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在特会をはじめとした排外主義者の集まりに取材してまわったルポ。やはりどうしても「排外主義者に寄り添う」ようにしないと取材できなかったということもあるのだろうけど、その結果としてこういった団体の活動に賛意を示してしまう人たちの空虚さが描かれていると思った。その空虚さに重点が置かれて、排外主義の対象となってしまっている人たちへの行動への批判が弱いが、それは氏の他の作品を参照することになるのだろうか。在特会等の複数の団体が結局は分裂して先鋭化していく構造や、うっかりハマってしまっていたことを省みる人たちの述懐といい、僕らはオウムから何も変われないままなんだなと思う。
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「在特会」を「自分とは全く関係のない人間の集まりである」という認識を持っている方にとってはおそらく受け入れ難い内容になるだろうし、「レイシスト集団を徹頭徹尾糾弾する」といった内容を求めているのであれば肩透かしを食らうだろう。ただ、オビにある「われわれ日本人の"意識"が生み出した怪物ではないのか?」という問題提起と著者の至った結論には非常に頷けた。「ではどうする?」という点については本書を読んだ各人がそれぞれの立場で考えるしかないのだろう。
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逮捕者まで出すような過激な行動や、幼稚にも見えるような罵声を浴びせる運動スタイルで話題の「在特会」に迫ったルポ。途中取材拒否を受けながらも、ネットでつながる新たな運動を支える人間たちと、「在特会」を生んだ背景を描いている。
彼らは自分たちを〝被害者〟と位置づけ、日々の鬱憤を〝イベント〟としての運動で発散しているだけのようにも見える。あの想像を超えるような過激な運動スタイルを支えているのは、ごく普通の人たち。既成のメディアよりもネットに飛び交う情報をより信用しているところに共通点があり、運動に心の隙間を埋めてもらっているようである。
方向性や表現の仕方はともかくとして、現代に生まれるべくして生まれた〝市民運動〟ともいえる。
筆者の立ち位置の説明がややくどいか。センシティブな問題でもあるので、わからないわけでもないが。
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心のなかに生き辛さの「闇」を抱えた人たちがみな荒唐無稽な陰謀論に安易に飛びついて無邪気にヘイトスピーチを垂れ流すかといえば決してそうではなく、在特会に「救い」を求める連中に同情の余地はありません。もちろん「思想がない」人たちを理解することは到底できません。
むしろ、在特会を利用し、あるいは寄付をしたりして助長する匿名の「一般市民」の存在に底知れぬ「闇」を感じました。
この意味においては、在特会は我々が生み出した、という本書の主張には納得できます。
匿名の一般市民が社会悪を助長するケースと言えば暴力団の例が想起されるところですが、暴力団の方がかなりマシです。
暴力団はカタギの世界との間には一線を引いているはずで、ネットと現実の区別もつかずに「自分たち以外はすべて間違っている」というような思い上がった主張はしないはずですから。
在特会に”寄り添う”著者のスタンスはときに危なっかしく見えますが、本書の場合は、そのダイナミックな距離感が却って立体感を出しているようにも見えます。
また、安田さんが時々見せる癇癪というかキレる寸前のじれったさや、(是非はともかく)筋金入りの活動家である西村修平氏らとの関わりかたから、安田さんが(プロフィールや本書あとがきから見ておそらく左翼の活動家として)渡ってきた数々の修羅場がチラチラみえて、ちょっと面白く感じました。
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立ち読み、飛ばし読みにて読了
結局のところ、ネトウヨも在特会も
「こうであるはずだ!」
と現実にそぐわないもの(「日本の税金で」→外国人も納税者)でも、疑わず、反対知識(これすらも「こうだ!」と決めつけ)を勉強することもなく決めつけ、もしくは曲解して信仰しているにすぎず
