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精神科に関わる支援者、必読の書。
統合失調症の方のご家族として、精神科医として、苦しかったご経験と回復への道のりをご紹介下さっています。
「症状には必ず意味がある」
丁寧に手当てされれば、人は回復する。
1人のソーシャルワーカーとして、丁寧に話をしていくことを大切にしていこうと、改めて心に誓いました。
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、母が統合失調症を病む母親を持つ女性の精神科医の、医療者として、患者の家族としての思いを真摯に語るもの。
著者の幼少期、そして青春期の過酷な人生、それを乗り越えてきた強さ、優しさ、自己を鍛え人生を深く知る過程の重さに、万感の敬愛を捧げます。
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もう少し、深いところまで描写されてもいいんでは、、、。子どもへの、親の精神疾患の告知は、子ども家庭福祉の課題であると思う。
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幼少時から本になるまでの長い道のりに、
圧倒され、一気に読んだ。
症状は「助けて」という叫び。
人生は人との出会いそのもの。
そして、改めてピアの力の偉大さを思った。
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家族が統合で、それが母親だったら・・・
子供が成長してれば、母を助けられるが、病気がわからないと、混乱するだろうな
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夏苅郁子先生の伝記、壮絶にこれまでの人生を、赤裸々に綴っている。夏苅先生にお会いしてお話を聞くことができた。すごい人生を歩んできて、今日この人が生きていることに深く感動する。僕もいろんなことがあるけど、その中で幸せを見つけ、生き続けようと誓う。
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文章が今ひとつだった。お医者さまだから当たり前かもしれないけれど。病気の意味付け、みたいな言葉が心に残ったなぁ。
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新聞で紹介されているのを見て気になって。
精神病者の身内が精神科医になっているというのは稀なことだと思います。その点に興味が集まるのだと思います。
しかし読んでみると、母が精神病だったから精神科医になったわけではないのだとわかります。むしろ母の姿を見て自分が不安定だったのでしょうね。最終的には決別したとしてもある一時期にどっぷりとある人に寄りかかったおかげで著者は救われたのではないかと思います。
著者もとても変わったと言われるようになったと書いています。
でもこの著者は、生来明るい人だったのではないでしょうか。
小さいうちから病気の母を見ていていろんなものを無意識のうちに
押さえられていたのではないでしょうか。
環境や来し方で人の性格は変わりますが、生来のものは変わらないのではないかと私は思います。本来のものが出せるようになったのだとしたら
とても良かったと思います。
お母さんが亡くなったから書けるのです。そしてわかったことが
あるのだと思います。
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精神科の医師が自らの半生を、統合失調症であった母との関係を中心につづったもの。身内に患者がいたからこそ分かる家族の気持ちや本人の心情などもあるという。
先日、著者の講演を聞く機会があったが、非常に特異な家庭環境、交友関係、生育歴で、正しいかどうかはともかく、本として出すだけの意味はあるように思った。ちなみに印税も精神医療のために使われているとのこと。
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・私が四歳の時に母は統合失調症を発症しましたが、当時誰からも病名や病気の説明をされないまま、家族に無関心で不在がちの父に代わって私が病気の母と向き合わねばならなくなりました。
私が十歳になると、幻聴や妄想に従って行動する母に「殺す」「死ね」と言われ、包丁でたびたび追われる生活になり、安心して眠ることもできない状況でした。
そんな生活も十年が過ぎ、21歳になった私は生きることに疲れ切っていました。その時に私を救ってくれたのは、仏陀の説いた「四苦八苦」という言葉。
四苦とは生・病・老・死で、八苦はこの四苦に愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)、怨憎会苦(憎しみを感じるものと出会う苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(色=肉体・物質、受=感覚・印象、想=知覚・想像、行=意志・記憶、識=認識・意識、の苦しみ)を加えたもので、簡単にいうと「生とは辛く苦しい世界なのだ」ということ。まさに、生きることに苦しんでいた私には、「この苦しみは仕方ない、当たり前の生きている証なのだ」と不条理な人生を割り切るのに役立つ教えでした。―中村ユキ
・自分が精神科医になって、たくさんの患者さんを診るようになり、さらに母のことを公表してからは、どんな病名であれ「症状には必ず意味がある」と考えるようになりました。周囲の人々にとっては「とるに足らない出来事」であっても、当人の心に傷を残したままでいると、それが後に精神の病の「種」になるように思います。
