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2013.1.14 市立図書館
漫画だからサクッと読めたけど・・・かなりの衝撃。
3回くらい読み返した。
怖いな・・・と思った。
自分も毒親の要素を持っていることを。
こんな親にはなりたくない!と思っているのに、
キレたら乱暴な言葉を吐いてるし・・・。
「毒になる親」と同様、反面教師になる本です。
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親の育て方がどんなでも、結局最終的に解決できるのは自分しかいないんだから親の育て方が悪かったって分かるというのにどんな意味があるんだろう…って思ってしまう。
人間悪いことがあればなにかのせいにしたいのは当然だから、自分がうまくいかないのを親のせいにしてしまうことはよくあることだと思う。記憶の改竄って簡単に起こるから。
この著者の親御さんは本気でヤバそうですが。
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うーん。私の助けにはならないなー
ちょっとは期待してたんだけど。
約10年前・・・・・
やっぱりカウンセリングの敷居高かったのかな
やっぱり、怒ったり・暴れたりは緊急サインのはずなのに・・・
少しずつ「不健全な親子関係」が認可されていくといいなー、世間に
味方がいるのといないのとではまるっきり生き方ちがっちゃうから
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ちょっと期待していた内容と違った。
自分としては娘にとって重たい母親にならないように、アドバイスが欲しかった。
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最近、保育所が足りない! というニュースが話題になった。こういう話題が出てくるといつも湧いてくるのが、「じゃあ共働きをやめればいい」「専業主婦になればいい」という意見だ。その理由としては、「赤ちゃんには絶対に母親が必要」とか、「子どもは3歳くらいまではお母さんが育てるもの」などなど、あたかも愛に溢れた正論のような理由が挙げられることが多い。母子の愛は、とかく美化され、絶対視されがちな傾向にある。
思想家の鶴見俊輔さんの著書のなかで、「母親というのは、子どもにとって内心の先住民族であり、抑圧者」(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』)であると語られている部分がある。
主人公の作者・永子のお母さんは、永子にとっては、まさに「抑圧者」そのものだ。お母さんは「KY」で「好きなったら一直線」な人であり、物語の最後で永子ちゃんが気づくように、お母さん自身の味方をする人がいなかった人だ。だからこそ、ひとり娘である永子からの認証を求め、永子が独り立ちすることも素直に応援できず、いつまでも自分の思い描く母娘の関係の中でのみ永子を愛し、保護し、母親としての自分を認めさせようとする。
主人公である永子は、いつも自分自身に問いかけている。「私は、お母さんのこと、好きなんだろうか、嫌いなんだろうか?」でもそれは、最後まで答えの出せない問いであり、お母さんという存在の影は、永子の人生につきまとい続ける。永子にとって初めて好きになった人、タロウくんまで、お母さんそっくりのひと。あれほどいやだと思っていた環境から抜け出したのに、気がつけばお母さんと同じようなことを言う人と付き合っている…それに気付いたときの、あの絶望と言ったら! そして、永子自身が母親になろうとするときも、「お母さんみたいな親に、絶対なりたくない!!」ともだえ苦しむ。やっぱりお母さんの呪縛がとけない。
世の中には親子の美談があまりに溢れているが、母からの愛は絶対的な真理や正義なわけじゃない。それはもしかしたら確かに愛には違いないのかも知れないけれど、その愛は時に家族や子どもを抑圧したり、苦しめたりして、愛とは伝わらないこともある。母子の関係にたったひとつの絶対的真理の関係性なんてないのだ。
それでも、この本を読んでいると、親子だから絶対仲良しなんてこともないし、しんどいときには距離を置いたっていいんだ、ということを子ども自身が理解して認めるのは、実はとっても大変な作業なのだ、ということをひしひしと感じた。「お母さんが嫌い」とただ言い切れないからこそ、しんどいし、つらい。
主人公であり、筆者である永子が最後に言っていることばは、「自分の味方でいよう」。その言葉を、母と子の関係に悩んでいる人、みんなに捧げたい。
Yahoo! JAPANニュース
あなただけじゃない! 毒親の“愛”に苦しむ子どもたち(ブックレビュー)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130403-00001926-davinci-ent
元記事はこちら。
ダヴィンチ電子ナビ
http://ddnavi.com/review/131559/
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3回読んだけど父の手紙のどこらへんがらひどいのか分からず…
皆いろんな思惑があると思うんだが。老後面倒みてくれて当然とか結婚資金出してくれて当然とか俺の親の老後面倒みて当然とかね
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心の中で一言。
「そっくり…うちも。」
