投稿元:
レビューを見る
論旨が曖昧で情緒的。筆者の言う『日本人の奥ゆかしさや思いやり』なのかもしれないが、いささか非生産的過ぎる。読む価値なし。
投稿元:
レビューを見る
日本特有のコミニュケーションの問題だけでなく、利点にも焦点を当て、今後グローバル化が進展する中で、その良い面を再認識すべきであると。序盤がややクドイと感じたが、興味深いテーマ。日本語では「人間」と書いて「人」と同義。自身の中だけでなく、相手との「間」に自己を認識する状況依存的な文化という指摘に納得。また原理原則でなく状況で物事を判断する、自己矛盾を認められることが、欧米より圧倒的に多重人格障害が少ないことにもつながると。個人的には欧米スタイルのコミニュケーションスタイルを導入すべきという意見だったかど、そうとも言えないかもだな。
投稿元:
レビューを見る
日本に帰国して早い物で7年…今だにコミュニケーションで戸惑う私には目から鱗!欧米は言語文化(言った言葉に責任がまとわりつく)のに対して、日本はそうではなく、言葉にそんな責任はなく、その場、その場の状況に合わせて受け応えをする状況連動文化。言葉にあまり責任は無いらしい。
なんてお粗末な!と、思ったけど、
このロジックを頭に入れてコミュニケーションを取ると楽になるかな?
投稿元:
レビューを見る
日本人にとって言葉(日本語)はただ単に意思を伝える手段というだけでなく、「場」を整え人間関係を円滑にする役割も持っていることが本書を読むと良く分かります。(むしろ後者の方がより色濃い)
一方、欧米では言葉は相手に自分の意思を伝えるための役割がほぼ全てであるため、対立意見を闘わせるディベートが盛んに行われる。
こうした対比も勿論面白いですが、もっと興味深いのは、欧米社会のように意見の対立を論理で押し切ることは「物事を一面的にしか見ない」ことを意味するのであり必ずしも正しい結果を招かないという指摘です。
これに対して日本社会のように意見を「調整」して物事を決めるやり方の方が、意思決定は遅れるものの、多面的な意見からより良い結論を導きだせることもあるといいます。
日本語の「曖昧さ」が持つ良さに気付かされることでしょう。
投稿元:
レビューを見る
なかなか示唆に富む書。
ただよくわからなくなったのは、日本人は調和を大切にし、アメリカ人は自己主張が強い。
確かにそうかもしれないが、ではなぜ「人を動かす」や「7つの習慣」といった名著がアメリカ人によって書かれ、ベストセラーになるのだろうか。
頭が混乱してしまった。
投稿元:
レビューを見る
毎日のように交わしている「すみません」という言葉。日本人なら誰でもよく使う言葉ですが、この言葉に、日本独特のコミュニケーションの深層心理が隠されているという、とても面白い書籍です。日本語の使い方はとにかく難しいですね。
投稿元:
レビューを見る
日本人の行動は状況依存という深層心理の表れという筆者の主張、なるほどと思った。ただ読む中でだからどうなの?という思いがずっとモヤモヤしてなかなか読むのが進まなかった。ちょっと期待外れ。
投稿元:
レビューを見る
あー僕は日本人だな〜と妙に納得してしまう一冊.もやもやに感じていた日本人のコミュニケーションについて,言語化されたおかげで(もちろんこれがすべてだと思わないが),頭がすこしすっきりします.
日本では,責任が個ではなく,場あるいは空気に帰される.状況依存社会と著者は命名する.相手の立場への共感性の高さ,多角的な意見への寛容性を,日本人は,ホンネを重視するためだと述べる.
「そうは言っても~という考えもあるよな.」と日本人が思える事は,相手の立場への共感性の高さに寄与しているとしている.物が言えない日本人は,相手の事を考え,一度相手の意見を引き受けてしまう,”やさしさ”のために生じるらしい.この人間味のある優しさは,対立を産むのではなく,安定した社会を形成するのに重要だと主張している.
しかしながら,共感性の高さは,感情と論理の未分化を伴うと指摘する.このことにより,日本では,議論をしにくい環境になっていると指摘している.意志決定の遅さ,責任の無い政治,全会一致の議決の大元には,共感性の高さが関わっているらしい.ちょっとなるほど.
また,最近の若者は,これまでの「話さなくてもわかる」状況であったのに,「話しても分からない」というあきらめの心理状況へ遷移していると言うのである.このあたりおもしろい.
日本的な曖昧さや緩さは,自他の共存,異質な文化,価値観の共存にとって非常に都合のよい性質であり,グローバル社会の中での日本の貢献として,この性質が有用では無いかと指摘しているとこは,そうかもと思ってしまう.このあたり,著者にのせられている感ありですが.
