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10 件中 1 件~ 10 件を表示 |
2012/09/30 20:53
投稿元:
ちゃんと教科書もレビューできるmixiクオリティ。
社会人になると誰しも
「いやあ、学生の時にもっと
真面目に勉強しておけばよかったよ!」
と一度は思うものですが、
ご多分漏れず僕もそうなりました。敬具
腐っても自分は政治学科だったので
引っ張り出して今読んでいるこの本。
当時も結構重宝したんですが改めて
今読んでも、もの凄い役立つ&わかりやすい。
「政治学ってなに?」という初心者から
「私は政治でこの世の理不尽を諭したい」
という豪の者まで、あまねく人にオススメできる。
まあ後者は革命家か何かでしょう。
人が2人寄れば政治が生まれる社会において、
政治学を学ぶことは人生を豊かにするんじゃないかしら。
そう思おう、そうしよう!
2014/05/29 16:38
投稿元:
あらゆる行動に合理性を見出そうとしてる向きはあったり、一つの論点について二つの学派が存在した時にその中間にある考え方を過大評価してるような向きはあるものの、穏当で平明な良い教科書。制度に関心はあるが、思想には関心がないということが改めてよくわかった。
2015/05/05 04:34
投稿元:
教科書:「政治学』有斐閣
1. Democracy... dēmokratía (Greek)
古代ギリシャのポリス(アテナイ)において発生
民主政(多数を占める人民が支配する政体)←→優れた少数が支配する貴族政、王政とならぶ選択可能な政体の一つ
▪︎古代民主政治の特徴
①政治参加の権利が市民全員に平等
*成人男子(階級によらない)に限られ、女性・奴隷は排除
・法の前の平等:社会的ヒエラルキー(階層秩序)に対するラディカルな挑戦
*プラトンをはじめとした反民主主義的傾向を持つ論者はかなり多く、民主制とは貧しく無知な民衆とそれを操る扇動者(デマゴーグ)による堕落した政体であるという認識は19世紀末まで残る
・民会における市民の発言権の平等:民主政とは何よりもまず、討議によって意思決定を行う政体、この討議は完全に自由で平等なものでなければならない、とみなされていた
②統治する者と統治される者が平等
アテナイの民主政における政治参加:
- 自由人全員が平時であれば月に4回の民会に出席に、最高の議決機関であるこの民会で政策を決定する
- 行政・司法の主要な官職は市民全員の中から抽選によって選ばれ、交代でその任にあたる
(選挙で政治家を選出することは民主制ではなく貴族政的、民主制とは市民全員の参加による完全な自治体制)....アテナイの国家の規模が小さかったため可能だった?
どのサイズまで直接民主主義は可能と言えるか?もしくはどのような条件のもとで?
③デモクラシーを支える市民の精神:市民がどれだけ自分の所属するポリスに愛着を持つかが民主政運営の鍵(公共精神)
民主政だけによらず、ギリシャの人間・政治観(ゾーン・ポリティコン, ポリス的動物)に由来する。そこでは公共生活に積極的に参加する人間こそが人間にとってもっとも重要な行為であり、祖国に進んで献身するものこそがもっとも有徳と捉えられた。民主主義の正否は一部のエリートだけでなく、市民全体がどれだけこういった共同体感情を共有しているかにかかっている。
→慣習による価値判断軸が民主主義の成立可能性に与える影響、この共同体感情の共有・議論可能性を高めることには時間と労力がかかるので、必ずしもすべての国民が民主制を望んでいるわけではない点に注意。特に政治に対する透明性や主体性が損なわれている場合に関与可能性が低くなるのか?
