投稿元:
レビューを見る
「"民俗学"的ないし"人類学"的手順は、あるまとまりを持つ一連の儀式から、積極的儀礼も消極的儀礼も含めた個々の儀礼を取り出してバラバラに考察し、その結果、全体のメカニズムの中で考慮してはじめてわかる各儀礼の主な存在理由も、その論理的位置をも見失ってしまうものであるが、本書の主な目的は正にこうしたやり方に抗することにある。」(118-9)
多種多様な儀礼にみられる特徴のひとつとして「通過儀礼」という形態を見てとり、膨大な諸儀礼の実例と向かい合いながら儀礼の一般理論を目指した著作。
冒頭に掲げた文章でもわかるように、これまでの儀礼研究が儀礼全体の流れを無視し、その特定の一部分だけを取り出して解釈を行っていることを、ヘネップは徹底的に批判する。
ある社会の中でいくつもの儀礼が連続性、連関性をもって併存している以上、そのひとつひとつの始まりと終わりはもちろんのこと、それらの複合体の始まりと終わり、過渡の段階までも見通さないとしたら、それは真に儀礼のもつ含意を汲み取ったことにはならない。
ヘネップのこのような問題提起はのちに「分離」「過渡」「統合」の三段階理論として多くの後進に影響を与えていった。コミュニタス概念で著名なヴィクター・ターナーもそのひとりである。
しかし、決して読みやすい本ではない。個々の事例が膨大に羅列されている部分も多く、通底する理論の骨格を読み取れるまでは、進めるのがやや苦痛だろう。
人類学入門をかじったのち、再び戻ってはみたい一冊である。
投稿元:
レビューを見る
1909年という人類学の曙の時期に、通過儀礼全般を適切に論じきってしまった古典的名著。
成人、結婚、出産、葬儀などなど、あらゆる儀礼を「分離」と「統合」そしてその中間の「過渡期」に分類する。何から分離し、何に統合するのか? 共同体=社会は、人間の生の相を意味に応じて幾つかの領域に区分し、それらの境界をまたぐ時に過剰で強力な「意味の祭儀」をおこなうらしい。
世界各地の広範な民俗事例を引きながら絶えず比較しており、知的興味をそそられる好著だった。
投稿元:
レビューを見る
古典的名著 儀礼を分離/過渡/統合と言う側面から体系化し、これらを総合して通過儀礼とする。単純にあるステップに達するために踏まねばならない儀礼と言う表面的な理解ではなく、『過渡』という境界的状況を浮かびあがらせたことに、儀礼研究の出発点がある。
投稿元:
レビューを見る
聞き慣れない言葉も多くて苦戦したが、面白かった。通過儀礼はあくまでも手段でしかなくて、越境する事で得る次の社会的位階の存在が行方不明になっている事が、伝統儀礼の消滅に繋がっていると僕は思うんだけれども。現代における社会的変化(e.g.大人になる事)の必要性をいくら説いても、向かうべき「大人」を誰も想像できていなければその手段も当然消えてゆくよね。都市部ほど伝統儀礼が消滅しているけど、その原因が都市化にあるとは思えない。つまり、越境する目的や理由を提示できれば、都市にだって“儀礼的なもの”は生まれると思う。通過儀礼を用意してくれないから、僕たち現代っ子は中二病を発病してしまうのですよ!(冗談です)
投稿元:
レビューを見る
儀礼研究の必読書。様々な儀礼を一般化するときの基礎となる体系化された理論は今も汎用性を失っていない。特に印象的だったのは、繰り返し、生理的成熟と社会的成熟を切り離すよう訴えるところ。儀礼とはまず第一に社会的なものなのだ、ということ。生理的な変化のプロセスと社会的な変化のプロセスは互いに関係しながらも、それぞれ別のものであって、時には全く独立して儀礼を必要とする。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
ファン・ヘネップ(1873‐1957)は、儀礼を初めて体系的に論じた。
誕生から死までの折々の儀礼、入会の儀礼などを、分離・過渡・統合の過程をたどる通過儀礼の視点で捉えた。