また、在特会の実態として「自分達が苦しんでいるのに…」という思いから「(自分達の国で)外国人のくせに生活保護ももらえて、人によってはパチンコや焼肉屋で大成功してるなんて…」しかも「少しくらい不便な扱いを受けたからと差別だ何だと騒ぎ立てやがって」という自国の政府に選挙や直接行動をもって訴えるべきことを「手近な、弱い(抵抗力の弱い)」外国人に訴えるといったことを「自らの職業や名前を隠して(ネットでは匿名性、街宣で顔は出るが職業や名前を隠したり、芸名のようなものを使って…通名批判してるのにね…)」を行っているだけじゃないかとの感想
ただ、本に載っていた14歳のネットから情報を得て理論武装(もどき)をしている少年の一面的な見方に類似の人間が増えているのだとすれば寒気を覚える。
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ネット右翼とは良く聞く言葉だが果たしてその実態とは、と言われると良く判らないので研究のために買ってみた本書だ。が、読み進めるほどにやるせなさが募る何とも言いようのないネット右翼の活動に呆然としてしまう。
本書が中心として取り上げるのが会員数1万人を超え最大のネット右翼集団といわれる通称「在特会」こと「在日特権を許さない市民の会」だ。国を憂える右翼を標榜しながら標的とするのは何故か在日朝鮮人。しかもその攻撃方法は数を頼りにした幼稚な口喧嘩なみの罵詈雑言と差別用語の集中豪雨的シュプレヒコール。そしてネット右翼らしく活動の一切合切はネットで中継されておりそれをまた見る多くの人間が喝采を送る。「思想が無い」と右翼の面々からも揶揄されながら、まさに日頃の鬱憤をシュプレヒコールと演説で吐き出しているだけに見える活動は一体何なのだろうか。
彼らの活動を追う本書を読んでいると何故かグリーンピースなどいわゆる環境テロリストような活動家を思いだしてしまう。グリーンピースの主導者は恐らく金の匂いで動いているのであろうが、その彼らを支える末端の活動家の最大の動機と思われるのは、何らかの主張をすることで世間の注目を引きたい、認められたいという意識が根底にあり、それの表現形式はネット右翼もグリーンピースも極めて類似しているように感じられる。
既存政治、既存組織への信頼が失われるなかで、ネット空間を駆使して新たな活動への組織化が行われているのはある意味ではそれなりの成功なのかもしれないが、その寄って立つ目的も思想も必要とされないというのがまさにネット社会の特徴なのだろうか。
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この本、先月大型書店でことごとく品切れだった。その割には朝日の書評以外はあまり話題になってない感じ。
在特会は結局どうしようもない、という皆が薄々気付いている結論がハッキリと示されている。
「この国を何とかしたいという気持ちがあることは、いい。だけど彼らはインスタントな運動に走っている。そこが気に入らない」
「もしも、そんな程度の運動で日本が良くなるというのであれば、ぼくはそんなカッコ悪い日本なんて必要ありません」
いずれも右翼からの発言。けっきょく、易き方向、在日叩きに思いの丈をぶつける姿が客観的に見るとみっともないということが分かるかどうか。
あんな桜井みたいな人間の言動を素晴らしいと勘違いしてしまうことは、ある意味マインドコントロールよりも恐ろしい。そうした恐ろしい人たちの増加=易きに流れる方向こそ、そろそろ正していく時勢だと思う。
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「憎悪に満ちた集団の闇をえぐる」
インターネットで排外的な言動を展開する「ネット右翼」と呼ばれる人々が結成した「市民保守団体」の一つが「在特会(在日特権を許さない市民の会)」である。日本版のネオナチともいうべきこの集団は、在日コリアンや外国人へ侮蔑(ぶべつ)の言葉を浴びせ、暴力も辞さない過激な行動でこの数年注目を集めている。本書は、謎に包まれた在特会の実態を、丹念な取材によって明らかにする労作である。
容赦(ようしゃ)のないヘイトスピーチを繰り返す背景は何か。本書によれば彼らの「世間に対する挑発」は、歪(ゆが)んだ「承認欲求」に由来する。注目を浴びることで「世間に認めてもらいたい」。弱者を排除することで、社会でうまくいかない憂(う)さを晴らしているのである。そもそも彼らの批判には根拠が全くない。事実の実証確認を無視した、妄想じみた被害者意識に過ぎないことを本書は明らかにする。メンバーの一人は「プライベートな場面で、朝鮮人にヒドイことをされた経験はありません」と語っている。