古代の民主主義:直接民主主義
近代の民主主義:間接民主主義, 国民全員ではなく投票によって選出された代表が立法行為を行う。代表による政治的意思決定, 「代表制民主主義」--- 古代ギリシャ的にはこれがすでに”選民的”であり民主主義の概念の外に出てしまう
▪︎ 近代デモクラシーの起源
中世から近世にかけてのヨーロッパに見られた身分制議会(貴族・聖職者・平民などの諸身分の代表からなる), 国王と各身分代表の意見交換
君主が無拘束の絶対権力を行使する絶対君主制ではなく、議会によってその権力を制限される制限君主政こそが理想的な政治体制だという観念が成立する。
→ギリシャ���は極端な意味での民主主義、それと王政・貴族政の中間に位置するいうことか
大陸諸国:16世紀以降君主権力の伸長によって身分制議会が弱体化
イングランド:身分議会制が着実に拡大し、名誉革命を機として議会が実質上最高の立法機関になる
古代民主主義との違い
・選挙によって代表を選出する
・代表者となる権利の不平等(厳しい財産要件の制限選挙、貴族。富裕な財産所有者に限られる)(根拠:財産、とりわけ不動産を持つもののみが自由人にふさわしい経済的・精神的独立を維持し、健全な政治的判断力を行使するにいたる高度な教育を身につけているという仮定)←あながち完全否定もし難い
国民代表の観念:エリート支配の側面。選出された議員は選出母体の委任や指令に拘束されるのではなく、全体としての国民の利益を代表するもので、議員に偏狭な党派意識を超えた一般的判断を求める ”代表者が従うべきものは国民の意見ではなく、究極的には自らの理性と判断力” →選挙民の利害や意志が議論における政策決定に直接反映することを困難にする(統治者と被統治者の同一性の犠牲)
代表がすべての国民の利益代表とすれば、選挙権の国民全体への拡大が必要→近代の民主主義思想へ反映
2. 近代における自由民主主義体制の成立
▪︎ 人民主権
近代における民主主義思想の復活:16世紀の宗教戦争期に神の前での一切の人間の平等という観念を推し進め、世俗の社会関係にまで適用しようとした急進的なプロテスタントの主張
宗教戦争下のフランスにおけるユグノー(新教徒)の急進派モナルコマキ(著述家):敵対するカトリックの支配者への武力抵抗を呼びかけるために、人民こそが世俗の一切の政治的権威の究極の源泉であるという人民主権論を展開。
ピューリタン革命期における水平派(レヴェラーズ):人民主権論をもとに革命議会が男子普通選挙を実施することを要求
→しかし政治的混乱の中で表明され、混乱の終息とともに忘れ去られる
ルソーによる『社会契約論』1792:人民主権論を制度の問題にまで切り込んで本格的に理論化。社会契約説のスタイルを借りながら人民主権に基づく国家形成を訴える。国民は自分の一身とすべての力を結合し、各人がその不可欠の一部となるような一個の共同体(各人の私的な意志やそれらの単なる総和を超えた「一般意志」により運営)を形成する
公共の利益のみを追求する「一般意志」が法律となり、市民がそれに従うということは、どの市民にとっても結局は自分の意思に従うということ。この場合に市民はあくまでも自由。市民全員が強い共同体意識で結ばれ、公共精神を養うことが不可欠。←これが何よりも実現不可能な部分に見える。
*市民の徳の重視、直接参加の重視など(ギリシャにおける古典的)直接民主政の色が強い, しかし人民全員の参加はあくまでも主権の行使という場面に限られ、実際の政府の行政活動に関しては全員がこれに関与する必要はないという点で異なる
→人民主権の理念はアメリカ独立革命、フランス革命において既存の政治体制を根本から覆す重要な拠り所に
→しかし革命後の体制はいずれ���ルソー的な直接民主主義の急進性を嫌い、イングランドと同様に制限選挙に基づく代表制を採用する
→19世紀にもっぱら(男子の)普通選挙の実現を求めるというより現実的な局面で活用されるように
▪︎ 自由民主主義体制の成立
自由主義と民主主義という二つの政治理念はある時期まで共通の敵(カトリック教会、権力の集中した王権、閉鎖的な身分制)に対してそれぞれ戦いを展開していた。
→しかし次第にお互いが脅威に
Ex. ) 自由主義の私有財産の不可侵性:制限選挙下の寡頭支配を正当化する論理にすりかわり、自由主義の諸原理はブルジョアジーのエリート支配のための格好のイデオロギーへと転化する。
