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「さよならクリストファー・ロビン」
作家はひとつのテーマをべつの語り口、べつの登場人物によって語るのだろうなとおもった。
高橋さんのばあいは、物語の登場人物が「じつはぼくたちは誰かによって書かれたものだ」って気づいちゃって、それでその世界の辻褄があわなくなって消えていく…みたいなあれだから、それはやっぱり「ペンギン村に陽は落ちて」を彷彿とさせるというか、もっというと「まんまじゃん」とも思うんだけど……だって「ペンギン村」も「プーさん」も、舞台とはいってもそんなのあからさまに物語をいれる「容器」なわけだし、
入ってるものはどっちも水なのに、グラスの色が違うからって「前のは赤い内容だったけど、こんどは青いね!」なんてふうには思えないわけですよね。けどたぶん、というか絶対と思うけど、高橋さんはちゃんとそのことわかってるわけで、逆にむしろそのことが言いたいのかな?
水は水なら容器も容器だし、その外に広がるのは「虚無」だって。
けどぼくはあんまり禅問答ってすきじゃない。
「峠の我が家」
ふいに「お友だち」のこと思い出した。
>「お友だち」は、ひとりの子どもが産みだす、たったひとりの、彼(彼女)だけの友人なのです。(略)あなたが泣いていると、そっと近づいてきて、おもしろい冗談をあなたの耳にそっと呟いてくれます。あなたが眠れない時には、あなたと一緒に寝て、今日、保育園であったことを聞いてくれる。「お友だち」は、あなたの話を聞いてくれるし、あなたに話してもくれるのです。いつだって、あなたひとりのために。
思い出しましたか?
思い出しました。いました。たしかにいました。
だけど名前がおもいだせない……。それはとっても重要なことと思うのだけれど。いまごろ「ハウス」にいるんだろうか。
「お伽草子」
ママとキイちゃん死んじゃったんですか。
たしか「悪と戦う」でランちゃんはことばをしゃべれない子だったと思うんですが。たしかその後なんかで読んだけど、ママさんがあんなこと書くから子供が喋れなくなっちゃったって言われて……
あれ? でもぜんぶ小説の話だっけ? よく思い出せない。
なんかなぁ、こういうところ怖いなぁって思っちゃう。作家って。なに考えてるのかよくわからない。残酷。や、残忍ってかんじがする。
「アトム」
いままさに睦言をいいあってるカップルが、次の瞬間にはまったく別人になりかわる。「移行」がおこなわれると、じぶんの名前も職業も経歴もなにからなにまで忘れてしまって、今さっき愛をかわした相手のことも、もう思い出せない。なんでかとってもひっかかる。すごく根源的な、どっかしら懐かしいと感じるような……。
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虚無に抗えるわけがない。いつかはさよならしなきゃいけないんだ。
プーさんとか鉄腕アトムとか出てきます。嘘じゃないよ。
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心の中にしかないものは、「無い」のか。かつてあったけれど今はないものは、「無い」のか。
ここに「在る」とは?
私には言葉で説明できなくて、ここにある大切なものや、もう戻らないなくしたものを抱きしめたくなるような、抱きしめて欲しいような気持ちになりました。
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私が本を開いたとき、物語の登場人物たちは息を吹き返したように動き始める。
童話、冒険小説、漫画…無限に広がる想像の海を泳ぐ自我。
彼らの世界は彼らのものだ。私は見守るだけ。
でも、私が物語を読み終えパタリと本を閉じたとき、あるいは本棚の奥深くしまいこんだとき、本の中の住人たちはどうなるのだろうか。
誰かに読まれるために生まれ落ちた彼らが必要とされなくなり、物語の楔から解き放たれたとき、そこにあるのは虚無にも似た途方もない「自由」なのかもしれない。
戸惑いつつ歩き出す彼らの背中を私は見送る。
「さよなら、ありがとう」
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ものすごくすきだ、ほんとうにすばらしい、と思う部分がほとんど。高橋源一郎の既読の小説作品のなかでは「『悪』と戦う」がいちばん好きかなあと思ってたんだけど、これも大好きだなあ。
ただ、「ほとんど」と書いたのには理由があって、前から思ってたんだけど、高橋源一郎はわりと下敷きになっている思想が見え易い。あっこれってあのことかな、みたいなのを考えてしまう自分がいて、ちょっといやだった。ある思想や理論が社会に影響力を持つ場合、社会で生きている人間はそれから逃れることが出来ないとわたしは考えていて、思想性を感じ取れてしまう部分が出てくるのは仕方の無いこととも言えるんだけど、でも本当の物語とは、そういう理論や思想の影響下にあったとしてもそれの道具に陥らず、それ自体としてあるような、そんなものではないか。それ自体としてあるような物語性を感じられるすばらしい部分と、物語にまだ落とし込みきれてないんじゃないかなあと思える部分とがあって、後者が消滅すればもっと善きものが現れるに違いないのに。
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13/11/24
道徳的というか哲学的というか不思議な雰囲気の本だった。
P91ー
「ぼくが、『2分13秒』ぐらいのあいだにかんがえていたことって、どこかへ行っちゃうのかな」
「いかないと思うよ」パパはいった。
「どうなるの?」
「きみのなかにとどまるのさ」
「つまらないことでも?」
「つまらないことなんかひとつもないよ」
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夢を小説にしたような短編集~さよならクリストファー・ロビン。峠の我が家。星降る夜に。ダウンタウンに繰り出そう。アトム~意味があるようでない夢の世界だ。今朝も高橋源一郎さんを新聞で見たけど、どこかの大学の先生もやってるんだね。クリストファー・ロビンとは,くまのプーさんの男の子
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3.11に対する回答としての小説。
旨く言えないが、死者の思い出、とは何かを考えているのだと思う。
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喪失、がテーマの短編集です。
それもわりとハードな喪失なのだけれど、既存の童話という枠を借りて、寓意的、抽象的に表現しています。
わかりにくいような、でも、こういう形でしか表せないものでもあるような。
3.11の震災の後に書かれたもののようです。
作家の提示するものをひとまず受け止めたけれど、面白いか、と言われればどうかな。
この人は、評論の方が面白いのかもしれないと、個人的には思います。
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くまのプーさんが「虚無」と戦ったり、鉄腕アトムが銀河鉄道の旅に出たり。読んだ後には不思議な喪失感が残る、楽しい、けれども切ない読書体験だった。
佐伯一麦「日和山」と並んで、震災後の世界を反映させた名作。まだ発表されていないが、新潮文庫の「日本文学100年の名作」第10巻にはぜひ両方とも収録されるべきと思う。
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これは夢なの?
