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わりと共感できる部分が多かった。
ネットはコミュニケーションではない、という点には深く共感。
顔を合わせない面倒でないコミュニケーションなどありえないから、コミュニケーションがいつだって問題になるのだ。
またコミュニケーションとは本来、「異質な文化との間でいかにして新しい関係性を見出すか」というものであるのに、日本人は「いかに他者とトラブルを起こさないか」に終始しているという指摘には、自分自身がまさにそれであるためぐっさりきた。
数日前にちょうどコミュニケーションに関する文章を読んだので、関連してこちらも読んでみた。こんがらがりそうな理屈や難解な用語を使用しないぶん、かなり読みやすかった。文字も行間も大きくとってあるので、中学生にも読めるんじゃないかなと思う。誰にもわかるように語るのは本来とても難しいことなのに、筆者はそれができている。世界で活躍するだけのことはあるなとしみじみ感心した。
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201208/
問題なのは「原発反対」か「原発推進」かではなく、なぜそこに原発があったのかだ。原発は自然に生えてきたわけではない。それは、誰かの意思によってそこに建設されたのだ。それを認め、許した者がいたからこそ、そこに存在しているのだ。それが間違いだったと言うのなら、前言を撤回するのでなく、それを許した時点まで遡って非を認めるのでなくては、言葉から責任というものが生まれるはずがない。責任や覚悟というものなしに言説だけが垂れ流しにされるなら、語らないほうが余程ましだ。/
コミュニケーションには二つの側面がある、と僕は思っている。ひとつは「現状を維持するためのコミュニケーション」で、もうひとつは「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」だ。前者はたとえば「おつきあい」という言葉に代表される。「ご近所づきあい」や「会社づきあい」、「先輩とのつきあい」や「友だちとのつきあい」。さらに言うなら「夫婦関係」や「家族関係」、「恋愛関係」を維持するためのコミュニケーションもここに含まれる。ここで重要なのは「いかに問題を起こさないか」ということだ。良い言葉で表現すれば「協調」や「協力」ということになるが、悪い言葉で言えば、ようするに「馴れ合い」である。ここには、何か新しい価値観を生み出そうという意志はない。日本人が「コミュニケーション」という言葉を使う場合、ほとんどはこちらの「コミュニケーション」を指しているように思う。だが、コミュニケーションとは本来、異質な世界や異質な文化といかにつきあい、新たな関係性を生み出すかという重要な目的を持っている。こちらはたとえば「議論」という行為に代表される。~~ 僕が「コミュニケーション」というものにおいて問題にしたいのは、日本における「コミュニケーション」が前者に偏りすぎているということである。あるいは前者のコミュニケーションに後者のコミュニケーションが浸食されているといってもいい。/
コミュニケーションする上で一番大切なことは何か?そんなものは小学生でも知っている。嘘をつかないことだ。近代国家としての絶対条件というのは、嘘をつかないことなのだ。だから、嘘をつきまくっている中国やロシアはまだ近代国家ではない。中国などは「君子豹変す」の国だから嘘をつくのが当たり前という国であり、前言撤回をよしとしている。それでは国同士のつきあいなんかできっこない。欧米のまともな国なら「ここから先は絶対に嘘はない」という言論空間を常に確保している。そこで違反したら即厳罰が待っている。たとえば米合衆国議会の上院の査問に呼ばれたら、軍人だろうが誰だろうが嘘は言えない。もし嘘だとバレたら社会的に抹殺され、犯罪者として刑務所行きとなる。日本の国会の証人喚問とはレベルが違うのだ。なぜこんな仕組みが必要かといえば、言論空間には「ここから先は嘘はなしだ」という領域を確保しないとまともな議論にならないからだ。/
コミュニケーションというのは、他人とうまくやるということを第一に考えるなら、嘘はあったほうがいい。最初に述べた「現状を維持するためのコミュニケーション」の場合だ。夫婦の間、あるいは親子間に必要なコミュニ���ーションとは、家庭生活という共同体を維持するために必要なわけだ。~~ 嘘がなかったら家庭レベルでも国のレベルでも、まともに機能しない。それぞれの言い分を我慢することで共同体は維持される。自分はそう思っていないんだけれど、隣近所がそう思っているんだったら、そういうことにしておこうと。そういう言論空間は、必然的に最大公約数的なものになる。だから、ある種の理想や最善を求めるという議論はできない。こうした態度は、小さな共同体の中だけでなら有効に機能する。けれども、異なる文化や言語を持った海外の国と接触したとき、このコミュニケーションは通用しなくなる。だから、先に述べた中国とロシアを除いた先進国と呼ばれる国々の間では、「嘘を許さない」という言論空間が厳格に確保されているのだ。/
日本人は、個々の問題よりも共同性を重視する。共同性を重視するために、目先の問題だけを次々に回避していく。日本は小さな島国で逃げ場がないから、中国やロシアのようなあからさまな嘘をつく文化にはならなかった。しかし、まわりに同調するという嘘をついた。他人に嘘をつくのではなく、自分に嘘をつく天才になったのだ。そして、その中で言葉を便宜的に使っても良いということにしてしまったのである。歴史をたどれば、水稲耕作が、そういう文化風土を作ったということになる。共同体とか共同性を優先せざるを得なかった日本の文化的風土では、言葉というものはロジックとして使われず、その場しのぎの思いつきとして使われてきた。/
今の時代に「創る」ということは「選ぶ」ということと同義だと僕は思っている。それ以外にクリエイティビティなんてないとすら思う。「創る」という言葉の意味が曖昧で、あたかもゼロから何かを生み出すような誤解を招くが、それはすでにある膨大な知的資産の中から、自分の価値観に照らしあわせて必要なものを選んでいるというだけだ。/
