投稿元:
レビューを見る
聖書には笑うイエスは登場しない。キリスト教は伝統的に笑いに関して消極的であり否定的であるという事に否定的な著者が、「イエスが寅さんのようだったら」という仮説を立て、共通点を見出すという構成になっているのだが、寅さんをベースにイエスに関する固定観念を覆すというか、新たな視点・見方を提示したいというのが主旨であるように思う。
「男はつらいよ」は全作見ているので、寅さんについてのエピソードは読み飛ばすことができるのだが、キリスト教には詳しくないので、イエスに関する記述は少々難解であり、この落差によって共通点が多少理解しにくかった。両者に知見があればよく深く理解できるのかもしれない。
「滑稽の中にある温かさ、フーテンの姿をとり、道化の姿をとり、自己を笑い飛ばしながら自己を無化し、一方で冷たい現実を冷徹に見据え、その時代が盲目的にのめり込んでいる誤った価値観を、ユーモアに包んでメタノイア(回心)に導く、これが二人の姿であった」著者の主張はここに集約されるのだろうが、寅さんについては肯けるものの、イエスに関してはまだよくわからない。
投稿元:
レビューを見る
寅さんとイエスの共通点について述べた本。
色々と書いてあるけど,やっぱり2人の持つ”人が好き”という気持ち,そしてそこから生じる行為が,人々を惹きつける理由なんだろうと思う。
福音書では,イエスが自分の罪深さを知るよう人々に促す場面が数度見られる(姦淫の女など)。そしてパンセの中でパスカルは,「仮に神を信じるとしよう。君が勝てば,幸福を得られる。もし負けても失うものはない。ならば,ためらうことなく神は在るという方に賭けなさい」と言う。
つまり,キリスト教は”罪を背負う人による賭け”という信仰。
これは悪人正機と似ている。
罪悪深重を自覚した悪人は,善人よりも仏の慈悲に縋る。その”賭け”こそが,他者への優しさを生む。
つまり,”悪人(罪深き者)による縋り”という信仰。
寅さんは,親鸞的な要素を多く持ってたということなのだろうか。
人は愚かで悲しい存在。
だけども,それを自覚することから生じる他者への配慮,慈しみこそが,神という存在の大部分を構成しているのかもしれない。
あと”甘え”について。
無茶苦茶やらかした寅さんに対して,おいちゃんが「お前なんか出て行け!」と怒鳴るシーンが何度かある。
その度に寅さんは「それを言っちゃあ,おしまいよ」と悲しそうに怒鳴り返す。
この台詞について山田洋次は,
”家族という関係上を踏まえた寅さんの行動に対し,おいちゃんの「出て行け」という言葉は,その関係を無効化するものである。だから寅さんは「それ(家族という関係を終了するという言葉)を言っちゃあ,(自分の行動も,これからの自分たちの関係も)おしまいよ」と悲しむのだ。”
というようなことを,新聞で述べていた。
これこそが,今は絶滅しかけている”甘え”だろう。甘えとは,相手が自分に好意を持っていることが分かっていて,それにふさわしく振る舞うこと(土居,2007)。こんな甘えの許容されない風潮が,現代には吹き荒んでいるように思う。甘えの否定は,他者に対する好意の否定に通ずるのではないだろうか。
寅さんとイエス,この2人と接することで,忘れ去られようとしている大事なものを思い出すことができるのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
寅さんについては,映画になったすべての作品を見ています。イエスについてはほとんどなにも知りません。でも,キリスト教について少しは知りたいと思ったこともあります。
本書の題名を見て,「寅さんを切り口にしてイエスを理解できルノデハナイカ?」と思って読んでみました。
ことはそんなに簡単ではなく,寅さんのことはよくわかりましたが,イエスのことはあまり頭に残っていません。
ただ,イエスが言ったということで書かれた書物の中の言葉を,イエスの生きた言葉として取り扱うことが大切なのかも知れないと思いました。イエスも人間だから,ユーモアがあるはず,笑ってるはず。諧謔もあったはずですよね。ん,そこは分かる!
