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●以下引用
子どもが喜びとともに出会う世界は、不安や怖れに彩られていません。その理由はおそらく、その世界が子どもを無条件に支えている他者に彩られているからだと思います。
私にとっての臨床哲学は、人が生きることを他者と共に生きること、他者に支えられ他者を支えつつ生きることである
関係性が、人の「固有性(かけがえのなさ)」という感覚を生みだし、よりよい世界に向かう「気高さ」につらなっている
どんな職業人にも、半人前の期間はある。『慣れた人にやってごしい、という話になる』ということは、畢竟、未熟なうちは、他の人の所でやってほしい、という話になる」という。もしも患者全員がそう言いだしたら、一人前の看護師は一人も育たなくなってしまうだろう。宮古は、人を育てるという営みは「気前よさ」を必要としている、と述べている
宮古のいう「気前よさ」は、自分にとって利益のないことにはかかわらないという、現代の個人主義的な有用性指向の対極にあるような、他者に開かれた考え方である。
有用性指向の広がりとともに「気前よさ」が失われることは、無条件の贈与(「純粋贈与」)、そしてそれに対する感謝という応答が失われることを意味している。
寛容性は、上から目線の受け入れではない。それは、相手の誤りをなかったことにするような、無条件に善意の、しばしば意識・意図されていないほど自然な、他者の受け入れである
気前よさ・寛容性の希薄化は、無条件の愛、自然な相互扶助という、人が生きる上で必要不可欠な倫理性を看過することにつながるだろう
位置関係としての「関係」と違い、だれかの存在をかけがのない「一命」と感じる人とのつながりは、相手の境遇、とりわけ相手の苦境に強く共鳴共振する「つながり」すなわち先述の関係性である
自他の共鳴共振として現れる他者との関係性は、自他を編みこんでいる「存在全体」である。したがって、共振共鳴をともないつつ顕わになる他者との関係性は、相手の苦境に「かわいそうに」と同情することなどではない。
共鳴共振は、苦境にある相手とともに在ること、一緒に前を向くこと、ともによりよい未来に向かうことである
関係性をすべて、人間関係や社会関係などの、目的合理性に方向付けられた機能的な位置関係に縮減し、本来の関係性を看過するときに、たとえば「失敗を許さない」という雰囲気、だれもが「空気を読む」ために神経をすり減らすという状態が蔓延していくのだろう。そこには、全力で自分をアピールし、つねに神経を張りつめさせ、だれにも隙を見せず、他人の失敗を見逃さず、自分の達成感のみを追い求めるという、寂しい個人が群れ集う
私は今の自分を過去の自分と比べて評価するようにしている。異なった人間である他者と自分とを比べることは愚かなことだと思う
臨床という人びとの「苦しみの場所」
人と人との関係を、一般的なコミュニケーションが前提にしているような交換の関係(提供/受容の関係)として理解するのではなく、歓待の関係(純粋な贈与/享受の関係)、無条件の相互行��として理解すること
いのちへの倫理的態度(鷲田)
→「いのち」の実相を「見とどける」という態度。
「いのち」の実相は「家事」が「サーヴィス業」として外部化されることで隠されていった
「いのち」はコトであるといえるだろう。それも、私と他者のあいだに広がるコトであると。このコトは、「いのち」が失われるときにことを考えれば、わかりやすい。
(鷲田)「‹いのち›のもっとも基礎的な場面」とは、たとえば「脇の下やあごの下を洗われ、こぼした乳やもらした便を始末してもらった経験」である。鷲田はそれを「存在の世話」と呼んでいる。
「自尊心」は「人に大事に思われること、されること」によって生まれる。
鷲田にとって、「いのち」の実相を「見とどける」という態度は、「いのち」を、「単体の人の中」(個人主体のなか)に見いだすという態度ではなく、「人々の間」に見いだすという態度
「いのち」の固有性(かけがえのなさ)を可能にしているつながりを「関係性」という言葉で、とらえなおしてみよう。ここでいう関係性は、鷲田の言葉を用いれば、「動性」と一体であるような、ある特定の他の人との無条件かつ肯定的な情感的かかわり
関係性を生成する相互作用は、たとえば、親が子に対して無条件にめんどうをみることであり、