分かりすぎて読んでて辛くなった、と同時に
「やっと描いてくれる人がいた」という気持ちでいっぱいでした。
仲良しなようで、子どもを縛り付ける母。
優しいようで、すぐに機嫌を悪くし怒鳴り散らす。
非常識で他人を怒らせる。
そして何よりも周りや世間からの「親に感謝しなさい」が凄く辛い。
自分ひとりは自分の味方になってあげること。
ただ、まだ読後感は苦しくて、克服はしきれておらず、本当の幸せにまで至ってない感はあったかも。
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こんな母親もいるんだなって思った。うちは放任主義だったから干渉されることはほどんどなかったし、男性か女性かで母親の見かたも異なると思うけど。
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本屋さんにて。
干渉過多な母親との付き合い方を我が身を振り返りながら読む感じかと思いきや、この中のお母さんはそういう次元ではなかった。最近ネットで毒親という単語をたまに見かけるけど、こういうことを言っていたのか。読んでて楽しくはなかったけど、色んな家庭があるのだと勉強になりました。
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これを読んで少しは思い当たるところがあるのではないでしょうか。私の母親もそうです。突然通わされるピアノやバレエ、学校行事を邪魔される、仕事場に電話やFAX、友達を横取りしようとする、自分のやり方を押し付ける…もうそのものだけど、ここに書かれてるほど酷くないし、私は幸いなことに父や叔父、叔母、祖父母にかなり可愛がられたので、精神を病むまではいかなかったけど、今だに母の怒鳴り声が夢に出てきてうなされます(笑)この作者も夫のタカちゃんが素敵な人で良かったなぁとそれが救いです。最初のサイテーな元カレは従姉妹の夫に似ているような…よくいるタイプかもしれません。あとは作者も言っているように自分がそんな親にならないように反面教師にして自分を好きになることですね。
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私の母親とは全く違うパターンの母親なので、読んでいてキツイ…みたいなのはありません。
漫画なせいか、この絵のせいか、受ける印象というか深刻さが薄らぐ気が。
でも、ニュアンスは伝わってくる。あ〜わかるわかる。
信田さよ子の墓守娘ネタの方が、私にはキツイ…
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こわい! つらい! きつい!!
「お父さんとお母さんを捨てるみたいで悪くてできない」っていま悩んでる人いるだろうな。
私の親は毒親ではなかったと思うけど、
自分がほしいものを買ってもらったことがないんだってエイコが思うところで
「 どうしてそんなのが欲しいの? おっかし〜」
って完全に自分の親の声で脳内再生されて泣きそうになった。(ほしいもの買ってもらってたけどそう言われた記憶が蘇った)
母親との思い出に似たようなところがある人ほどぐさぐさ刺さりそう。
「会わなくていいんだよ」ってお医者さんのことば、自分の中に100%の味方をつくるって大事なんだなー。
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その昔自分も「母がしんどい」と思っていた時期がありましたが、読んでいて「作者さんの親御さんと較べればウチなんて全然だわ…」と思わざるを得ませんでした。
それでもこの本で昔の事を思い出して心が痛む場面も多かったです。
「支配」や「重苦しさ」は感じなかったけど「価値観の押しつけ」は結構あったなぁとか。
大人になって、色々あって、今は言いたいことも言い合えて(それを互いに)受け止められる関係になったと思うけれど、そういう「今」は実はそれなりに幸せなことなのかもしれない。
作者さんが「(実親との)普通のお付き合いはムリ」という基準を確定されたというあとがきのくだりを読んでそう思いました。
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タイトルでこういう話とわかっていたのに、「うわぁ・・・これはきっついわー」と何度も思ってしまいました。この絵柄じゃなかったら、読む側もかなりしんどかったはず。
我が子を個人と認めないで、自分の望む型にはめこもうとする母親。仮に可哀想な背景があったとしても、子供にとっては毒でしかないですよね。
一般的に思い浮かべる「母親」のイメージとの違いにショックを受けました(父親もひどいですが)。
私は特に、事あるたびに子供に言う「安心させて?」の言葉を気持ち悪く感じました。卑怯な言い方ですよね。
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図書館にて。
本屋で見て、ずっと前から読みたいと思っていた本。
実際、読むのはとても怖かった。
いろいろ思うところはあったけれど、どうにも感想が書けない。
自分の中で消化するには、もう少し時間がかかりそう。
ただ、このように自分とのかかわりを時系列で冷静に残しておくことは、気持ちを整理するためにも大切なことではないかと思った。
第三者にわかってもらうためにも、残しておくことは大切だろう。
過去にどうされたかは、つらいけれどもうどうしようもないのかもしれない。
次は、著者も恐れていたように、自分がそういう母親にならないことなのだと思う。