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ユダヤ人の社会と信仰が垣間見える、イディッシュ語作家の短編集。ユダヤ人独特の宗教観が反映されていて、日本人からすると新しく感じられる。あるユダヤ人靴職人一族を描いた「ちびの靴屋」と望まぬまま屠殺人となった男が狂気に落ちていく様を描いた「屠殺人」が良かった。
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1978年ノーベル文学賞作家の傑作選。素晴らしい。イディッシュが理解できたらなあ!と思うくらい。ユダヤのマジックリアリズムというかマジック!幻想的で、でも普通でその辺によくある話のようで、官能的。「ゴライの悪魔」が読んでみたいです。
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この本はもともとイディッシュ語というほぼ死活したユダヤの言葉で書いてあるらしい。言葉はその人の思想、宗教、民話、家族を司るもの、つまりアイデンティティであるということ。そのアイデンティティが物理的に失われるとは、どういうことだろうか。この本に出てくるユダヤの悪魔がこんなことをいう。「もしユダヤの文字がこの世から消えたら、そのときはユダヤの悪魔もこの世からおさらばだ…」
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アイザック・バシェヴィス・シンガーはポーランド生まれのユダヤ系アメリカ人である。イディッシュ作家として知られている。イディッシュ(語)というのはドイツ系のユダヤ人に話される言葉で、ユダヤドイツ語とも呼ばれる。文字は伝統的にはヘブライ文字を使用するが、近年はラテン文字表記もされるようになっている。
この言語を話す人々は、ナチスのホロコーストによって激減した。
シンガーは、1935年、兄の後を追って渡米、43年にアメリカに帰化しているが、一貫してイディッシュ語で物語を綴り続けた。1978年、イディッシュ作家としては初めてノーベル文学賞を受賞している。
本書はシンガーの16編の短編を収める。
ポーランドの小さな街に住むユダヤの人々の暮らしを描くものが主だ。
その日々はトーラーと呼ばれる律法に支配され、人々は目に見えぬ神の怒りを畏れつつ、「正しく」つましい暮らしを送る。礼拝ばかりではなく、髪型、服装、婚姻、口にする食物の正しい処理、と、暮らしのさまざまな局面で律法が顔を出す。故郷を持たない民族である人々のすがる寄る辺がそれなのか、と感じさせる。
とはいえ、人々はしゃちほこばって息を潜めて暮らしているだけではなく、やはり押さえても押さえても突き上がってくる欲望も反発もあるわけである。
不道徳に身を染めるものもいれば、故郷の小さな暮らしを捨てて新天地に望むものもいる。
イディッシュが醸すものなのか、ポーランドの森に潜むものなのか、その衝動はどこか、「魔」とつながっている。この線の上を歩め、外れたら闇に落ちる、と言われても、線から外れざるを得ないことはあるのだ、おそらく。望むと望まざるとにかかわらず。
表題作や表紙が想起させるのは、どろりとした血の生暖かさである。
ユダヤの戒律では、食肉は認定された屠殺人により、「正しく」処理されなければならない。
生きるために肉を食う。しかし、肉の処理には必ず、血が流れる。その血を如何に「清浄」に近い状態で流すかが屠殺人の腕である。教義に則って処理されれば、生きるための「正しい」肉、そうでなければ惨殺された「不浄な」肉となる。
表題作の最初の一文がすごい。
血への情熱と肉欲が同じ根っこをもっているということは、カバラー(*)学者なら誰でも知っている。だから殺してはならないのすぐ後ろに姦淫してはならないが来るのである
*引用者注:ユダヤ神秘主義
表題作は、姦通と、さらに深い背徳を絡めている。魔の咆哮のように、原初的な高まりを誘う1作であり、なるほど、表題作とするにふさわしいエネルギッシュな名作であるかもしれない。しかし、これがイディッシュ文学としての特性なのか、著者個人の特性なのかは疑問が残る。敬虔なユダヤ教徒には受け入れがたいとされているようであるし、ドラマチック過ぎていささか戯画的にも思える。
表題作以外にも「血」や「魔」がたっぷりな作品が何作かあるが、著者自身は菜食主義者だというのもなかなか興味深いところである。
本書中で個人的におもしろかったのは、「ちびの靴屋」、「ギンプルのてんねん」、「黒い結婚」の3作。
「黒い結婚」は父を失い、心ならずもある男に嫁ぐことになった娘の物語。傍から見れば狂女だろうが、哀れな境遇に胸が痛む。
「ギンプルのてんねん」は、みんなから「バカ(=てんねん)だ、バカだ」と言われている男の話。女房にも虚仮にされ、浮気もされているのだが、ギンプルはまったく意に介さない。女房を愛し、子供をかわいがり、せっせと働く気のいい男。ちょっと待て、この男がバカなのか? 周囲がバカなのか?
「ちびの靴屋」は、田舎町の靴屋のなかなか壮大な年代記である。代々続く靴屋を継ぎ、真面目につましく働いてきた男。男は7人もの息子を授かる。このまま誰かが跡を継ぎ、教義を守って末永く暮らしていくはずであったが、長男がアメリカに渡ると言い出した。それを機に息子達は次々と親元を離れ・・・。一度は失意のうちに一生を終えるかと思った靴屋は、最後に平穏を手に入れる。靴屋が逃避行のうちに見る聖書物語の場面、父と息子達が歌う歌に胸を打たれる。
3作に共通するのは、こちら側から見る物語と向こう側から見る物語がまったく違って見えることかもしれない。シンガー自身、ユダヤ教徒という背景を抱えつつ、アメリカという新世界を見ているわけで、多層的な視点は作者自身の境遇と無縁ではないだろう。
シンガーは、当初、イディッシュ語のみで創作をしていた。これが世間に知られるためには、やはり英訳される必要がある。初めは別の訳者が全面的に訳していたが、そのうち、英語が上達してくるにつれ、シンガー自身も英訳に参加することになる。英訳に際して、付け加えられる部分、改変される部分もあり、訳者との共作のような形となるものもあった。一般的には、英訳されたものが最終形とされるが、この邦訳は、英訳を参照しつつ、原則としてイディッシュ語オリジナルにこだわっているという。このあたりの事情を解説する、巻末の訳者解題も非常におもしろい。
噛みしめるとじゅわりと味わいが広がる短編集である。
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他の方も書いておられるが「牛乳屋ティヴィエ」っぽい雰囲気。ナタリーポートマンとかに演説されたりすると辟易するが、こういう人種とか文化問題は自分の興味が傾いてる時に物語として取り入れるのが、よい歩み寄りの気がする。イデッシュ言語直訳とのことで、自然でいて濃密に彼らの生き方が摂取できる。悪魔の話とか一見惹かれるが、やはり奥深い家族、一族の思いが表現された「ちびの靴屋」が美しい話でとてもひきこまれた。