一方産業革命により発生した大量の産業労働者が1830年以降積極的かつ組織的選挙権拡大運動を展開(民主的改革を求め、私有財産の制限ないし廃止を求める社会主義思想が加わる→自由主義と民主主義の緊張の高まり)
文明の進歩によって労働者が十分な富と教養を持つに至れば、それに応じて参政権を与えるべき?(政治的自由と人民の政治参加の関係を真剣に考察する理論へ)
アメリカ:ジャクソン大統領下においてヨーロッパよりいち早く白人普通選挙制度を実現。→トクヴィルによる「多数の暴政」の危険性の指摘(『アメリカの民主主義』1835, 1840), しかも平等な社会における物質主義と画一化の浸透は社会から孤立し、私的な世界に閉じこもる自己中心的個人を生み出す。孤立した個人は容易に多数派の意向に同調し、そこに暴力ではなく利益誘導によって人間の自由を抑圧する「穏和な専制」が成立する
*しかしトクヴィルにとって民主主義の進展そのものは不可避の歴史的必然。問題は自由と民主主義とがどういう条件のもとで調和的に存在し得るかを探ることであり、彼は地方自治を通した市民の政治教育や宗教による物質主義の克服にその可能性の一つを見出した。
→ここで国政よりもLocal Politicsにおける直接民主制の実現可能性が高まるわけか。民主主義とは”平等”という性格をその基盤に持っていると言い換えてもいいのだろうか?重なるところはあっても同一ではない気もする。むしろ平等はキリスト教的世界観から引用されているところでもあるし。いずれにせよ近代以降の政治で基礎をなす二項対立は自由と平等かもしれない。
J. S. ミル:自由主義と民主主義の橋渡し。代表制民主主義を最善のものと指摘(政治参加無くして個人の自由なし)『代議制統治論』1861, 理念的に最善の政体は民主政体または代議政体と断定(根拠:すべての人々の権利や利益は当事者本人がその権利や利益を擁護する手段を持ち、また自覚的にそれを追求しているときにのみ侵害されることを免れるという原理)
”仮に国民の集団利益を一人一人の国民に代わって顧慮し、また適切に管理してくれる政府があるとしても、そのような体制は国民の自助や自治への欲求を失わせ、その精神的な活力を著しく衰弱させてしまう。それは最終的には個人の自由を圧殺する体制”
ここでのデモクラシーは自由を守るための手段。→言い換えると自由を守るための平等なのか。平等を守るために自由である必要があるのか。それとも別の何かなのか。
ミルは普通選挙の実現(男女問わず)を強く訴える。一方で少数の有識者に複数投票権を与えることを提唱するといったエリート主義的傾向もあったが、「選挙権無くして個人の自由は保障されない」と主張した点で自由民主主義を理論上完成させた。
自由主義が過程における民主主義の重要性を認識、また民主主義はラディカルではない既存の自由主義的体制の枠組みの中で行動することが判明した時、二つの流れが合流。
→これで民主主義と自由主義が仲裁されたと考えるのは早計。
たとえ古代のような直接参加という条件を緩めたにせよ、近代の民主主義が人民主権の理念をその核におく限り、そこにおいて公共的な合意形成という問題が決定的に重要なものとならざるを得ない。(複数の人間の意見が一つの合意を形成し、その合意が単なる妥協や有力な一集団の利益の数の力によるゴリ押しを超える、真に公共的な利益を目指すものとなるにはどうすればいいのかという問題。)
古代の民主制においては
・参加者が少数であり、かつ高い同質性を保っていた
・市民にとって(少なくとも理念上では)ポリスの利益追求が私的利益追求以上に貴重な活動とみなされた
ことにより公共の同意の形成を可能にした
しかし近代以降はこの条件は成り立たない。様々な価値観と利害をもつ多数の市民が混在する多元的社会において、公共的な合意を形成していかなければならない。→自由主義の諸原理はこのような多元的社会における共存ルールとして試行錯誤の上で成立してきたものにすぎない。一度自由主義が原則として承認されれば、それによってより多くの価値が一国の内部で並存することがますます促進されていく。(自由主義の方が民主主義よりも近代社会との親和性が高い)
