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もともと日本(名古屋)でも働いていたオーストリアのジャーナリストが書いた、東日本大震災後の日本・福島・原発の話。
震災直後に雨後の筍のごとく湧き出した(必要とされた)ガイジンも日本を誉めてるよ!な本ではない。
同情びいき込の「素晴らしい!」ではなく、偏見含みの「だからダメなんだ」でもなく、ちゃんと見て書いてる。
見て、聞いて、外国人の立場でダメなところもいいところもある日本を書いている。
福島県双葉町出身の奥さんの実家の「普通の田舎」を撮ってきた写真家が語る、失ってしまった「日常」
必死で明るくあろうとする陸前高田の人たちが行う祭。
霞が関で原発反対運動をする人たち。(それを報じないマスコミや黙殺する政府)
ずっと原発反対を主張してきたけれど止められなかった学者の小出弘明さん。
福島市でシュタイナー教育の幼稚園をひらいていたけれど、移転する決断をした女性。
南相馬市の政治、
病院にいられなくなった高齢被災者を訪問医療する医師、
子供のケアをしたい精神科医、
仮設住宅のひとたち…
見に行って、話をしてきた、なんとかしようとする人たちのことが描かれている。
村上春樹の対談は掲載許可が下りなかったとかで目次のみ。
日本が汚染食品をODAで海外に送っている、という話でぞっとした。
一行だけで詳細はわからない。でも、地震国のトルコに原発を輸出しようとする国ならやりかねないと思ってしまう。
それで「粛清」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4152092726を思い出した。
チェルノブイリの後に国産(エストニア産)の野菜がなくなって、ウクライナだかベラルーシだかの野菜が出回るようになった、安全な食品は中央(ロシア)に送られているらしい。というエピソードがあった。
あれは小説で、しかも噂ではあるけれど、それが信じられてしまう状況なのはきっと同じだ。
残念ながら私は正しかったと語る小出裕章さんは、やっぱりハイチの地震学者に(状況が)そっくりだ。
「ハイチ震災日記」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4894348225
文章は読みやすいけれど、言葉の選び方が古いのが少々気になる。
「汽車(せめて列車に…)」「自立(独立?)」「負債(住宅ローン)」「精神的衝撃の後遺症(PTSD?)」「精神医学者」「フィリッピン」など。
「捨てた」「確信した」みたいなのはその言葉であっているんだろうか。
もうちょっとやわらかい言葉のほうがいいんじゃないか。
と思ったら訳者はもうずっとオーストリー(「オーストリー」宣言も、うやむやな感じにやめちゃってなかったかな?)にいる人だそうで、今のニュアンスがわからないのは仕方ないかな。
伝えたいという気持ちが全面にでているので嫌な感じではない。