歴代の首相は必ず就任したらアメリカに行く。大統領に会い、密談する。何が話されているのかは永遠の謎だが、ものすごくドスの利いた話がなされているのは間違いない。どんな首相もアメリカから帰ってくると別人になる。何もできなくなってしまう。その繰り返しの中で、日本の首相なんて何もできないんだということを思い知らされる。/
自分が何かを成したいのなら、自分なりのコミュニケーションのシステムを作ればいい。人と会うのがどうしても嫌ならば、そんな自分でも可能なコミュニケーションの方法論を生み出せばいい。だが、何よりまず大切なのは、何かを成したいという意志だ。/
本来、議会政治というものは、誰に責任があるのかということを明確にするためのシステムだ。だが、日本の議会はそれを曖昧にしたまま存在している。だから、何かあると、とりあえず首相を取り替えようという話になる。それ以上は語ることができないから、そこでまたブレーカーを下げてしまう。明治時代まではスキャンダルによって政治家が辞めさせられることなどなかった。だが、今、国民は政府に対して、モラルの話しかしようとしなくなった。政治家は政治的失策を問われることがないかわりに「人としてどうなのか?」というところを追求されていくことになったわけだ。/
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押井さんのことを知ったのは20年くらい前で、同僚に「おもろいから観ろ」と押しつけられて機動警察パトレイバーを一緒に観させられのがきっかけ。それから攻殻機動隊までは自発的に観ていた。それ以降のことは知らない。
図書館の新刊コーナーでこの本を見つけた。
自分で考えろ、覚悟しろ
価値観、日本人であることとはどういういことか
地震のこと、原発のこと、政治が機能しない理由
押井さんがなんでこんな本を出したんだろうとか、そんな他人事なことを考えかけたけど、そんなことはどうでもいいと思った。
自分で考えよう。自分のために。
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押井守さんと言えばアニメーションの監督の印象があり、新書を書いていること自体意外で読んでみることにしました。
読み終わったところで重い直球を投げつけられたように思いました。この本の1冊前に読んだ、佐々木俊尚さんの『当事者の時代』にも少し通じる話があったように思います。
タイトルの『コミュニケーションは、要らない』というのは、コミュニケーション不要ということを指しているのではなくて、インターネット、SNSなどコミュニケーションの手段が増えたからといってコミュニケーションが深まるわけではない、ということを言っているようでした。
ここでいうコミュニケーションというのは、
「日本人とは何か」
「日本人の求める価値観」
「自分はどう生きたいか」
を考えることを指しています。
日本人が何に依ってたつかは「日本語だ」というのは納得できました。日本は元々あいまいですが確かに、日本語がなくなってしまえば「日本」という国家や概念はなくなってしまうかもしれません。
日本人の価値観を揺さぶるような震災という体験があっても結局日本人は忘れていってしまうようなあいまいさがある。そもそも考えるということをせず、思考停止に陥ってしまうからだ、と言います。
政治がよくないと思えば即座に「首相が悪い」と言い、途中の思考プロセスを全て省いてしまう。順番に考える訓練がなされていない。
自分としても、考えることやめてしまうことの危機感は持っていても、どうやって解決していいかがわかりませんでした。
押井さんは最後に人はいずれ死ぬのだから、そこをスタートにしてどう生きるか、どういう価値観を持つか、を考えるようにしよう、と言います。
ハイデガーがこんなようなことを言っていたと思うので、このあたりが重い直球だと感じました。ただ、このあたりは唐突に述べているような気がして、それがわかれば苦労しないのだがと思ってしまいました。
--問われるべきは知識ではなく、覚悟なのだ。
どちらかというと、押井さんのような人に、日常生活の中で思考停止に陥らないための具体的な訓練方法などいくつかあげてもらえれば参考になるのにと思いました。
作品作りの中で「自分の言葉は使わない。作品の中に出てくる言葉はほとんどが古典からの選択だ」というのは意外でした。
作品作り=(既にある古典からの)選択
という信念があるようです。
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正直、読み始めたときは上から目線な書きっぷりに「んっ!?」と思ったが、物事の本質を見極めよ、という姿勢についてはその通りだと思う。
また、論理的な文章を書く言語能力が失われつつあるという点について、過去との比較はわからないが、私自身も難しさを感じることがある。そして、言語能力の低下=論理的思考能力の低下であろうとも感じている。ツイッターなどネット上の文章がすべての諸悪の根元とは言わないが、論理的な文章を書く訓練は、必要なんだろうなぁ(自分含め)。
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ずいぶんとセンセーショナルなタイトルであり、興味をそそる。コミュニケーションが大事だと言えば誰も文句は言わないだろうが、あえてそこに対抗した論理を見出そうとしているのだろう。続きはブログ→http://hiderot.blogspot.jp/2012/05/2012_10.html
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指示するかしないか両極端に分かれる内容かもしれないが
私はとても興味深く読んだ。
ネット上でのコミュニケーションの不必要性や著者が原発推進派である理由、
日本は非核3原則を掲げながらなぜ原発を保有することになったか、
日本人の性質を歴史や国民性を交えて解説するなど内容が多岐にわたるが
説得力があり、納得してしまった部分も多い。
同業者を名指しで否定するなど、さすが押井監督!