→んー。ちょっと著者の意見の偏りが感じられなくもない。他者の自由を侵害する自由にまで拡大されていることさえあるようにみえるというかそれが不可避にもみえる。究極の意味で”自由”である事の難しさに関する視点が少し欠けているような気がする。
メディアの影響で”個人の意見”がより操作可能になっている。教育など、もともと”本当の”個人の意見なんて作られたものではあるのだけれど、そこになにか「確からしさ」みたいなふんわりした認識的基準があるらしい。単なる妥協や有力少数者のゴリ押しを超えることがいかにも難しい。そしてそれがいかにして正当化されるのかもちょっとよく分からないというか、そこも合意が必要だという無限後退に容易に落ち込んでしまう。まず民主主義が発生したギリシャにおいて前提とされていた個人の(教育的政治的)均質性が崩れているという前提に注意する必要がある。「ポリスの利益追求>私的利益追求」にするためにはトクヴィルが指摘したように、宗教や地方自治を通した教育が必要となる。しかし多数が私的利益追求に動いているようにも見える中で公共利益の追求に動くということは現状ではそれを仕事とする人以外にとってはビハインドとさえなってしまう状況。さらに合意形成が同意の強要に容易にすり替わっている。
そこではある程度の均質性を担保できるような住み分けを果たす小グループ形成が重要になってくるのか?やはり....いつもこの結論じゃないか自分。しかし、「公共性」という観点を学ぶためには例えばそれが極端な利害を持っている小集団であっても、利害や価値観を共有できる小集団の中でその感覚を学ぶことはできる。全体統合はその後の話である。
▪︎ 日本における自由民主主義体制
本格的に自由民主主義を確立したのは第二次大戦降伏を機にして。しかし男子普通選挙を導入したのは1925(欧米とほぼ同時期)
明治政府成立以降のおよそ半世紀、イギリス流の議会政治の理念、ルソーの人民主権論、功利主義、ナショナリズム、社会主義の諸思潮などの西洋の政治論が流入。
開国後、旧来の封建制価値観を一掃し、物心両面で文明化を進めようという思想運動。
福沢諭吉『学問のすすめ』1872, 西洋の自然法思想をベースに天賦人権論。”人は生まれながらにして自由かつ平等、政府はそのような個人を守る結社”
大正デモクラシー、民本主義(吉野作造)
→日本の民主体制は昭和恐慌をへて軍部のテロの標的となり、短命に終わる。ヨーロッパにおいてファシズムが急速に台頭し、日本もまた軍国支配体制を強化し、第二次大戦が勃発する。(今と状況が似ている気もする。)
教科書:「政治学』有斐閣
3. 現代民主主義論
現代では民主主義は”理想の体制”というよりはすでに実現した、もしくは実現しつつある現在の体制として意識されるようになった。デモクラシーの現実を踏まえた「デモクラシーの意味」の問い直しが行われている。
▪︎ エリート主義的民主主義
第一次大戦敗戦直後のドイツ, ウェーバー『職業としての政治』1919:20世紀デモクラシーに対する彼の冷徹な診断。宗教・経済・文化といった社会のいたるところにおいて進行する合理化の過程が官僚制化を進展させ、それが政治においては官僚(公務員)層の決定的優位をもたらすと指摘。→議会の影響力は減退せざるを得ない(19cイギリスに見られたような活発に議論をして政治的意思決定を行う場ではない)
一方で政党が政治の基本的単位となる政党政治化が進む。政党はそれ自体がもう一つの官僚組織となる危険性を持つが、それと同時に、社会の相反する利益を政党を単位としてまとめあげ、政党間の活発な競争を通して政治のダイナミズムを回復する可能性をもつ。ただしウェーバーのみるところ、政党がそのような方向に向かうためには、強烈なカリスマ性を持つ指導者に率いられる必要があった。
ウェーバーによれば
・政治家に求められる資質:自らの信念に従って断固として行動し、自分の行為の結果に責任をもつ
・官僚に求められる資質:党派性を持たず、上位者の命令に誠実に従うこと
合理化・官僚化の行き過ぎた進展を指導者のカリスマ性によって制約するというのがウェーバーの最大の関心:民主政にはこのような強力な指導者を選出し、その正当性を担保する制度という位置付けが与えられる
→ここで言っている合理性とはどういう意味なのか?感覚的には批判的に語られるのは短期的な合理性のことを言っていることが多い気がするが。このカリスマは一歩間違えれば独裁者になるように見えるのだが....
