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この1冊で内田先生の11冊の著作の内容について知る事が出来るという、お得感大!
つまり全方向的に一気に賢くなれる、というか学べるのだ。
巻末の著作一覧が、私のようなタツラーには未読本を確認するのに重宝する。
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p44他者とは「時間差を伴った私」である
p88教育機会の二極化の末路
p92レヴィナスを読むときの態度
p175理解も共感も絶した「他者」を歓待する
p176、178誰も踏み出さない時に名乗り出る
p186驚くことができる人は驚かない
p195「うなずく」ことが知性を駆動する
p201真のグローバル的知性とは
p233「主権国家の国民である」という意識
p251大きな義理と小さな義理
p266「生身の人間」が生きていくために必要なもの
p280自分が「何を知らないか」を知ること
p292フラット化は止められない
→経済活動は人間の社会的成熟装置
p296あとがき
→パーソナルな知見をパブリックドメインに載せて提示できる人、そのために自分の感覚や判断に染み込んでいる民族誌的偏見を冷静に吟味して「控除」できる人は、真の「国際人」
→何かを守ろうとしており、後継世代に繋ぎたいと願う人たちの独特な世界観に対しては、控えめな敬意と好奇心をもつ。そういうやや遠慮がちな構えを、本来は「国際的」というと思う。
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やっぱり内田樹さんの本は面白い。
文書に勢いがあるし、難解な内容や言葉があっても
その勢い、思いがあるので分かる気がする。
『先生はえらい』『下流志向』にての教育論はキレッキレですごく面白い。
『レヴィナス序説』『困難な自由』『レヴィナスと愛の現象学』は哲学的
な見地と趣があり、『街場のアメリカ論』『街場の中国論』については
社会学に対する反乱的な思考がとても面白いし的を得ているのでは
と思う。
全体的に大きく共感できる内容であるし、著者の具体的な内容と
抽象的な論理との振れ幅とその行ったり来たりする頻度と適用の妙に
ゆだねる感がとても心地いい感じです。
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レヴィナスについての件に、触れたら火傷するかのような熱意を感じた。
第一章の共同体の論は目から鱗が落ちた。
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内田先生の「内田性」のようなものがぎっしりと詰まっていました。一ファンとしては大変満足。
自著の解説書という体裁ではありますが、決して単純に自分の本をなぞるようなことはしていない。
本そのものではなくて、その本を取り囲む空気だったり、照らしている光だったり、あるいは、その光が創り出す影の部分だったりと、そういった周辺外縁的参考情報がたっぷりと書き起こされていました。
印象的だったのは、社会科学系の学者(作家)とソリがあわないというくだり。
あの人たち(決して実名は挙げない)は既存のモデル・学究的鋳型に生の現象を無理やり流し込み、あたかも「こうなることは分かっていた」と言わんばかりの評言を繰り返すことが多い、と。それがちょっと違うのでは、と。
内田先生の著作は複数冊読んできていますが、内奥的主義が一貫している。そうなることは薄々“わかっている”のに読んでしまう。そのコアの部分に魅了される。それを毎回味わえる。だからこれからもきっと読むのだろうな。
※その他、雑記
・コミュニケーションの基本は「相手の話がわからない」
・武道の修練は、どうすればいいのかわからないときにどうすればいいかわかるようになること
・身体が思考に先行する
・抑圧の客体はじぶんであり主体も自分である
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内田センセイによる自身の著書の解説という珍しい本。何度も読んだ本たちだがあらためてその言わんとするところを理解することが出来てうれしい。レヴィナスはなかでも難解なのだけれど、いつかわかる時が来るだろうと思う。そう信じられる。
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内田さんの著書を読んでいて、残り頁数が少なくなると、この知的興奮の時間もあと僅かと分かり、寂しくなります。
なぜ、内田作品を読むと、こんなにも知的に興奮するのか。それは著者自身も「あとがき」に書いている通り、「まだ誰も言葉にしていないことを選択的に書きたい」という姿勢で書いているからだと思います。