投稿元:
レビューを見る
欧米人に比べ、主張しない日本人、優柔不断な日本人。
それは全て、周りの人の気持ちを察して気遣うがための「状況依存社会」に生きているため。
だが、この「察する」はたまた「言わなくても分かる」という奥ゆかしさを、日本人は改めて認識する必要があるのではないか、と。
東日本大震災でみられた、日本人の秩序的でお互いを支え合い助け合う行動が海外から絶賛されたが、これも全て、周りの人を察して気遣う心が根付いているから。
「状況依存社会」に生きる我々が誇りにするべきものなのではないか、と考えさせられた。
欧米人は「タテマエ」しかない、という論調には納得する部分がかなりあった。
海外アーティストが日本公演後によく言う「日本は最高だぜ」なんて、まさにそれかな、って。
「ホンネ」ではどう思ってるか、ではなく、そもそも「ホンネ」が存在しない、と受け止めると合点がいく(笑)
投稿元:
レビューを見る
場の雰囲気重視は従来から色々な人が指摘しているが、個人的に今日やっぱそうだなぁと思ったのでちょっと訂正。
投稿元:
レビューを見る
社会人としての自分の見直しになりました。
自分の考えがずれている点と、しっかり「すみませんの国」の人間である点が極端に割れていてバランスが悪い・・・。そんな自分の自己分析のきっかけになった本です。
似たような本を探すとともに、しばらくしてからまた読み返すとまた発見がありそうです。
ただ、「すみません」の国の考え方が、全般的に良い風に書かれている点は今はなにか気に入らない。
投稿元:
レビューを見る
以前,この著者の別の本を読んで失敗したが,題名に惹かれて,懲りずに購入した.想像とは少し異なる内容であった.歴史を絡ませながら,日本人の抑制,日本的コミュニケーションの二重構造を指摘していた.日本は状況依存社会のため,原理原則がなく,海外から批判の対象になるが,それがきめ細やかな対応につながったり,必ずしも欠点になるのではないことを指摘し,それを逆手にとって何らかの貢献をする余地があるのではないかと問いかけていた.まずは自ら有する日本的コミュニケーションを正しく評価,理解したうえでないと,異文化との共生ができないという意見には共感した.
投稿元:
レビューを見る
前半は身近な話題だったが、だんだんと過去の歴史、日本人観の話で固い内容。
日本人と外国人は、大きな違いがあり、その一つが自己主張!国際化になりつつある日本で、コミュニケーション面ではこのままでいいのか、を考える一冊。
投稿元:
レビューを見る
ついつい自分もいってしまう「すみません」。
その日本人にある背景を分析してくれる一冊。
結局は、同一民族で外からの攻撃も少ない島国においては、言葉により相手を理解することや闘うことをあまり必要としない環境に育ってきた。それゆえ、もっとも大事とされているのが「場」「空気」となり、おかしいと思いつつもその場を良好に保つために「すみません」を連発する。
そうは言いつつも、インターネットなどにより世界との距離がぐんと近くなり、諸外国の人々と接することも多くなっているのは事実。政治家の外交ができていないニュースが日々流れる中で、ディベートをはじめ、自分の意見をはっきり言うことが正しいという風潮が次第に勢力を増している。
それは確かに大切であるが、相手がどんな背景を持っていて、どんな考え方をもっているかをしっかりと把握したうえで、適切な対応を行うというのがグローバリゼーションに必要な能力だと思う。すなわち日本の中においては、そういうあいまいさを残して対応する一方、国外などの人々とは白黒はっきりつけて言うことが大事なのかと。
また日本国内においても、リーダーはしっかりとした芯を一本もって、あいまいさを残さずに突き進むことが必要なんですね。
投稿元:
レビューを見る
昨日の東京電力の株主総会は、「エアー謝罪」あるいは「つもり謝罪」をして、株主からの経営合理化などの提案ははねつけて、1兆円の公的資金注入を了承という虫の良い提案のみ賛成。独占企業の姿が良く分かる。しかも辞める会長は、関連会社にちゃっかり再就職。甘ちゃん(あるいはアマチュアという意味でのアマちゃん)経営の見本。
電車が何らかの理由で遅延した際にも「お詫び申し上げます」と何度も繰り返しアナウンスされる。中には、昨日のことなのに「ご迷惑をおかけしてお詫び申し上げます」とアナウンスが流れることもある。まさに「すみませんの国」だ。
さまざまな場面で聞く「すみません」。著者曰く、すみませんには、相手に対する思いやりがこめられていて、「すみません」を言うと、「空気」が良くなる。さらに、「すみません」を言った人に対して、必要以上に攻め立てるのは良くないという感覚が日本文化にはあり、「すみません」と言われることで、相手の怒りが和らぐ効果がある。おもわず、「すみません」は魔法の言葉かと思った。複雑だな。
謝罪会見で見られる胡散臭さについて言及されている。「自己呈示としての謝罪」と著者は述べている。では自己呈示とは何かといえば以下のように説明している。
自己呈示とは、他者に対して特定の印象を与えるために、自分に関する情報を調整して示す行動をさす。こう見られたいという意図のもと、提供する情報を操作する。いわば印象操作の一種である。
本心とは違う謝罪を行なう会見が目立つのはそのためか。著者は、責任の所在が特定の個人ではなく、「場の責任」にするために弊害が出ていると指摘している。ニュースで高校野球部員が不祥事を起こした際、起こした個人のみではなく、部員全体で責任を取ることがよくある。責任があいまいになって、本当に教育上よいのか疑問だ。
「タテマエ」には要求をコントロールする効果があるという指摘があり、意外に思った。利己的な心を抑制する役割があり、タテマエがなくなると利己的な心が表に出て、社会が混乱すると述べている。タテマエとハサミは使いようか。タテマエは、使いこなすのが難しい道具だな。
「すみません」にもと場の重みが感じられなくなっている。ポテトチップス並みの軽さといえば、「政治生命を賭けます」も同じだ。歌舞伎の大見得じゃあるまいし、そんなことを言われて感激する人がいるのか。今まで、何人もの政治家が使っては、姿を消していった危険な言葉。それにもかかわらず「政治生命」を使うとは、「政治生命」に魅力があるのか。疑問がふつふつとわいてくる今日この頃だ。