特に過渡期という境界状況については、コミュニタス理論など後の人類学の理論的展開の基盤となった。
儀礼研究の出発点となった人類学の古典。
[ 目次 ]
第1章 儀礼の分類
第2章 実質的通過
第3章 個人と集団
第4章 妊娠と出産
第5章 出生と幼年期
第6章 加入礼
第7章 婚約と結婚
第8章 葬式
第9章 その他の通過儀礼
第10章 結論
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
投稿元:
レビューを見る
ある立場から別の立場へと変わるとき分離、過渡、統合という三つの儀礼的な振る舞いが見られる(というか、その振る舞いで別の立場に変われる)という本で、本当に隅々までおもしろい。本書で観察されているマクロな視点だけでなく、身の回りのささいなもの、ミクロな視点にも当てはまりそうなところがすごい。
投稿元:
レビューを見る
原書名:LES RITES DE PASSAGE
第1章 儀礼の分類
第2章 実質的通過
第3章 個人と集団
第4章 妊娠と出産
第5章 出生と幼年期
第6章 加入礼
第7章 婚約と結婚
第8章 葬式
第9章 その他の通過儀礼
第10章 結論
著者:アルノルト・ファン・ヘネップ(Gennep, Arnold van, 1873-1957、ドイツ、文化人類学)
訳者:綾部恒雄(1930-2007、文化人類学)、綾部裕子(文化人類学)
投稿元:
レビューを見る
人間はこの世に生を受けてから地に還るまで、様々な儀式をその身で経験する。これは世界に文明が生まれてからというもの、どの時点のあらゆる地域においても当てはまる事象であり、それらの儀式は総称して儀礼または通過儀礼と呼ばれている。日本の伝統的な通過儀礼といえば、かつては元服に代表され、現代でも残るものといえば産湯や七五三、長寿の祝いなどだろうか。儀礼は宗教的あるいは民族的価値観に拠って立つ面が非常に多い行為である。そのため19世紀までは、研究の対象になること自体が稀であった。無論それまでの儀礼にまつわる研究が理論性に欠けていたわけではない。同時代に発行されたいくつかの書も優れた研究として名を残している。しかしそれらはいずれもキリスト教に基づいた進化論的発想を脱しきれなかったことや、膨大な事例の集成に落ち着いた結果、理論が相対的に不在しているのではないかといったことが指摘されている。儀礼や民族誌の蓄積に伴って儀礼が科学的見地から分析されたのは、20世紀初頭にヘネップによって著された本書が初であると言える。
ヘネップは世界に数多く存在する儀礼の存在理由や類似性、また決まった順序に従い執り行われる理由について疑問を抱いた。本書は世界中に遍在する儀式の連続性に着目したうえで、個々の儀式を分類し、またそれらの総体の本質的意味を論じている。私が印象に残った点は主に2つである。1つ目は本書の中でヘネップが提示した考え方である。ヘネップはまず、儀礼を積極的と消極的、あるいは直接的と間接的といったように、メカニズム面から二分した。そして「儀式連続の存在理由が比較的に理解しやすくなる」と述べた上で、儀式の連続性が重要であることに鑑み、通過儀礼を特殊なカテゴリーとして、分類の一形態として設置した。ヘネップはこれを正当であると自評したのち、「さらに分離儀礼、過渡儀礼、および統合儀礼で構成される」と続けた。これら3種類の儀礼をまとめて通過儀礼と呼ぶ。ヘネップによれば、分離儀礼は葬式の際に、過渡儀礼は妊娠期間や婚約期間に、統合儀礼は結婚式に際してよくみられるという。例に挙げた通り、ここでの分離と統合は必ずしも同一、あるいは対になっているお互いを対象としているわけではない。連続した現象を、その意味ごとに分割して捉えるという考え方は、私にとって新鮮なものであった。