母の病気の種は、人間嫌いだった父親の影響下で育ったことと、不幸せな結婚生活だったと思います。大人になって、この意味に気づいた私は、母と同様に女性として、妻の立場として、母の悔しさや苦しみがわかるようになりました。すると、あれほど忌み嫌っていた母の病気や母の行動にも共感できるようになっていきました。
・結局、母は二回目の入院をしました。でも、この時は隊員しても家に立ち寄ることさえ許されず、そのまま離婚となって一方的に実家に戻されてしまいました。行き場のない母を見て「女も手に職をもたないと、母のように追い出されて惨めなことになる」と思いました。私は女性が男性と同等に認められる職業は何だろうと考え、医師になろうと決心しました。
それからは通っていた女子大を辞め、必死で勉強しました。サラリーマンの家計では、私立の医学部には通えないので、国立大学の医学部一校に絞って受験しようと、背水の陣でした。失敗した後のことは考えず、絶対に堕ちてはいけないと自分に言い聞かせながら、寝ている時間以外は食事中も勉強をしました。父は相変わらずほとんど家には帰らず、母もいなくなった家で一人ぼっちの中、冬の玄関の冷たい板の間に直に座って勉強しました。こうすると寒くて、足が痛くて、眠くならないからです。
私は自分の寂しさを勉強に向けたのかもしれません。「母親が病気だったから、医師になったのか」とよく聞かれますが、それはまったく違います。私は、母のようにはなりたくないという思いだけで、むしろ「自分のために」医師になったのです。
・私は、患者さんが「死にた��」と何度も言う気持ちがよくわかります。変な言い方に聞こえるかもしれませんが、「死にたい」と声に出すと気持ちが楽になるのです。もちろん、聞いている側は、たまったものではありませんが…。
このような心境に陥ると、決して死は恐怖では無く、「絶対的な休息」と思えてくるのです。実行を躊躇させるのは、生への執着ではなく、残していく人たちへの気がかりだけでした。
・人は人によって変わり得ると思います。「人は人を浴びて人になる」(草柳大蔵『午後八時のメッセージ99話』)という言葉は、決して“幸運な”出会いばかりではなく、それまでのさまざまな出会いの一つひとつが意味のあるものだと捉えようとする考え方だと思います。
このことが、以前の自分にはどうしてもわかりませんでした。
今、母のことも含めて、たくさんの人の光も影も浴びて「私は、私としてここにいるんだ!」と捉えることができるようになりました。そしてやっと「自信」が持てるようになりました。
・柏木先生(柏木哲夫)から教えていただいたことは、患者さんと同じ目線で物事を考える姿勢です。先生はよく駄洒落を言っておられたのですが、ある日私に「あなた作る人、私食べる人」という、当時流行っていたカレーライスのコマーシャルを言い換えて、こう言われました。
「『あなた死ぬ人、私生きる人』ではなくて、『あなた死ぬ人、私もいつか死ぬ人』という覚悟を持って患者さんの枕元に立ちなさい」―そう諭されたのです。
その頃、私は闘病末期の患者さんのベッドサイドに立つのがとても怖かったのです。回診中も柏木先生の陰に隠れるようにしていました。自分一人で患者さんと向き合った時、どう接すればよいのかまだわかっていませんでした。そして、先生のこの言葉を聞いて、私は自分の気持ちを先生に見透かされた気がしました。
・実はこの本を執筆するにあたって、結婚後21年目にして初めて、私は夫に聞いてみました。
「あの時の『怖い』という言葉は、統合失調症という『病気が怖い』という意味だったの?」
これまでの21年間の結婚生活では、母の病状が悪化して夫にも迷惑をかけたことがたくさんあったのですが、病気について夫がどのように考えているのか、一度も聞いたことはなかったのです。よく言えば「暗黙の了解」なのかもしれませんが、単に「聞くのが怖かった」ので避けて通ってきたのかもしれませんでした。
夫は私の質問に「お母さんの病気が怖いと言ったのではなく、自分も敏感で弱いところがあるから、支えていけるかなという意味で言ったんだよ」と答えました。
私はその説明を聞くまでの21年間、ずっと「夫は統合失調症のことを怖いと言ったんだ」と思い込んでいました。夫にそのことをきちんと確認しなかったのは「そう思われても当然だし、仕方がない」と考えていたからです。なぜなら、私自身が「統合失調症は怖い」と思っていたのです。実の娘である私でさえ、母のことを受け入れたくないと思っているのに、たとえ夫となる人であっても、他人が受け入れるはずがないと頭から思い込んでいました。
・次に、私は着物の着付けを習い始めました。お恥ずかしい話ですが、私は蝶々結びができるようになったのは大学生になって���らです。私の不器用は重傷で、運転免許の試験にも落ち、自転車にも乗れないので、三輪自転車で買い物に行っています。そんな私が、着物を自分で着られるようになったら「奇跡」だと思ったのです。まともな躾を受けないで育ったという劣等感が何歳になっても抜けていなかったことも、理由の一つでした。
私が偶然、門をたたいた着付け教室は80歳のおばあさんが教えていました。あまりに恒例のためか、生徒が次々と辞めていき、入門して一年経った頃には、とうとう生徒は私だけになりました。
先生と二人だけの、着物に囲まれて過ごした日はとても楽しかったです。
ある晴れた秋の日、色とりどりの絹の布に囲まれながら、先生の隣に座って半襟の縫い方を教わっていたら、隣に母がいるような感覚になりました。柔らかな秋の陽が部屋に差し込んで、穏やかな午後でした。私の心も穏やかになって「もうこれで十分」と思いました。