デモクラシーは有能な指導者選出のための手段:20世紀前半、シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』1942
→ルソーが説いたような「人民主権」に基づく民主政は現実には実現不可能である。大部分の有権者は、自分の日常から離れた国家レベルの問題を所詮現実味のない遠い世界のものごとと感じており、そのような有権者に公共の利益に合致する決定を合意によって導くよう求めるのは、そもそも無理である。それどころか人民の意志と称されるのはあてにならないものである。というのもそれはしばしばコントロールされた結果としての「作られた意志」にすぎないからである。(市民の理性能力には極めて懐疑的)....オルテガの『大衆の反逆』1930:近代社会は理性的な判断能力を持たず、不合理な感情に任せて容易に大勢に順応する「大衆」を生み出す。このような大衆が政治に参加するとき、デモクラシーは危機的状況に陥る。(イギリスのウォーラスも大衆民主主義として批判)
しかしシュンペーターは人民には個々の政策決定にかかわる能力はないが、そのような性格決定をなす能力を持ち、指導者となりうる人材を選挙で定期的に選ぶ十分な能力を備えているとする。(→何を根拠に...?)
民主政治を市場になぞらえて、政治家は起業家、市民は消費者、市民は政治が提供する権力という利潤をただ消費するだけである。市場を支配するのは起業家としての政治家なのであり、その意味ではデモクラシーとは「人民の統治」ではなく、「政治家の統治」である。
*ただし政治家を志す者たちは人民の支持を獲得するために厳しい競争にさらされなくてはならない。民主主義とは権力獲得の過程に「競争」という原理を導入する一つの方法と見るべき。
→政治家のポリシーではなくキャラクターで決定されるような方法が、ここにおいて正当化されるわけか。しかしこの愚かな大衆論は取り扱いが難しい。現状でそのように思っている政治家や官僚が多いとしてもそれを肯定することは彼ら自身の存在意義自体を否定しまうわけであるし。何れにしても思慮深く素直で、ただ自分を認めてくれるようなかわいらしい国民などどこにもいないということはある程度確からしい。日本では少なくともそのロマンティック政治が抜け切れていない気がしなくもない。自分も含めて大衆は、きっと荒くれていて予測不可能で、だからこそ面白い...と思う人とロマンティックを夢と設定している人の間には大きな壁がある。つまり愚かな大衆批判の根底には結局大衆へ自分勝手な夢を押し付けている傾向が見られるということであるかもしれない。
▪︎ ダールのポリアーキー論
第二次大戦後のアメリカの政治学の第一人者ダール:デモクラシーの理念ではなく、その現実を分析しようというシュンペーターの方法論的自覚を受け継ぎながら、エリートと大衆を対立させるシュンペーターの二元論を克服しようとした。
ダールが注目したのは「集団」:集団こそ、無力な個人と政治に対して全面的に責任を負うと期待される指導者層の間の媒介を果たす
デモクラシーの伝統は、政治的平等と人民主権を報ずる人民主義的民主主義に尽きるものではなく、第4代アメリカ大統領マディソンに発す��もう一つの民主主義のモデル(一つの徒党factionが強大な権力を持つ事態は民主政にとって致命的な結果をもたらすが、複数の徒党同士が相互に牽制し合いつつ競合することは民主政にとって良い結果をもたらす)がある。
マディソン的民主主義の伝統は現代のアメリカにおいては、企業・労働組合・宗教集団・女性団体といった様々な利益集団相互の競合と調整という形で着実に受け継がれている。
ダールは『統治するのは誰か』1961において、1950年代のアメリカ社会のケーススタディを通して、そこではエリート論者が主張するような、一枚岩なエリート層による政治権力の独占(官僚制やカリスマ指導者)は実際には存在せず、権力は様々な利益を代表する複数の社会集団で共有されていると結論づける。個人が複数の団体に重複加盟することも少なくない。こうした集団間の交渉や連携によって一種の競争的均衡が生じ、市民は集団を通して十分に指導者をコントロールすることができる。その意味で民主政は少数のエリートの統治ではなく、複数の少数集団の統治。
これを理想としての完全な民主政から区別するためにポリアーキーと名付けた。
ばらばらの個人ではなく、利益を共にするものの間で組織化された複数の集団が相互に交渉しつつ、議会における最終的な決定にいたるまでの様々な過程に影響力を行使する。
選挙や議会における決定という制度的局面の背後でこのような活動を展開していることこそ、アメリカを相対的には民主的な政体とする重要なキー。
→利益集団や圧力団体のような自立的集団の活動に注目議論は多元主義、もしくは多元的民主主義と呼ばれる。これは現代社会において適合する民主政の一形態であるのだが、うまく機能するためには個人の利益がいずれかの利害集団に確実に代表されていること、また利害対立が経済的なそれのようになんらかの形で妥協可能な比較的穏やかなものであることが暗黙のうちに前提できる社会においてのみ。
→この競争的均衡は動的なのか?この場合”集団”に属していない個人という概念を排除している(ようにもみえる)。アメリカはわからないけれど、日本では結社や少数集団に属することができる人は結構限られている(宗教、政治組織)、そして労働組合の形骸化も著しい。いかにすればこの”少数集団”がうまく働くのか?、そして個人はいかにしてそれを見つけることができるのだろうか、という問いは重要そうだ。
