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日本にも人魚はいました。
文学作品や伝説の人魚像を中心に、博物学や民俗学の観点から人魚を扱った文献をとりあげて分析しています。
日本の人魚に会いたいアナタへ。
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折しもアメリカ国立海洋局が、人魚は存在しない、と見解を示しました。
八百比丘尼伝説を始めとしたさまざまな伝説や、南方熊楠も追った人魚を、あれはジュゴンの間違いでした、では寂しいではないですか。
そうしたさまざまな文献・記録を追う、まじめで夢のある本。
人魚が話題になるときは、世が乱れるとき、かもしれない。
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人魚という言葉には、なんだかロマンチックなイメージを感じますね。
まず思い出されるのはアンデルセンの『人魚姫』。
薄幸のけなげなヒロインです。
ほかに、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』も思い出します。
これは、子供の頃に絵本で読んで、あまりの悲しさと恐ろしさに忘れられずにいる物語。
でもこれも、人魚はかわいそうな存在です。
「日本の」と明記されたタイトルなので、日本限定の人魚論だろうと思い、手に取りました。
お寺の秘蔵所蔵物としての人魚のミイラなどが紹介されるかと思い、そちらへの興味で読み進めていきましたが、実物としての人魚のミイラについての記述は一切ありませんでした。
比較文学的アプローチで、著者は文学の大学教授でした。
井原西鶴が、人魚についての作品を残しているというのが意外でした。
思ったよりも昔から人魚という存在について人々は語ってきたようです。
ただ、ヨーロッパの人魚のイメージが入ってくるのは明治以降。
それまでは、日本独特の人魚となっており、残された絵などを見ると、必ずしも女性に限定されず、水の精というよりは半魚人のような、グロテスクな感じがします。
江戸時代には本草学に採り上げられることが多く、人魚の油が灯油として使われるなどの効用があるとされたそうです。
「人魚の肉を食べると不死になる」というテーマは、さまざまな物語で登場しますが、これは欧米から流れてきたものではなく、日本古来のものだと知りました。
大和朝廷時代(紀元480年頃)には、人魚の肉を食べた少女が800年生きたという「八百比丘尼伝説」が日本全国に伝わっていたそうです。
奈良時代から平安時代には中国の文献から人魚のイメージが伝わってきたそうですが、そこでは「人魚は宿業の報いにより、人間を愛することを永劫に禁じられている」という定義が見られるとのこと。
この世ならぬ者の美しさに惹かれつつも、愛は叶わないところが、日本の「かぐや姫」につながるところがあるように思いました。
江戸時代には、すでにセイレーンやローレライといったギリシア・ローマ神話が幕府に伝えられていたようですが、明治以降は庶民レベルにもアンデルセンの『人魚姫』の翻訳が導入され、人魚はもっぱら文学の領域に登場するようになります。
私達が知っている人魚のイメージは、このあたりからのものとなります。
ただ、欧米思想が反映されたと思われる文献は意外なほどに少なかったと著者は述べていました。
オスカー・ワイルドも『漁師とその魂』という作品で、人魚を取り上げていることを知りました。
美しく無慈悲な人魚に翻弄される漁師の物語で、彼の作風上、やはり報われない話のようです。
思ったよりも、日本独自の人魚のイメージが続いているのかもしれません。
全世界を通じて、人魚といったら男性ではなく女性になるのは何故なんだろうという疑問がわきましたが、その件に関しての説明はとくにありませんでした。
ただ、かつては男性の人魚も存在したそうです。
人魚ははじめ、得体のしれない未知の生物として、食用としての栄養効果面の方が強調されていましたが、次第に手の届かない美しさを持つ対象として、芸術家の心を捉え、モチーフとして採り上げられていったという変遷がわかりました。
つまり、個人的に気になっている人魚のミイラというのは、やはり時代をさかのぼって、不老不死や滋養強壮をもたらすものとして作られたものなのだろうと推測しました。
それにしても、自分にとって『赤い蝋燭と人魚』のイメージは鮮烈でショッキング。
今でも、朱色一色に塗られた和蝋燭を見ると、(火が灯ったら大嵐が起こるのではないか)とドキドキ緊張しています。