内田さんは政治であれ、経済であれ、社会問題であれ、教育問題であれ、世間に流布している「よくある話」は書きません。少なくとも新聞の社説のような、毒にも薬にもならないような論説を絶対に書かない。それでいて胸にストンと落ちるのですね(反発する方もいると思いますし、実際にいるそうです)。ただ、新奇な説を書いているわけではありません。情理を尽くして書いていて、説得力があるのです。生意気ですが、すごい芸当だと感服します。
ちなみに内田さんは「読者800万人の新聞に寄稿するときも、せいぜい数百、数千人の読者を想定して書いている。『そうそう』と膝を打ちながら読んでくれる読者というのは、それくらいしかいないと思っているからです。800万人が読んでくれて、誰からも文句が出ないようなものは、悪いけれど、読んだ瞬間に忘れられてしまうようなものです」(P17)と書いています。私はその「数百、数千人の読者」の一人です。
本書は内田さんによる自著解説本です。内田ファンの私は、ここに取り上げられている11冊のうち7冊まで読了しています(4冊も取りこぼしがあることに少し驚きました)。
本書のどこに、私は「膝を打」ったか。いずれも少々長いですが、以下に引用します。いずれも「そうそう」と頷きながら読んだ個所です。
まず、「ためらいの倫理学 戦争・性・物語」の章から。ここで内田さんは「仮想敵」である上野千鶴子、高橋哲哉を挙げ、彼らの言説の「正しさ」に対する強い違和感を表明しています。
「出来合いの型にはまって、出来合いの定型句を繰り返し、出来合いのロジックを機械的にあてはめて、現実を斬り捌いてゆく。それは本人にしてみたら、知的負荷も少ないし、爽快感や全能感をもたらす気分のいい経験かもしれません。でも、僕は直感的に『そういうのはよくないぜ』と思っていました」(P24)
私も「そういうのはよくないぜ」と思っています。フェミニストの総領たる上野も、ポストモダニストで「靖国問題」で一躍脚光を浴びた哲学者、高橋も形無しです。
「自分の中に、そういうわけのわからない他人をたくさん抱え込んでいる人にとって、まわりにいる『わけのわからない他人』はだんだん自分の親類のように思えてくる。そういうメカニズムだと思うんです。自分を絞り込まない、決めつけない人間ほど人間は他社に対して寛容になり、親身になる。自分の中に弱さや卑しさや愚かさを認められる人間ほど、他者の弱さや卑しさや愚かさに対して寛容になれる。逆に、自分の中の弱さや卑しさや愚かさを認めない人間は、他者に対して非寛容になります。目標を高く掲げて、自己陶冶に励むこと自体は悪いことではありません。でも、その結果、自分ほど努力していない他人に対しては非寛容になり、意地悪くなるなら、そんな努力はしない方がましだと僕は思��ます」(P44)
肝に銘じます。
続いて、教育問題を扱った「先生はえらい」から。
「メディア・リテラシーという言葉があります。この言葉を『メディアで報道されているコンテンツの当否や真偽を判定できるだけの知識を持っていること』というふうに理解している人がいますけれど、それは間違いだと僕は思います。だって、メディアで流通している情報のほとんどについて、僕たちは非専門家なわけですから、その当否や真偽を判定できるはずがない。でも、メディア・リテラシーとは自分がその当否や真偽を知らないことについて、その当否や真偽を判定できる能力でないと意味がない。あたり前ですね。自分がぜんぜんそれについて専門知識を持っていないことについて、誰かが何かを断定的に語っているときに、『ふむ、この人の話は信用してよい』と判定したり、『あ、こいつの話は信用できない』と判定することのできる能力がメディア・リテラシーです。知識ではありません。自分がそれについて知識を持っていないことについて当否や真偽を判定できる能力です。次数が一つ高い能力なんです」(P73~74)
なるほど、納得です。
「今の日本の若者たちを指して、『内向き』であるとか、『覇気がない』とか『ハングリーでない』とか非難する人がたくさんいますけれども、これはずいぶんとんちんかんな評言だと僕は思っています。当今の若者たちはたしかに欲望が希薄です。自動車もバイクも欲しがらないし、ブランド品の服も欲しがらないし、高級なフレンチで高額のワインを飲むことも求めないし、外国のリゾートで豪遊することも願わない。でも、それは自分の欲望のありかを他人に知られると、そこをつかまれて他人に操作されることになるということに気づいているからです。彼らは自由でいたいのです。だから、金も地位も威信も要らないと公言する。日本の子どもたちが無気力になったのは、端的に言えば、子どもたちを『金で釣ろうとした』からです。僕はそう思っています」(P78)
僕もそう思っています。たとえば、子どもに「なぜ、勉強するの?」と訊かれた時、「いい大学へ行って、いいところに就職するため」と答えていないでしょうか。これは有り体に言えば、「いっぱいお金を儲けるため」と言っているのに等しいと思います。それはそれで価値のあることかもしれませんが、学問とはそういうものではないでしょう。人間として成熟するために勉強をするのだと、私は思うのです。青いですか?