さらに最後の暗黙の前提が、崩れていそうな場合が多い。すべての個人の利益がなんらかの利害集団に代表されることは難しいし、”妥協可能な”といってもほとんどの妥協とは意識的に誰かに負荷をかけて作り出すものではないか?そもそも妥協可能なのであれば紛争化はしないわけであるし。また、これが宗教を伴うと極端な主張なども出てきて劇的に妥協不可能になる気もする。いや、それが目立つというだけで、普段でもそうだ。
しかしダールは結構気になる。
▪︎ デモクラシー論の活性化
エリート主義、多元主義、いずれも人民の直接参加という古典的理念からますます離れている。近代民主主義の原理となった”人民主権”さえも薄らいできている。→もう一度民主主義の理念を確認��ていこうという動き。(→私もまさにここ)
・多元的民主主義への包括的な批判(ロウィ『自由主義の終焉』1969):1960年代にアメリカで主流となった多元主義に基づく政治の実態は、利益集団間のインフォーマル(非公式)なバーニング(交渉)が政治的決定を支配する利益集団民主主義に他ならない。(→談合みたいなかんじ?なんとなく実感あり。)
利益集団民主主義の問題点4つ
①民主的になされた意思決定を巧妙にねじ曲げることで民主政治を堕落させる
②確固とした基本方針を欠いた計画しか策定できないため政府の権威を無力化する
③一般的な原則や規範原理を欠いているため正義の問題を考慮することができない
④民主主義を支えるフォーマルな法手続きを無視することで民主政治を堕落させる
→法の支配の原則強化が必要!
→特に①と③に思い当たる節がある。正義とは全体で共有できないにしてもその集団内部で暫定的に決定されていることぐらいは必要そうである。
・よりラディカルな多元的民主主義批判(参加民主主義):古典的直接民主主義をなんらかの形で復活させるべきという主張。重要な政治的争点に対する国民投票の積極的導入、地方自治体・職場・学校といった小集団における直接意思決定システムの導入といった具体的方策を提案する。
”積極的な政治参加によって市民が経済的利害に閉じこもる偏狭な存在から脱し、公共のものごとに関わっていこうとするなど、より成熟した存在へと成長していくという期待” (→公共=善、経済的利益追求=悪という価値判断軸を感じるのはこれが民主主義ベースの意見であるからだろう):ハンナ・アレント『人間の条件』により活性化
1969−70におけるニューレフト運動において参加的民主主義が積極的に打ち出される。(のちに退潮)
新たなデモクラシーを模索する動き(討議的民主主義):多元的民主主義論やその後の合理的選択理論においては政治過程をあたかも市場における財の交換のようにみなす政治観が支配的。しかしながら、民主的な政治とは単に諸利益間のバーニングの過程に還元できるものではない。そこに自由で平等な市民の活発な討議があり、その結果なんらかの合意が形成されるという過程が確保されることが決定的に重要だとするもの。討議によって初めて個人の自由と自立が確保される。
→政治的なものと経済的なものをまとめて”動き”だけを見れば同じ確率のモデルなどに簡単に還元できてしまうけれど、それらが違う性格を持っていることはなんとなくわかる。しかし主に”何が”それらの違いとなっているんだろうか?限定合理性のことだろうか?合理性の範囲?この二つは現代においてはかなり近いものになっている気もする、良くも悪くも。それと政治の本だから偏ってしまうのは当たり前なんだけれど、この記述は経済的合理性追求に関する偏見がちょっと強くて、その中の長所に関する考察が足りない気がする。
ガットマン(討議的民主主義論者のうちの一人):討議の場に加わらない(もしくはそこから排除されている)市民は、一見自由なように見えても実際には政治過程による操作に対し極めて無力な存在。むしろ、討議と説得という過程���関わることで、初めて個人の自立性は強固なものとなる。しかし直接参加が必須ではなく、現代の代表制の枠組み自体は尊重しつつ、政治家に市民に対する徹底した説明責任(アカウンタビリティ)を確保することでも討議的民主主義の理念は実現できる。→ハーバマス「理想的発話状況」におけるコミュニケーション理論の大きな影響化にあるが彼ほど参加者の理性能力を重視しない立場も
→討議的民主主義の理論は嫌いではないのだが、”理性的対話能力”とは結局のところ教育の享受可能性もしくは(そんなものがあるとすれば)潜在能力の差などに依存しないだろうか?全体的なところではあるがこの”対話”という概念は暗に対話に参加できない社会的弱者を排除している(障害者、外国人、話すのが得意じゃない人....など)
脱国民国家型デモクラシー(ラディカル・デモクラシー):現行の民主主義理論は国民国家のみを対象としているという批判。マルチカルチャリズム(多文化主義)との連動。定住外国人への選挙権、社会保障給付の権利の付与、就労の自由といった新しい要求を掲げる。一国内部における独立性の高いエスニック集団に広範な自治権を与えたり、マイノリティ集団を単位とする集団代表の制度を導入したりするべきだという提言。フェミニズム、ネオ・マルクス主義も巻き込む。
-
memo.
