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聖徳太子となると必ずや引用される「上宮聖徳法王帝説」が原文と訓読に丁寧な注記付きで、この値段で読めることに感謝です
2019/08/19 16:42
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投稿者:多摩のおじさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
今年1月に亡くなられた梅原 猛氏の「隠された十字架 法隆寺論」や、関 裕二氏の今から20年以上も前から想像力溢れる自由闊達な今まで
とは異なった古代史論に魅了され、すっかり古代史に嵌ってしまいましたが、特に、聖徳太子となると必ずや引用される「上宮聖徳法王帝説」が
原文と訓読に丁寧な注記付きで、この値段で読めることにまず感謝したいですね。
本書は、家永三郎氏の分段(構成配列)を基本に矢嶋泉氏説との違いを明記しての原文配列に成立年代の検討を加え、それにに訓読(記号付き
で対比可能)に、単に人名、語句に限らず関連内容までもが追加された注記が配され、また既出箇所の案内もあり、その丁寧さが魅力的です。
巻末の系図も理解する上で助かりました。
特に、7月初旬に初めて訪れた「飛鳥寺(元興寺)」や、数十年ぶりに訪れた法隆寺で見た「天寿国繍帳」の銘文、「釈迦三尊像光背銘」の記述を
本書で目の当たりにできたことは感慨深いものがあり、益々興味をそそられました。
また、本書の底本が江戸時代までは法隆寺の所蔵だったものが知恩院の所蔵となった知恩院本の古写本以外には知られていないことも驚かされ
ました。
なお、注記の一部(p.17以降)に、その前後からおそらく「・・・とする。」と思われる日常あまり目にしない「・・・に作る。」の記述は、歴史学者たる言い
回しなのでしょうか・・・
また、古代史の場合には、本書に限らず既出箇所の引用や繰り返しが多くなる傾向があるため、索引と関連年表が付いていると更に良かったですね。
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上宮王について著された最古の伝記。
原本は存在せず知恩院にある一番古い写本が国宝に指定されているという。本書は6部によりなり、解説の東野治之は言い回しの古さと律令制単語の浸透具合から、一番古い部分(AとB)の成立を8世紀初に比定している。またその内容や言葉使いによりその元史料は記紀以前に遡るという。
6部とは以下の通り。
A.系譜
B.事績
C.本書の根拠とした古史料
D.事績と関係情報の追補
E.関係五天皇と追加情報
F.裏書
各部を文節に分け、書き下した上で、東野氏の注釈が付くという構成をとる。
氏の説では、AとE、BとDが対比されているという。
本書自体は大変短いのであっという間に読めてしまい、むしろ注釈や解説の方が読むのに力が入る。(笑)
また、本文であるABがあまりにあっさりしているため、むしろCにある法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘や天寿国繍帳銘が興味深い。(笑)
面白かったエピソードとしては上宮王の最期の話である。上宮王が死の床についた際、妻の一人である膳大刀自は厚い看病を行ったが、とうとう自分も倒れてしまい枕を並べて寝込むことになった。膳大刀自が「水くれ!」と言ったのを隣の上宮王が「だめ!」と言ったら膳大刀自は亡くなってしまった。上宮王は、どうせ生き延びれないのならあの時、水を与えれば良かったという歌を残し、次の日に亡くなった、という話。
上宮王には3人の妻と14人の子がいたとしているが、後日談としてDにその上宮王家滅亡と、上宮王家を滅ぼした林太郎とその父・豊浦大臣が乙巳の年に滅ぼされた話をさらりと記載する。
次の最も有名な逸話はまさに伝説の偉人にふさわしい。「穴太部間人王(あなほべのはしひとのみこ)、厩の戸より出でし時、忽ちに上宮王を産み坐(ま)す。王命(みこのみこと)、幼少にして聡敏、智有り。長大の時に至り、一時に八人の白言を聞きて、其の理を弁ず。又一を聞きて八を智(さと)る。故に号して厩戸豊聡八耳命(うまやとのとよとやつみみのみこと)と曰(い)う。」