在特会に「思想」は存在しないし、その活動は「レイシズム」以外の何ものでもない。言葉の暴力をためらいもなく浴びせるが、しかし、彼らは特異な人々ではない。「『フツー』としか形容する以外にない」「あなたの隣人」なのだ。著者の指摘に留意しつつ、評者は哲学者アーレントの「悪の陳腐(ちんぷ)さ」という言葉を想起した。ユダヤ人大量殺戮(さつりく)を指揮したナチの戦争犯罪人の裁判に臨んだ彼女は、被告人が典型的な極悪人ではなく「普通の人々」であることに注目した。「人の良いオッチャンや、優しそうなオバハンや、礼儀正しい若者の心のなかに潜(ひそ)む小さな憎悪が、在特会をつくりあげ、そして育てている」。
彼らの罵声(ばせい)と苛立(いらだ)ちの気分は別の世界に実在するのではない。「私のなかに、その芽がないとも限らない」。目を背(そむ)けることのできない戦慄(せんりつ)すべきルポルタージュである。
--拙文、安田浩一『ネットと愛国』(講談社)、『第三文明』2012年8月、第三文明社、92頁。
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在特会に集う「うまくいかない人々」とその背景に広がる無数の普通の人々。つくづくネット社会の恐ろしさを感じました。
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友人にお借りしている「ネットと愛国」をやっと読み始める。ネットを中心に、こうした言論が広まった原因について、少しでも知見が深められればと思う。
テレビが影響力を持ち過ぎている、という認識が漫然と持たれていた頃(2001年)に大学でメディア学を学び、その間にネットメディアが爆発的に普及していった。そして気がついたらメディアの状況が大きく変わっており、ネット右翼が登場していた。大学入学当時、今の状況など想像し得ただろうか。
そういうメディア状況の変化を念頭に置きつつ、読んでいきたいと思う。
主義主張は別として、彼らがネットで「オフ会」して同志になっていくというのは、我々の世代ではごく当たり前のことなのよね。北海道で保守の考えを持った人がいるなんて…という喜びを語っているかたの心情は、なんか分かるw
ヲタク文化がこれほど広まったのも、在特会が広まった構造とほとんど同じだと思う。テレビ等のメインメディアで取り上げられることがなく、人に言えない趣味だったのが、ネットを見たらこんなに同志がいた…、という。そのことが自信になり、また同志たちが集えるようになって、より先鋭化するという。
私自身、ネットを通じて人々が自分の趣味を肯定的に捉えられて、また普段知り合えない仲間に巡り会えるということをすごくポジティブに捉えている。だけれど、当然のごとく闇もあるのだなぁ。
読了。若い頃にインターネットが無かった世代にとっては奇異な存在にしか見えないだろう「在特会」を、1964年生まれの著者があくまで「普通の若者達が所属する組織」として描いた点が面白い。著者と同じ世代の人たちが読んだら、登場する若者達の普通さに驚くのではないか。
1983年生まれで、学生時代からインターネット文化に親しんでいる私にとっては、なんとなく「予想した通り」の会員像だった。こうした普通の人々が、インターネットで極端に差別的な言動をしていたり、根拠の薄い陰謀論を信じたりということは、よくあることだとなんとなく知っている。
そして、彼らの行動は極端だからこそ奇異に映るが、その後ろに無言の賛同者がいるからこそ怖い、という点について、著者と全く同意見。そのことを、我々の世代ではなく、上の世代の方が書かれていることに意味があると思う。ネットを見ない人と見る人で、文化が大きく違ってしまっているので。
それにしても、インターネットの「わかりやすい言動」と「仲間内での悪目立ち」が絶賛されるという性質について、改めて思い知らされるのであった。
個人的には、ネットは「同士の少ない趣味」を持った人々が集まり、世間の目を気にせずに堂々とできる状況を作ったことに大きな価値があると思っている。ただ、それが「世間と自分が違う」ことを外にアピールして、その行動が仲間内から評価される...という段階になると妙なことになる感じがある。
自分自身はそういう「悪目立ち」の極端さは苦手なところがあるのだけれど、そこに惹かれてどっぷりいった方々の姿を知ることができたのは、とても面白かったし興味深かった。そしてもちろん、彼らが特別ではなく、自分と地続きであるからこそ、自分を客観視することを意識していかんとなぁと。
なんかまとまらないけれど、在特会というネット文化が生み出した組織を、ネットが生み出した現象としてではなく、あくまでそこに所属する個人に焦点を当てて描いているところにこの作品の面白さがあるのだろう。読み応えのあるルポルタージュでした。