ロウィ『自由主義の終焉』など多元主義の批判(及び発展)が気になる。また、ラディカル・デモクラシーについてドクターでもうちょっと詳しく理論を勉強したい。
民主主義という概念のモデル化について。
古典からベースに流れているのは”平等性”というところ。(対自由主義)
さらに民主主義の想定的はdictatorshipとは単純に言い切れず、古典的には王政・貴族政であったが、ウェーバーにおいては”カリスマ指導者”を選ぶ権利(またはその権力者になるための自由競争)があるということが民主主義の要件になっており、これはまさにdictatorshipに転ぶ可能性。そのため平等な個人の議論による決定という前提自体が揺らいでいる。ダールにおけるポリアーキーでは平等なのは個人ではなく集団同士という単位だと思うのだが、現状ではそれは結局集団同士の力関係によって平等とは言い切れなそうである。(→だからこそロウィの批判がしっくりくる)ダール的に言えば民主主義とは各集団の競争と相互牽制。しかし自分の所属するべき集団を見つけられない・見つけたくない人(極端な自由主義者?)を排除している。
いずれにせよ、探るべきは自由と平等のバランスであるらしく、”完全な”(それがラディカルと同義かどうかはまだわからない)民主主義は歴史の過程でうまくいかなかったことが多かったのだろう。そしてラディカルデモクラシーが台頭してきているということは今はデモクラシー(平等な権利)の欠如を感じている人が多いということなのだろう。
Democracy
Equality (democracy) → Something for the achievement of equality (indirect democracy)
Keyword: public spirits, public profit > personal profit, universal election, right to elect the leader, majority rule (as a mean), balance of liberalism and democracy, "liberty for equality" or "equality for liberty?", stakeholders (small groups), pluralism, discussion(rational)
2016/11/26 20:49
投稿元:
政治学について網羅的に書かれたもの。
この一冊で政治学が全て学べるとは到底思えないが、学ぶ上で持っておきたい一冊。
各章末には確認課題と文献案内がある。
2019/08/09 14:50
投稿元:
本書は、政治学をこれから専攻しようとする学生にぜひ読んで欲しい基本的な教科書です。本書は4部に分けられ、第1部では政治学の根源たる政治思想や政治理論、第2部では現代政治の枠組みたる政治制度、第3部では実際の統治過程に関する議論、第4部では政治過程論・政治行動論を学ぶことが出来ます。本書は分厚く読み応えが十分ありますが、読破した後の達成感と知識の蓄積は今後の皆さんの研究の糧となること間違いなしです。学部1年生の方にはひょっとしたら、少々大変な本かもしれませんが、ぜひ一度手にとって読んでみてください。
(ラーニング・アドバイザー/国際公共政策 SASAKI)
▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/opac/book/1433839
2020/08/10 22:00
投稿元:
難解な内容を分かりやすい例えを含む平易な文章で表現している傑作。
政治家になりたい人には必須では。
これまで聞いたことのあった程度の経済論が染み渡るように理解できる。
2023/09/30 09:58
投稿元:
★★★★☆
○現代政治学の名著 佐々木毅 中央公論新社 / 1989
○政治学の名著30 佐々木毅 筑摩書房 / 2007
○政治哲学 伊藤恭彦 人文書院 / 2012
○現代政治理論 川崎 修 有斐閣 / 2012
