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本書は、日本に於ける新自由主義という統治システムの実相を、これでもかと抉り出す。
本書が為した最大の成果の一つは、新自由主義の本質を端的に言い表したことだ。曰く「利潤の私益化・費用の社会化」。コストを一般国民に押し付ける一方で、得られる利益をごく一部の特権層が独占する。例えば民営化。鉄道にせよ通信回線にせよ、もとはと云えば税金によって作られた我々の共有財産であるはずの国有資産を、一部の民間人の私有財産にしてしまった。例えば防衛利権。政府は、我々の税金を遣って、自衛隊の兵器を軍事関連商社から通常よりも遥かに高い価格で購入、その見返りとして防衛官僚がその商社に天下り。我々の税金を私企業にばらまき、後になって官僚(そして族議員)が回収する利権の構図。「天下りとは後払いの収賄」、これまた天下りの本質を一言で云い得ている。そして電力・原子力利権。電力会社は、一私企業に過ぎないにも拘らず、電力の独占生産・独占頒布を法的に保証されている。つまり、電気を使う者は電力会社の言い値で買わねばならない。そこから上がる莫大な利潤で、政権党に献金し、官僚の天下り先を用意し、大学には研究費をばらまいて御用学者を作り上げ、マス媒体には広告費をばらまいて批判的な言論を封殺・・・。それだけの利益を上げながら、今回の東電福島第一原発人災によって生じる莫大な損害補償には、なぜか我々の税金が投入される――政府・東電の誰一人としてこの人災の責任をとることもなく。著者が指摘するように、支配層の云う「国益」とは、連中の私益をさも公共の利益であるかの如く偽装する為の方便に過ぎない。謂わば、支配層による国家権力の私物化である。もはや国家権力とは、支配層が自らの欲望を満たすための"合法的"手段でしかない。
では、権力に対峙することをその存在理由とするジャーナリズムは、何をしているのか。ジャーナリストは買収されていたのである、マス媒体の記者も評論家も、国家権力がつかませた官房機密費という名の税金によって。マス媒体は、当局が恣意的に垂れ流す情報を、それがさも全てであり唯一の事実であるかの如く、中立的な視点に立った客観的な事実であるかの如く、報じてきた。こうして権力の監視役であったはずのジャーナリズムは国家権力に取り込まれ、当局は自分たちに都合よく世論を誘導してきた。そこでは、主権者は、もはや単なる視聴者でしかない。媒体に流通する空疎な虚偽を、さも自分の意思で為した思考であるかのように思い込まされて復唱するだけの。何が主権者たる自分にとっての利益なのか、という根本的な政治認識それ自体が、予め、支配層によって簒奪されてしまっているのである、支配層にとって都合よく改竄されてしまっているのである。「由らしむべし、知らしむべからず」。
これが、今や放射能塗れの列島の上にある日本社会の現実である。今なお活断層の上に多くの原発が建てられたままの日本社会の現実である。年間に169,900,000,000,000円もの借金を重ねている日本社会の現実である。
「反撃は、現実の正確な把握から始まる。」
著者は何度か次の言葉を引用している。「無知というのは知��がないことではない。疑問を発せられない状態を指す」(フランツ・ファノン)。著者は、決して日本のジャーナリズムを批判しているだけではない。これは、視聴者に堕してしまった日本国の主権者たる我々に突きつけられた批判である。
我々は、現実を正しく捉えることができるか、そこから反撃に打って出ることはできるのか。そのことが突きつけられているのである。
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テレビを見ない私には、日本のマスコミがどれだけ大騒ぎして国民を翻弄しているのか、理解できない。
日本人が自分の頭で考えなくなったのは事実だ。
なんだか芸能界のことが多くて、理解できない部分も多すぎる。
それにしても日本はどこに行くのか。マスコミとか本当に要らない。
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「無知というのは知識がない事ではない。疑問を発せられない状態を指す」とするフランツ・ファノンの言葉を引用され、
警察、検察等からの情報を検証もせずそのまま流すだけの日本のメディアの不甲斐なさについて述べられている。
また、新自由主義思想のキモである「利潤の私益化、費用の社会化」について、メディアと政治家との癒着、天下り人事があり前のようにおこなわれていることについて、東電問題~のりピー事件等を例に説明されている。
メディアから発せられる情報をそのまま信用しているようでは、利益の私益をしている人々の思うつぼにはまってしまう。
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痛快でした。
日本のメディアがどれほど堕落したものであるかよく分かりました。
本来ジャーナリズムというものは、権力に対峙し、調査すべきことは調査し、主張すべきことは主張し、批判すべきことは批判する。「国民の知る権利」を代行しているはずなのに、日本の場合は違う。お金に目が眩み、お上が垂れ流す情報を発表するだけの発表ジャーナリズムでしかない。
「無知というのは知識がない事ではない。疑問を発せられない状態を指す」(フランツ・ファノン)と引用されていますが、メディアが垂れ流す情報を鵜呑みにするのではなく、現実をしっかりと捉えていく姿勢を、これ以上欺されないために、身につけていく必要がある。
権力者たちの国益とは、「おとーちゃんばかりがお饅頭を食べる」ことを正当化させるための言い訳。
http://glorytogod.blog136.fc2.com/blog-entry-1025.html
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世の中は「都合」に満ちている。戦後65年、日本の世の中が垢にまみれてしまっている。そんな思いをあらたにする本だ。
