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説明がまわりくどく読みづらい。
「空-さとり-吾我-無我-修行」の関係を整理したp78、79が要諦かな。
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人間の言語レベルでの知性の限界に近い思索が展開されているように思う。というより、人間の言語レベルを超えた次元についての議論が言語によって展開されている。
例えば、
人間はもともとさとりを得ている、または人間は生得的に「さとり」を持っている、またはそもそも悟りを得るべくして生まれてくる。だからこそ、さとりから程遠いと自覚している方ややさとりを得て修行しようという衝動が湧き上がる方がいる。自分はさとっていないとの自覚が生まれる時点でその方はさとりとは何か分かっているのだ。
上記の主張の構造は、例えば、人間は生まれながらに言語能力を持っているから生まれて後話せるようになるという言語生得説的な主張や鳥が何故飛べるのかというと生まれながらに羽を持っており、飛べるための遺伝子を持っているからだという主張の構造と概略重なる。
上記の仮説または構造は、本来直感では解明不可能なものである。近代以降に認知科学的に解明されるべき性質のものである。それにも関わらず、正法眼蔵を読み解いて明らかにした筆者と道元に改めて驚きを感じる。
また、道元と親鸞とは全く異なる分野のようでいて、実は究極において同じ次元において重なり合っているなどという議論について来れる時点で、その人は相当の人間通であることが想定される。まさに指月であると思った。
日本の仏教哲学のハイレベルで透徹した思索に敬意を評する。
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理解できない箇所もあるが、春日佑芳氏の著作における修証一等と同様に、本書では諸悪莫作について道元思想の理解を進める事ができたと感じている。
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『正法眼蔵』の「現成公案」巻、「仏性」巻、「諸悪莫作」巻を読み解き、その思想的意義を解説している本です。また、道元と親鸞を比較することで、大乗仏教の中核的な発想について切り込む考察を展開しています。
著者は仏教学の専門家ではなく日本倫理思想史が専門で、佐藤正英のもとで学んだ経歴をもっています。本書は、仏教学の立場ではなく、もうすこし自由な立場から道元の思想に切り込み、その意義を明快に解き明かしています。
著者はまず、道元の思索の出発点に「無常」があったことを指摘します。そのうえで、無常なる世界の真相をとらえた釈尊の縁起説から、龍樹の空観へと展開していくところに大乗仏教の中核的な発想を認め、それを「縁起―無自性―空」ということばで言い表わします。こうした準備をおこなったうえで、『正法眼蔵』を中心とする道元のテクストを読み解き、平等の世界と差別の世界の二重構造との往還をくり返しながら、道元の発想について考察をおこなっています。
かならずしも読みやすい本ではないかもしれませんが、仏教学の基礎的な教養をもたない読者にも道元の思想の意義が理解できるようにていねいな議論がおこなわれており、個人的には興味深く読みました。
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P34
修行とは「さとり」を得るための
手段ではなく、
修行する一瞬一瞬が「さとり」である
P34
つまり一瞬一瞬にこそ永遠が宿る
P59
差異はものごとを捉える観点が
生み出すものであるから
相対的なものにすぎない。
しかし世俗的世界においては
差異は固定化され
そこに序列がもちこまれる