と、ここまで書いて、時間が来てしまいました。朝のジョギングをして会社へ行かねばなりません。後日、書き足そうと思います。中途半端でスミマセン。
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内田樹さんの本は、まえがきの予防線的導入が結構好きなのだけども、今回もそんな感じだった。インタビュー記事などはほとんど書きなおしてしまうという。自分の言うことをパクられてもいいが、言ってないことを自分の名で出されてはかなわない。いままでやってきた自分を崩すなら、一生めんどうみろ、と。ムムム…。
この本の出版を知った時には、ちょっと本出しすぎじゃないかなあ、なんて心配したけれど、本出しすぎたからこそ、説明しとくのだ、と。そういう講義をもとに出すはずの本だったのに、結局書き直したので時間がかかってしまったのだと。何が書いてあるかも大事だけど、どんな書き口かが、やっぱり大事なのだと。そんな前置きになるほどねえ〜となりました。
あ、中身? 登場する本は半分ぐらいしか読んでいませんが、大丈夫でした。アンチグローバリズムの部分はいつものことではあるけれど、溜飲が下がる。
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内田センセと(本を介して)会話してきた人も
まだ これから
内田センセと(本を介して)会話しようとする人も
これは 内田樹センセの入門書のように
なっていくかもしれませんね
それにしても
140Bの編集者さんは面白いことを
思いつきましたねぇ
みごとに その術中にはまってしまいました
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内田樹さんが、自著をについて語っている本。
著者も言うている通り、ブックリストというよりは、ほんの一部の著作を選んで言いたいことを言っているような印象でした。
自分の知識量の問題で、おもしろく読めたところは読めたのですが、むずかしくてさっぱり、という部分もあり、でした。
それにしても内田さんの人間観は相当深い。共感できる。
あと、レヴィナスに対する絶大なる愛が伝わってきました。
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「過去の自分レビュー」
内田さんのこれまでの著作を、
自分で振り返っているのが主な内容。
もちろん、今の内田さんだからこそ、という視点はあり
過去と現在の内田さんの対話、という形でみると
とても興味深い内容だけど、
ブログのまとめや過去の著作の解説などが、
最近多くないかな、内田さん(というか出版社)。
内田さんなら売れるってわかるけど、
少し出版の速度を落として、
がっぷりと取り組んだ内田さんの思考の
結晶をそろそろ見てみたいです!
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教育については「どうしてこんなに社会の変化に対応するのが遅いのだ」という批判が必ずなされる。でもご指摘の通りなのです。教育は急激に変化しないように設計された制度なんですから、変化が遅いのは当たり前なんです。(P.270)
メディアはその本性上、「社会が変化するときに発生する情報需要」を飯の種にしています。「今日は昨日と同じで、大したことは何もありませんでした」というのは僕たち生活者からすればありがたいことなのですが、それではメディアは生きていけません。メディアは「何か大変なことが起きているらしいのだが、何が起きているかよくわからない」という情報の欠如状態でご飯を食べています。だから、あらゆるところで劇的な変化が起きることをつねに待ち望んでいる。思うように変化が起きない場合には、自分で手を突っ込んで変化を起こさせさえする。ですから、メディアは本性的に「機動性の高いもの」を愛します。速く動くもの、短時間のうちにかたちを変えるもの、変転きわまりないもの、それがメディアはにとって「価値のあるもの」です。(P.289)
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内田氏の本、読むたびに「なるほどなあ」と思う。
読めない漢字が時々でてきて、電子辞書で調べる時もありますが、読むと「頭に効いている~」という感じがします。
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内田樹さんが、ご自身の本ついて語っている本。序文からたいそう面白く。多分その面白さは知的好奇心が刺激されるからなんだろうけれど。 他者とは「時間差を伴った私」である、等。今回も唸ったり、むべなるかなを呟くことが度々。レヴィナスは一度匙を投げたけど、読んでみたくなった。
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内田先生の著書を読んだ上で、この本を読んでみると、より内田先生の主張が明確にみえてきました。さすが「内田樹による内田樹」だけあります(笑)『先生はえらい』は個人的にとても励まされました!