちかに決めつけるから思考が止まる。グレーの濃淡の揺らぎこそアート。これもまた深い。
後半は著者の作品「Peace 」の撮影・編集・上演されるまでの過程を。読んでるだけで作者がカメラひとつで撮影に臨む真摯な姿勢がよく分かる。感動すらおぼえた。
現在、平田オリザの劇団の観察映画製作中とのこと。