高橋留美子作品の分析の仕方には思わず膝を打ってしまった。
どんなに才能がある女性も結婚してしまえば誰かの従属物になってしまうというのはある意味事実なのかもしれないが、考え方としては
少し極端というか閉塞的なイメージがある気がする。
しかし、そういうことを隠しながら話を進める上ではファンには夢があるし、ストーリー的にも面白いのかもしれない。
かと思えば押井作品だって男女がきちんとした形でくっつく話はない(と思う。)
「はっきり言わなくてもお互いの気持ちはわかっている、でも一緒になれない」
というような関係が多いのではないか。
著書によると彼らは未熟ではないし、お互いの関係性ははっきりしている、
そしてファンというか日本人全般が結論を求めていないから関係性を
グレーにしているという風にもとれる。
アニメで恋愛を描くのもなかなか難しいものなのだなぁという素人っぽい
結論に至った。
ネットの情報もテレビの情報も本の情報などひとつだけを手に取って
信じて行動することは思考停止するより恐ろしいことなのかもしれない。
著者は最後に何を信じて生きればよいか述べているのだけれど
なるほどと思った。
だからああいった作品が生み出せるのだ。
彼独自の映画作り方なども知ることができて面白かった。
押井監督作品が好きな人は一読の価値があると思う。
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コミュニケーションには二通りある。一つは人と話を合わせるための世間話みたいなもの。2つ目は自分たちがあることについて語ることや議論すること。議論する場というものが日本にはないからコミュニケーションというものはちゃんと機能することが出来ていない。
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ただ周りに流されるのではなく、自分でちゃんと考えよう。なったらいいなあというところで思考停止することなく、しっかりと考え抜こうという内容
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タイトルに反し、コミュニケーションの在り方を論じています。著者の思いをエッセイ風に散りばめた内容は、あんまりまとまりがないけれど、どのページにも怒気と毒気が充満しております。
思考を停止して目の前の事象に情動的に動く日本人の習性に反発、あえて原発推進を唱えてみたりとか、言ってる内容に共感はできないが、天の邪鬼に突っかかる著者の姿勢には共感を覚えます。
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ツイッターとかコミュニケーションツールじゃねぇし!ツイッターなんかで会話すんなし!
たしかにツイッターはその名の通りつぶやきであって、その発言の責任は軽いよね。
ツイッターで発言するなら微小なりとも影響力があるわけだから、その責任は感じなくてはいけない。という考えを持っている人はいて、その考えは正しいとは思う。けど、やはり140字の主張をつなげても表面的な訴えにしかならないです。
受け手が問題を考えるための導入になるならいいけど、すっきり主張をまとめる技術だけ先行して向上しているから、受け手はツイートを見ただけで納得・理解したと思ってしまう。
人は低きに流れるものと言うけれど、情報もお手軽に分かりやすいものを要求する性質がある。
簡単に説明ができること=想定が浅いこと
という思考回路がないのは危ないよね。口車でだまされちゃうってことだし。
ところで、この間自民党の総裁選の時に、教え子は石破さんがイイと言っていた。理由は「言ってることが分かりやすいから」だそうな。
まだ公民も習っていないような中学生でもわかるような説明ってのは素晴しいんだろうけど、政治ってそんな簡単な物であったっけ?