ドラッグの話など著者の「都合」が見え隠れするところがうさんくささを醸し出している点が減点。
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国のお父ちゃん達に依存したメディア。
メディアに依存した国民。
結局、貧乏くじを引くのは国民なわけで。
国は国民に貧乏くじを引かせようとメディアを利用する。
知らないと確実に損をしそうな。
著者みたいな生き方ができるかは別ですが。
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日本は狂っていると、僕は昔から感じてきていた。どこかおかしい。何か間違っている。そういう僕が抱き続けてきた違和感の正体を、本書はあっさりと解体してくれる。今を生き抜くために、僕らは『考えること』を武器にしなくてはいけない(長江貴士)
▼『ジセダイ』140文字レビューより
http://ji-sedai.jp/special/140review/20111115.html
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メディアリテラシーの教科書として、私立高校で教科書として採用してはどうか!という内容でした。日本国債を売るための政府の戦略と買うことのリスク、官公庁とメディアの癒着、芸能界と裏社会の繋がり、福島原発事故に関しての国民への情報開示不足などが取り上げられている。「チェルノブイリ事故では、事故処理あたった5万5千人の軍人、作業員が被ばくを主因として死亡した。」「震度6以上の地震に、事故なしで耐えられる原発はまだない」などなど、最悪の事態を想定した備えや行動が必要だと思いました。
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利益の私益化・費用の社会化。
現在の日本の状況を表すにうまい表現だと思いつつ、それで輪郭線がはっきりと見えてくる社会のありようにゾッとしますな。
棄民政策を云々するところも、まあ、沖縄の立場を考えれば、疑問形ではなくて現在進行形で考えてもいいかもね。
敗戦後、どこを切り捨てて生き延びたのかな、この国は。
表日本/裏日本という概念も合わせて考えると、この棄民にも気持ちの悪い雰囲気がまとわりついてくる気がします。
とかく巫山戯た(あえて漢字で表記)スタイルが好悪分かれそうな気がします。
このスタイルだからこその発言の有り様だとも思いつつも、そこここで鼻につくのに致し方なし。
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一部思い込みでは?と思う部分もあるものの,比較的真っ当なことを言っているとは思うが,居酒屋で少し酔ったオヤジの話を聞いているような感じがするのは悲劇か!?おっさんなかなかいいこというなぁ・・・のような(苦笑).出典から考えて仕方がないと思いますが,口語調だったり,例えに品がなかったり,内容うんぬんより文体が生理的に合わない人もいるかもしれませんが,こういう意見もあると一読をお勧めします.
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マスメディア批判。ここ1年の間に書かれたコラムをまとめたもの。さぁこれから何を信じて生きていこうか。
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日本の水道水の暫定安全基準値、放射線セシウムは1リットルあたり200ベクレルで、アメリカの2000倍ゆるい基準なのだそうです。国の基準ってそもそもあてになるのかな?たくさんの疑問が湧く一冊です。ご一読を。
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2012/2/7読了。
メディアに対して様々に疑問を呈しているが、たいていの人はそういう疑問を抱いてるんではなかろうかと感じた。抱いている疑問を形にする事に意義がある、ということなのかもしれないが。
一番印象に残ったのは、「利潤の私益化・費用の社会化」という言葉。社会の現状を的確に表す良い指摘に思える。
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人によっては表現にいただけない部分があるかもしれないけど、少なくともマスコミ志望の人は読むべき本だと思う。
他の先進国から見たら日本なんて中国と大して変わらないのでは。
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この本の基になったのは『クーリエ・ジャポン』に連載されてある『越境者的ニッポン』なのだそうです。僕はこの連載を今まで読んでいなかったのですが、筆者の語り口が面白いのでこれから読んでみる事にいたします。
この本の基になった連載は『クーリエ・ジャポン』に連載されている『越境者的ニッポン』なんだそうです。僕は『クーリエ・ジャポン』の読者ですが、この連載を読み飛ばしていたことをここに反省の意味をこめて告白します。自らのことを『チューサン階級』渡渉する『バクチ打ち』で兼業作家の筆者による時事論ですが、歯に衣着せぬ語り口で、日本人及び日本社会を斬って、斬って、斬りまくっていて、ここまで批判されていると怒りを超えてむしろすがすがしささえ覚えました。
『パーティーは終わった』この印象的な言葉で金融危機を語り、新聞やテレビが原発事故の際、いかに『大本営発表』を続けてきたかを批判し、野球賭博や薬物汚染にまみれた芸能界や相撲界を『識者』とは違った形で論じる。やはり、相撲の世界や芸能の世界は、俗に『カタギ』と呼ばれる世界とはまた違ったルールがあるわけで、そこを理解しないでただ一方的に批判する、という報道姿勢と、『ご都合主義』で報道をしたりしなかったり、『倒れたものを叩く』のがマスコミである、という言葉には少し笑いが漏れてしまいました。
文中には2ちゃんねる用語やそのほかにも『独自の』文体で綴られていて、それが個性といえば個性ですが、好き嫌いがはっきり分かれる一冊だろうな、というのが読んだ上での感想です。