○西洋政治思想史 宇野重規 有斐閣 / 2013
○政治思想の知恵 仲正昌樹 法律文化社 / 2013
○近代政治哲学 國分功一郎 筑摩書房 / 2015
○政治学入門 平石正美 成文堂 / 2020
○政治学 新川敏光 ミネルヴァ書房 / 2022
★★★☆☆
現代政治学入門 篠原一 永井陽之介 有斐閣双書 / 1965
近代の政治思想 福田歓一 岩波書店 / 1970
近代政治思想の誕生 佐々木毅 岩波書店 / 1981
政治学概論 山川雄巳 有斐閣 / 1986
政治学の基礎知識 田口富久治 青木書店 / 1990
西洋政治思想史 中谷猛・足立幸男 ミネルヴァ書房 / 1994
現代政治の基礎理論 松下圭一 東京大学出版会 / 1995
近代政治思想史 田中浩 講談社学術文庫 / 1995
政治学入門 阿部齊 岩波書店 / 1996
ポリティカル・サイエンス事始め 伊藤光利 有斐閣ブックス / 1996
西欧政治思想 田中治男 岩波書店 / 1997
はじめての政治学 牧野雅彦 平凡社親書 / 2003
比較政治学 岩崎美紀子 岩波書店 / 2005
はじめて学ぶ西洋思想 村松茂美 他 ミネルヴァ書房 / 2005
政治学は何を考えてきたか 佐々木毅 筑摩書房 / 2006
はじめて学ぶ政治学 岡崎晴輝 ミネルヴァ書房 / 2008
はじめての政治哲学 小川仁志 講談社 / 2010
政治学をつかむ 苅部 直 有斐閣 / 2011
新書で大学の教養科目をモノにする 政治学 浅羽通明 光文社 / 2011
現代政治学 加茂利男 有斐閣 / 2012
比較政治学 粕谷祐子 ミネルヴァ書房 / 2014
比較政治学入門 岩崎正洋 勁草書房 / 2015
政治哲学概説 寺島俊穂 法律文化社 / 2019
教養としての政治学入門 成蹊大学法学部 筑摩書房 / 2019
ポリティカル・サイエンス入門 坂本治也 法律文化社/ 2020
大学4年間の国際政治学が10時間で... 小原雅博 KADOKAWA / 2021
よくわかる政治思想 野口雅弘 ミネルヴァ書房 / 2021
よくわかる比較政治学 岩崎正洋 ミネルヴァ書房 / 2022
自由を考える: 西洋政治思想史 杉本竜也 日本経済評論社 / 2022
政治学 渡邉 容一郎 弘文堂 / 2023
2022/11/05 08:39
投稿元:
基礎的なことが丁寧な解説とともに網羅されている(初学者なので本当かどうかわからないが、と思う)
あちこちで定番書として紹介されているので間違いないと思いますが
2023/03/06 00:14
投稿元:
苦手な政治の話を少しは理解したいと思い手に取りました。政治学全般についての教科書ですが、読み物としても面白い文章で楽しく読める内容でした。しかし、個人的にやはり政治の話は難しいというかスッキリしません。まず政治の究極目標というか原則からして教科書にはっきり書かれているわけではなく、自由主義とか功利主義とか、いろいろな主張があるよね、という紹介にとどまります。
制度設計に関しても、あちらを立てればこちらが立たず。統治の効率性を高めれば代表性が犠牲になります。効率的な多数決を採用すると、全体の合意形成が犠牲になる、など。
原理原則がなく各論の積み重ねで、基本的にレトリックばかりで判断のための具体的なパラメータがない印象です。複雑で多面的になっているよね、という身も蓋もない結論が続くのでもやもやしながら読み進めました。教科書として主張を入れるわけにはいかなかったのかもしれませんが、本書が政治学の難しさを象徴しているのではないかと思いました。
なにより、普段政治のニュースを見て、政治家が国民のことを見ていない!と納得いかない思いをしてたのが、それが本人と代理人と関係を考えた時に起こるべくして怒っている当然の課題で、簡単な解決策はないよね、という拍子抜けするような結論を見せられた気がして絶望感がすごいです。
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