テレビくらいでしか情報を集めていない庶民が政治に影響を与えてるってスゴイ怖いんですけど。
簡潔な論理で理解しやすい=信用できる。という安易なつなげ方はしてほしくないなぁ。もっと広い視野で判断・配慮ができる人が活躍してほしいよね。
こういう状況って、日本人がコミュニケーション能力低いってことを露呈しているんだろうなって思う。人の話の聞き方が稚拙だ。
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コミュニケーション能力を「話す力」と日本人は理解している節があると思うんだけど、私は「聞く力」の方に重点があると思う。(理解力でもいい。)
コミュニケーションとは言語活動を通して相互理解を図ることですよね。自分の主張を相手に認めてもらいたいんですよ。
そのために必要なのは、相手の気持ちを理解した自己主張だと思うんですよ。相手の思いに沿って、自分の論理を展開して行く。相手も納得する形で最終的に話を終わらせるのがよいコミュニケーションのはずだから、相手の考えをよりよく理解する力って何より大事だと思う。
「自分の主張をはっきりすることが大事」ってイメージがあるけど、それって意見衝突を助長しているだけじゃないかな。
意見衝突しても負けない頑固さを身につけるのがコミュニケーション能力向上ではないでしょう。
もし相手と意見を違えたなら、相手の意見をよりよく理解して、その論理的矛盾点を指摘して、自分の主張の正当性を示す。それが高いコミュニケーション能力じゃないかな。
もし自分の論理に非があったなら、素直に訂正して、よりよいものを作ることに専心する。
こういった高い受容の力こそ、コミュニケーションには必要なんだと思う。
今の原発論争にしても、自己主張強い人多いけど、受容力が高い人が目立たないよね。たぶん前者のせいで後者が埋もれてしまって見えるからなんだろう���ど。
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コミュニケーションは聞く力(理解力)が大事と書いたけど、相手と共感できることが大事ということを言いたいのではない。
コミュニケーション能力は初対面の人に、いかにバリアフリーで話を盛り上げられるかという合コンの能力ではない。(でもそれはそれでスゴイ大事だと日々感じてはいる)
別に相手に共感しなくてもいい。ただ、相手の話を冷静に聞いて、客観的に判断できるようになるべきだということ。
だから、聞く態度の根底にあるのは共感ではなくむしろ、疑念。この人の言い分は正しいのかシビアに評価しながら聞くべきなのだ。
だから押井さんは信じないことが大事だと言ったのだろう。
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個人SNSに抵抗があることから興味を持った本。
なかなかシビアな切り口で言語とコミュニケーションについての関係性を簡潔に述べており、たまにはテレビや新聞ではなく新書を読むのもいいなと思わせてもらった。
日本人のコミュニケーション=協調性というのには納得。学生だって日々空気読みながら生きてます。他にも、人任せ主義を望んでいるなど、読んでいてギクッとする部分が多々あり。
何をするにも覚悟と責任を持つ事、分かっているつもりだができているかというと自信がない。少しでも成長できるよう努力していくしかないのだろう。
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言語と思考、行動の密接なつながりを痛感させられる一冊。
個人的には押井守と言えばパトレイバーに始まり攻殻機動隊、スカイクロラという映像作品を連想するのだけど、今回は初めて著書、文章になっている押井守の作品を読んだことになるのかな。
読んでみて、まあ極端な意見をお持ちの方だなーって感じだけれども、現代の日本人が何がしかの「言葉を持っていない」と書いていたことには腹にすとんと落ちてくるものがあった。
私たちの思考が言葉で考える以上、使用している言葉との密接な関わりあいが、例えばその使用している言葉が曖昧であれば行動にも曖昧さが出てくるように、言葉が意思伝達で使われる記号以上の存在であることを気づかされた。
まあ、これは個人的に印象に残った箇所なので、全体的には映画を中心に色々な論点について書かれていますよ。
あー、にしてもこれ読むとスカイクロラまた観たくなってきたー!
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映画同様、読者に考えさせる構成で問題提起を繰り返します。
人を思考停止に陥れるという観点で、情緒が、空気を読むという美徳が危ういものであることは今一度認識すべきと感じます。
漢語教育の縮小、言文一致による論理的思考力の低下に関する考察のくだりには、水村美苗氏の「日本語が滅びるとき」の言論にもつながっており大変興味深いです。読まれてこそ、伝わってこそコミュニケーションであることもまた意識しなければなりません。
大多数にとっての社会性をマスメディアと個人の中間地点にあるものと確認したうえで、氏はインターネットをあくまで世界に向けた窓口を限定することに成功したツールと切り捨てます。こうやって投稿しているレビューもまたコミュニケーションとは呼べません。
ひとまず信じないことによって自分で考える。最後まで読んだあとにタイトルを見直してはっとさせられました。
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コミュニケーションは本来自分と相手は分かり合えていないのを前提に行われる。日本語は「みなまで言うな」だから論理が弱く議論が成り立たない