子育てにみられるような、関係性を生成する相互行為は、純粋な贈与/享受という、歓待の関係を前提にしていると考えるべきだろう。純粋な贈与とは、相手に見返りを求めない贈与であり、純粋な享受も、相手からお返しを迫られない享受である
手段ではなく、目的としての贈与/享受
関係性は、眼に見えるもの、実体としてあるもの、つまりモノ(実体・客体)ではない。
子どもにこうした試練に耐える強さを与えるものが、無条件の愛情である
弟子が師に対して抱く「驚異の感覚」
大きなネットワークの中野一つの結節点であるという感覚→私の言葉でいいかえれば、それは隣人に共感共振するセンスの形成である。
ノディングズにとっては、人間形成の存立条件は「共同体」があるということ、人が「共同体」のなかで生まれ育つということである。
「共同体」は、既存の帰属というニーズ、つまるところ相互に扶助し合う関係というニーズを充たすような「共同体」、いわば理想的な家庭のような「共同体」である
生の様態としての協同性は、自己を他者へと拡げるとともに、世界・自然へと拡げる営み
利益主導的で機能的である「協働・協力」は、無条件で愛他的である「協同」からは区別される。「支え合う」「学び合う」といった言葉で形容される相互活動
愛他的応答の主体は、ハイデガーの言葉でいえば、「責めをにおう存在」
「ふれる」という言葉は日常的に用いられるが、坂部にとって「ふれる」ということは「もっとも根源的な経験」であり、「自ー他、内ー外、能動ー受動」といった区別を越えた、いわば「いのちといのちの相互浸透の場」である
一つのいのちにふれているということは、……もはや自他の区別、内外の区別を超越した経験で���る。あるいはすこし角度をかえていえば、能動ー受動の別を超越した経験である
教育臨床学の第二の命題
-人の根源的様態は共鳴共振である
鷲田は、人は他者に共鳴し他者とともに在ることで、いわば自己創出する存在であるという。操ることではなく、受け止めること、そして他者とともに変わることが、鷲田が重視する人間の本態
鷲田にとって、人が「音響的存在」であることを端的に示す概念「営み」が、「歓待」、「応答」(責任ではなく)、「聴くこと」「待つこと」である
素朴なコミュニケーションー共有の世界を広げようとする思いが相互にあること
無条件に相手の知りたいことを教えたり、自分の知らないことを教えてもらい、両者の共有知をふやそうとすること
教師は何かを知りたくて子どもに聞いているのではない、試している。
試すことにおいては、能力、すなわち‹できる/できない›を問われている
「聴くこと」は「待つこと」であるというのは、この、他者がみずから閉じ込めている心の響きを「聴くこと」であり、その響きが外に現れることを「待つこと」
音響的存在。メルロ・ポンティにとって、人という存在は、一つの自・他の言葉が響きあう空間、環境から入力されるさまざまな音・声が響きあう場所である。
子育て/教育は、予期を越えて待つこと
共依存している人は、相手の要求に献身しなければ、自己肯定できない
ノエシス的自己は、私なりの言い方をすれば、他者・世界との共鳴共振を本態とする自己
「私」のノエシス的自己は、他者のノエシス的自己とつながっている。ノエシス的自己は、他者との、自然との、ほかの生命と共に生きている共存在としての「私」、たえず共鳴共振的である「私」
★木村はさらに、‹私›のノエシス的自己と他者のノエシス的自己とのつながりとしての「あいだ」を、彼が「生命」と呼ぶ全体性に結びつけている
言葉は「共存在」のなかでこそ生きる
存在信頼とは「特定の存在物への信頼、特定の存在者げの信頼…の背後にある、そうした個別的信頼を可能にする、世界と生との信頼」
他者を他人として無難にやり過ごす傾向にある。
★殉教者は、世俗的な損得勘定よりも、真理を大切にする
勝ち目はほぼない。しかしそれは死ぬことが確実だといういみではない。自分の行う究極の行為が、傍観者によって理解されないだろうという意味で、その行為に勝ち目がないのだ
生きがい論は盛んだが、死にがいを喪失している
即席の満足、その場限りの人気-この社会に広がる有用性志向
エンパワーとは、制度や構造に従属しつつ、問題解決能力を強化するということではなく、制度や構造を超えて、自分で選択ができるようになること、自分の行った選択にもとづいて実際に行為できるようになること