以下余談。
高校日本史ではわが国仏教公式伝来年2説のうち、西暦538年相当を記載する『上宮聖徳法王帝説』という書名は暗記必須タームになっていましたが(笑)、当時「帝説」って変な言い回しだなあと思っていたのですが、解説の東野氏によれば正しくは「帝記」で、書写の過程で「帝説」になってしまったのだとしていて、やっぱりそういうことなんだなあ。(笑)
最近はあまりお見かけしなくなって久しいですが、自分が子供の頃は「一万円札のおっさん」(五千円札のおっさんでもありましたが)として、その事跡とともに超有名なそれこそありがた~い存在でしたが(笑)、今の青少年世代の方にとって上宮王=厩戸王=聖徳太子の存在ってどこまで有名なんでしょうね?自分も一時期は『ギャグマンガ日和』の影響でその御名を聞いただけでぷっ!と噴き出していた失礼なこともありましたが(笑)、聖徳太子研究が進んで「伝説の偉人」とは別に実体像が明らかになるにつれて、「聖徳太子」という名前やあの肖像画が教科書から消えているという話を聞くと、寂しいなあとい���思いもあります。また、お札で復活しないですかね。(笑)
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「上宮聖徳法王帝説」はよく引用されるが、初めて読む。
岩波文庫の『上宮聖徳法王帝説』(花山信勝・家永三郎校注、1941年)は手に入らないので、新たに東野治之校注で読めるようになったのはうれしい。戦後の木簡を読み込んだ知識で史料を読み直しすることが必要との指摘は重要だ。
本書の構成は、以下からなる。
1.常用漢字を原則とし、現代仮名遣いの漢文訓読体の訓読と注
2.原文
3.付載『上宮聖徳法王帝説』引用銘文
4.解説
訓読と原文は、アルファベット記号と見出しにより分段されている。これは、先行研究である家永三郎『上宮聖徳法王帝説の研究 増訂版』(三省堂、1970年)の分段にしたがい、一部変更を加えることで、著者の主張が明らかになる効果がある。解説を読むときに重要な役割を果たす。ちょっとややこしい感もあるが、「上宮聖徳法王帝説」の成り立ちに関係している。
「上宮聖徳法王帝説」は本文と裏書からなり、用字から、作成時期が異なると考えられている。本来、裏書は本文の詳細な説明のため紙面の裏に書くものであるが、巻子として写本が伝来する過程で一体となったため、順番に異動が生じたと考え、これを本来の構成に戻すことで、作成時期を特定しようとした。
著者の結論は本文の一部は8世紀初頭に遡るとしている。詳しくは解説を読んでもらうことにして、本書の意義を考える。
伝説と化した聖徳太子の実像に迫るために、テキスト批判した史料による必要があり、「上宮聖徳法王帝説」は第一級の史料価値があることを示している。
なお、44頁の「代は束代(そくしろ)とも言い、町(ちょう)に先立つ地積単位で、元来は稲一束を収穫できる土地を意味したが、後には高麗尺の方六尺が一歩、五歩が一代となった。町に直せば一万町。」の「町に直せば一万町」は意味がよく分からない。ふつう五百代が一町とすれば、五十万代は千町の誤りか。日本書紀では施入面積は百町としている。
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1941年刊行。
聖徳太子の最古の伝記「上宮聖徳法王帝説」。その本書の構成は解題と原文、そして書き下し文。◇校訳担当が花山信勝と家永三郎となっており、改版前の版を読破したのかもしれない。とはいえ、ザッピングしたのみ。
家永氏の「上宮聖徳法王帝説」解説を読んでから再挑戦した方が理解が進むかも。
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聖徳太子の伝記としては平安時代に作られたので最古に近く資料として使われる事が多いとされている。
頁数は少ないが保管するかのように解説が多い。家永氏の研究が基礎らしい。