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ジョック・ヤングの『排除型社会』を読んだ直後であったのであまり驚きを受けることもなく淡々と読み進められた。
あらゆる権威が無効化され非正規雇用が珍しくなくなった後期近代、ましてやノルウェーのウトヤ島乱射事件の犯人ブレイヴィクが羨望するほどの閉鎖的・不寛容的政策を取っている日本で在特会のような存在が登場するのは必定である。著者が『在特会は「生まれた」のではない。私たちが「産み落とした」のだ。』と言っているのはそのような文脈においてであろう。
言うまでもなく、現代の経済活動に生き生きと生を謳歌する個人は全く重要ではない。ただミスなく粛々と働く「マシーン」さえいればいい。実際人間が行なっていた労働は機械が取って代わり、他の労働の多くも日本人にやらせる意味はなくなってしまった。
経済市場とそれに適応した政策下に「産み落とされた」在特会という「うまくいかない人たち」。彼らは現在の日本社会というシステムの生産品である、故に(一部ではあるが)その活動を承認する人間がいるのは当然である。しかしその承認はただ都合がいいからなされるだけで、彼らの孤独を癒すものではない。また在特会の「仲間」たちの承認もモルヒネでしかない。確かにまるでサークル活動のようにみんなでワイワイ騒ぐのは楽しいことだろう。野球場での応援のごとくみんなで同じ言葉を一斉に口にする愉悦は身が溶けてしまいそうなほどだろう。だがそれはやはり刹那的快楽にすぎないのだ。
刹那的快楽を是とする資本主義によって産み落とされ、それを謳歌する者たちを恨み怨嗟している在特会。にもかかわらずその快楽の調達方法が資本主義的であるというのはあまりにも皮肉な話である。
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読み応えがあって、ぐいぐい引き込まれ、考えさせられる本だった。
丹念な取材をもとに、『在特会』を丁寧に追ったルポ。まず、よくまあこういう人たちを1年半も追いかけたな、と。時に罵声を浴びながらも、感情的になることなく丁寧な取材を続けた安田浩一氏の辛抱強さには頭がさがる。安田氏は、単純に「知りたかっただけだ」と言う。「理解でも同情でもなく、ただ、在特会に吸い寄せられる者の姿を知りたかったのだ」と。
会員ひとりひとりや、関わってきた人たちへのインタビューから見えてくる在特会とは。
http://yamachanblog.under.moo.jp/?eid=466
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ミステリー小説のように読んでしまった。不気味な現象に踏み行って謎を解体し、彼らもまた自分と同じ弱き人間なのだと明かしていく様は、まるで京極堂の憑き物落としのようだ。
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「在日特権を許さない市民の会」というネット右翼に関するルポルタージュ。なかなか読み応えがあった。
在特会は「在日韓国人・朝鮮人が様々な特権を持っているために日本人が生きづらくなっている(だから出ていけ)」という主張を基盤に街頭演説したり、デモをやったりしてる団体だそうです。この本を読んで初めて知った。
読み終えて、「現代は『なんとなく』の"空気"が蔓延している時代」なのではないかと思いました。
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読み終わったあと、泣きたくなった。在特会は日本人そのものだ。初めは妙に主観的な文体が気に入らなかった。在特会のような陳腐な団体のルポなんだから、もっと冷静で客観的な文体の方がいいだろうと思った。しかし、エピローグで打ちのめされた。筆者自身が言っている事は僕にもよく分かる。僕が学生時代、オウムが一世を風靡した。僕の友人の多くも入信し、逮捕者も出た。彼らは一様に真面目で、生きづらそうだった。僕も生きづらさを感じていた。僕がオウムに入信しなかったのも偶然でしかないのかもしれない。在特会はまさに当時のオウムだ。社会でうまく生きられない真面目な若者の受け皿。擬似的な家族。彼らは右翼でも保守でもない。ただ、自己実現をし、承認して欲しいのだ。それはバブルがはじけ、失われた20年を過ごし、大震災を機にその腐った屋台骨が晒された日本に絶望した、多くの日本人と何も変わらない。日本人は今、自信を失い、進むべき道も見失い、頼るべき価値観も分からない。ただ、自己実現を求め、承認される事を望んでいる。在特会は日本人そのものだ。