投稿元:
レビューを見る
寅さんからイエスを理解しようとした本
イエスの言葉は、正直聖書を読んだだけでは意味ワカランのですが、
このように噛み砕いて、当時イエスがどういう心境でその言葉を言い、またどのような社会背景があったのか・・・
というアプローチで考えることで、
キリスト教をかなり身近に感じました。
投稿元:
レビューを見る
「人間の色気」について(寅さんの場合;イエスの場合)◆「フーテン(風天)」について(「ふうてん」という言葉;寅さんの場合―フーテンの寅;イエスの場合―風天のイエス)◆「つらさ」について(寅さんの場合―『男はつらいよ』;イエスの場合―神はつらいよ)◆「ユーモア」について(寅さんの場合;「ユーモア」という言葉;イエスの場合)◆ユーモアの塊なる寅さんとイエス
著者:米田彰男(1947-、松山市)
投稿元:
レビューを見る
寅さんとイエスの類似性を論じる内容だが、寅さんの解説に重点が置かれていて、イエスがどのように寅さんと通じるものがあるかという掘り下げが足りない感じがする。
しかし、イエスへの固定観念を捨てて、素直に福音書を読んで、イエスの人間性を深く理解するきっかけになる。
例えば、「自分の目にある梁(丸太)」「らくだが針の穴を通る」というような例えをユーモアとして読むことができると、ぐっと親近感が沸いて来る。
投稿元:
レビューを見る
新約聖書のイエスと映画の寅さんを比較することで「イエスにはユーモアがあったし、よく笑ってもいただろう」と論じている本。わたし自身「無表情で聖母マリアに抱かれているイエス」というルネサンス期によくみられる聖画が好きじゃないので、とても共感できた。
投稿元:
レビューを見る
いただき物.あいにく男はつらいよは一作も見たことがなく,イエスについて知っていることもあまりなかったので,それぞれについての記述は「そういう人だったのか」程度にしか読めなかった.寅さんには柴又の実家,イエスには神のもとという甘えの場所があるという見方は興味深いと思った.目の前の人に対して心の底から湧いてくる人間本来の思いやりに忠実に生きる,そういう両者の共通点を見ることができる.
投稿元:
レビューを見る
「 寅さんとイエス 」
「男はつらいよ」と聖書から 寅さんとイエスキリストに共通する 聖なる思想 を見出そうとした本。寅さん論であるが、寅さんの名言、名場面から 聖書や神学の理解が深まる構成
1日を丁寧に生きる
寅さん「俺の持っているのは暇だけ」→暇こそ1日を丁寧に生きることである
寅さんとイエスに共通したフウテン性
*他者を生かすための他者への思いやり
*表層の嘘を暴き真相を露わにする道化の姿
人間の完成とは
完全な人間になるため徳を身につけるのではなく、余分なものを 削ぎ落とすことによって 本来の人間存在を あらわにしていくこと
投稿元:
レビューを見る
マイミクさんからいただいた一冊。イエスは寅さんに似ているのではないか、というテーマを、カトリック司祭が「人間の色気」や「ユーモア」などのアングルから解き明かしている。
内容は、寅さんの映画をほとんど見たことがなく、キリスト教や聖書にも明るくないワタシのような人が読んでも十分楽しめるもの。この二者のどこが似ているのかといぶかりながら読み進めてみたが、実はイエスは明るくてユーモアあふれた愉快な男だったのではないか、というくだりで膝を打った。確かにそうだ。そうでなければ、謹厳なユダヤ教社会において女性や子供が近寄ってくるはずがない。考えてみれば、寅さんもイエスも弱者や傷ついた者には優しいではないか。この正月休みに寅さんのDVDを借りてきて検証してみよう。
それにしても、著者のカトリック司祭はどれだけ寅さんを愛しているんだろう。行間から寅さん愛がにじみ出るどころか、ほとばしっている。