微睡の中、夢と現実が行き来するとき、物事のストーリーは曖昧になりつかまえたはずのつながりも、ゆるゆると解けてばらばらになっていく。思考は繰り返し、時間の流れも行きつ戻りつ。
夢の世界も心の奥底で流れる思いが反映しているはず?作品で描かれる世界のモチーフは何だろうと考えるのだけれど、つかみどころがなく、幻想的な世界が広がっていく。現代版「不思議の国のアリス」のような雰囲気。
表現の試みが多様で、こんなに自由な文章表現、構成もあるんだと感心することしきり。うまいなあ。
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泣いた。
パパとぼくの会話もとても素敵だった。
「ききたいかい?」
「ききたくない」
「わかった。では、今晩は、お話はなし。おやすみ」
パパはぼくに背中を向けて、寝たふりをする。ぐうぐう。
ぼくも、パパと反対の方を向いて、寝たふりをする。ぐうぐう。
ここの二人の会話が特に好き。
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大人になってくこと、自分が成長、変化していくこと、童心を忘れることなど深く考えさせられることが多い作品でした。
失うことについてもよく考えさせられました。
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くまのプーさんにクリストファー・ロビン、アトムに天馬博士とお茶の水博士…。
作者によって一度嚥下され、新たな物語の形を得て綴られる。
ファンタジックで、綿菓子のような読み心地です。
誰かとなりにいてほしいときに読む本。
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【星降る夜に】
『二十五年…わたしは、自分の口から出たことばに驚いた。二十五年も書きつづけていたのだ。誰も読まない小説を! その間に、もっとなにかできることがあったのではないだろうか? 山に登るとか、動物園に行って熊を写生するとか。もう少し、有益なことが。』
【お伽草子】
「『せっくす』というのは、人がわかりあうためにすることの中で、もっともいいもののひとつだ、同時に、もっとも、むずかしいもののひとつなんだ」
「どうして?」
「ことばをつかわないからだよ。ことばは、わかりあうために、人が使うものの中で、いちばん簡単なものだからね」
「簡単ないみのことばはないのかい?」
「あるよ。『アルランス』とか」
「どういういみなんだね」
「『一時間目の授業の時、先生に、頭が痛くて、熱があるみたいなので保健室に行っていいですか、ってきいて、保健室に行って熱をはかったら、三十六度ちょっとしかなくて、すぐ教室に戻りなさいって保健の先生にいわれること』だよ」
「そのことばのいみが、簡単なのかどうか、わたしには、わからんが、熱がないのに、すぐに保健室に行くのは、パパは感心しないね」
「わかった。ねえ、こういうことばって、使ってはいけないの?」
「きみは、どうして、そういうことばを作ったのかね。『ティーズィッテ・ナン!』とか」
「決まってるじゃないの。他に、ぴったりしたことばがなかったんだもの」
「オーケイ。『コネタキイ・イカンマクヤヒ』だと思うんだが、パパは」
「なに、それ?」
「『自分でことばを作るのは、おおいにけっこうだが、寝る前に、明日、学校に持っていくものを、ランドセルに、自分で入れてからにしてもらいたい』といういみだよ。それに、『フルエノウヨチ・ダシアタカ』でもあるしね」
「わかったよ。そういうことばを作ると、質問ばかりしなきゃならないから、めんどうくさいってことだね」
「その通りだ。でも、わたしがいったことばのいみは、『そろそろ、お昼ごはんにしようじゃないか』ってことさ」
『手で髪の毛を触る。それから、顔。目、鼻、唇を触る。ずっと触っていって、足の爪に、到着する。ぼくは、寝る前に、必ず、それをやるんだ。おまじない。
確かに、そこに、ぼくがいる、というおまじないだ。』