2つ目は、先の考え方を念頭に置いた上での、通行における「通過」という概念である。マクロ的視点ならば国と国の境である国境を、ミクロ的視点なら門や敷居、玄関といった境界を越えることを指す。本書によれば、国境や門を踏み越える際に簡易な儀式を行う習慣がある地域や部族がみられる。地理的または物理的に定めた境界を越える際の儀式は、行動主を単に空間的に移動させるだけではなく、線の手前と奥の二つの世界をさまようという特別な状況に置かせるという点で、注目されるべきであるという。これは名実ともに通過儀礼であり、過渡儀礼に当てはまる。宗教的または社会的にも、ある状態から別な状態に移行する儀式には、過渡がつきものだということが本書ではよく主張されているのだが、それの比較的わかりやすい例として印象に残った。ここでの過渡は観念的なものも実際���なものも含まれている。過渡儀礼や過渡期は、いうなれば狭間の時空であり、その間の行動は制限されることが多いものの、非常に重要であるといえる。過渡儀礼は、婚約期間などの移行状態のタイミングにみられる儀礼であることは既に述べた。婚約の場合、次にみられるのは結婚式(統合儀礼)であるが、この社会的な統合により影響を受ける人々や集団の数は現代においても少なくない。婚約から結婚まで数年を費やし、その間も親族が関係する儀式を数多く執り行う部族が世界にいくつも存在することから考えても、その重要性は明らかである。儀式は単なる形式や習わしというだけではなく、学問的に説明がつくという点は、私にとってとても興味深いものであった。
この2つ以外にも、多くの事例を交えつつ述べられた儀礼とその分析は大いに私の知的好奇心をくすぐった。これらは全て100年以上前の資料とそれらの分析であるのにも関わらず、現代にもその名残が見られたり、あるいは考え方が通用していることに気づかされたからである。しかし現代の日本においては、時間や労力が要される伝統的な儀礼は「無駄」の一言で切り捨てられ、姿を消しつつある。それでも通過儀礼に重要性が表れる現代の事例を挙げるならば、解説でも引用されていたが、やはり「学校」だろう。学校の通過方法は、かつて、もしくは今もなお世界のどこかで行われているであろう通過儀礼のように、方法が1つに定まっているわけではない。しかし子どもが社会性を身につけ、社会に認められるためのスキルを少年期から青年期まで育てるためだけに存在する空間は、それ自体が現代の通過儀礼であるといえるのではないだろうか。最後に、儀礼は人間を人間たらしめる、本質的な構成要素の一つであるとする考え方もある。この考えに則って考えると、儀礼は文化と共に失われるものだが、時代と共に形を変えつつ、人間が生きてゆく限りこれからも残ってゆくだろうと推測できる。
投稿元:
レビューを見る
第1章 儀礼の分類
第2章 実質的通過
第3章 個人と集団
第4章 妊娠と出産
第5章 出生と幼年期
第6章 加入礼
第7章 婚約と結婚
第8章 葬式
第9章 その他の通過儀礼
第10章 結論
投稿元:
レビューを見る
通過儀礼の「過渡」を勉強したときは心が躍った。文化人類学にしては珍しく(文化人類学者から総批判されるが)希望の垣間見えるセオリーだったからである。通過儀礼とは、結婚や成人式など、社会的ステータスが儀礼を通して別の社会的ステータスへと変化していく過程である。その過程には、分離・過渡・再統合の三つの段階がある。その中でも過渡は、非常に不安定な領域で、秩序から外れ、あるときには穢れ、またあるときには聖なるものとして扱われる。こう説明すると全く持って意味が分からないが、この領域には社会的な秩序から外れているとされている人たちが該当する。LGBTQやいわゆる黒人、アジア人がその一種であろう。私が「希望のみえる」と最初に述べたのは、無秩序の中にいる彼らが団結し力を持つことは、大きな社会変革へとつながるとされているからである。たとえ少数でも、無秩序の力は秩序と比べて圧倒的に大きいものなのだ。いくら声をあげても社会などすぐには変わらない。しかし、無秩序の力を信じ、希望を持ち続けられるようなセオリーがここにはある。ぜひ今この時に読んでみてほしい。