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奈良時代に日本中に張り巡らされていた、朝廷の権威を示すための非実用的な幅広の直線街道。道自体は見えなくなっていても、今でも痕跡が方々に残っていることを知った。
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1300年前も現代も、目的(中央からの高速道路の設置)が同じならルートもICの場所まで同じになるということに納得した。
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奈良時代に、真っ直ぐで、幅広の道路である「駅路」が整備された、その痕跡は今も辿ることができる、というのてす。知的好奇心をかきたてられる好著(^_^)
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「教養」カテゴリに入れましたが,土木工学者としてはむしろ専門と位置づけるべきかも知れません.この本はメチャメチャ面白いです.
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奈良時代以前に造られた古代道路について書かれている。
大化の改新による中央集権化や、白村江の敗戦による国土防衛の必要性が高まった時代に、国の内外に国家の力を示すために規格の高い道路が作られた。
古代道路は、車の無い時代に、幅20mを有し、沼も谷も貫く直線道路で全国に6300kmも整備された。
本書には、道路の具体的な構造や造り方が書かれており面白い。
また、後半では、古代道路の探し方について記述されている。日本書紀や土佐日記などの文献や、地図から直線性の痕跡を探したり、現地ではソイルマークやクロップマークを目印に、古代道路を探すというもの。
奈良時代の後半、中央集権に陰りが見え始めた頃、道路の必要性も薄くなり、その規模は縮小されていく。
現代の道路も古代ほどでは無いが、政治家の力の誇示のための道路整備も否めない。古代道路と同じように権力に左右されないように、真の道路整備が重要である。
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古代には幅30メートルの直線道路が日本全国に敷き詰められていたと言う最近の発掘結果をもとに飛鳥奈良時代のを語る。現代に残る痕跡から古代道路を探る、ぶらタモリ的な楽しみはもある。
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総延長6300km、道幅6〜30mで主として6、9、12mと3の倍数が並び、その直線部分は確認された最長のものは8km、推定では20kmに及ぶものも少なくない。日本初の中央集権政府が作った道路網は現代の高速道路網に匹敵する。国土交通省の「道の相談室」によると2012/4/1現在高速道路の総延長は9268kmで重複や未共用、渡船を除いた実延長は8050kmだ。同じく日本で一番長い直線道路は北海道の国道12号線美唄ー滝川間の29km、都市内の地域高規格道路の道幅は片側2車線の場合中央分離帯と路肩を含めておよそ18mで、普通の道路だと片側車線の道幅は2.75ー3m、高速道路で3−3.5mだ。また江戸時代に整備された五街道もイメージとは違い道幅3.6mと馬が走ってすれ違える様な幅ではなく、東京だと北品川の商店街など今でも車がやっとすれ違える歩行者中心の道路だ。
日本で中央集権国家が成立したのは律令制の奈良時代と明治以降で幕府が成立した時期でも基本的には地方自治体制になっている。大化の改新から壬申の乱を経て、天智天皇ー天武天皇と受け継がれたのが律令制と中央集権体制の確立でありこう見ると歴史的には明治維新と並ぶ大イベントだったという事が分かる。戦国時代の天下統一も支配体制は変えても国の姿を変える事ではなかったからだ。
日本で最初に直線道路が整備され出したのは推古天皇ー聖徳太子の時代の計画からのようだ。重要な起点として飛鳥、法隆寺、難波宮などがあり、当時半島だった上町台地の先、現在の大阪城付近にある難波宮からまっすぐ南へ降りる難波大道、法隆寺と飛鳥をまっすぐ結ぶ筋違道(太子道)、奈良盆地を南北に等間隔で並ぶ上つ道、中つ道、下つ道(現在の中街道、郡山ICから近鉄八木駅付近までの直線道路はすぐに見つかる)など、また東西も法隆寺近くの北の横大路もわかる。
天皇中心の律令国家が作られたとは言え機内5カ国と、山陽道、山陰道、西海道(九州)、南海道(四国)、東海道、北陸道、東山道(信濃、上野、下野、陸奥、出羽)という行政単位を作りそれぞれを出来るだけ直線で結ぶ駅路を完成させるほどの勢力を持ち得たと言うのは不思議に思える。大敗した白村江の戦いの戦力が2万7千(wikiでは4万2千)、ちなみに秀吉の文禄の役の戦力が16万弱だ。大化の改新のころ気候がやや寒冷化したようなのだがまだ豊作の時期だったのだろうか。
駅路が出来る前には天智天皇が太宰府を博多湾沿岸から移し、防人、水城やいくつもの城を築いている。飛鳥から近江に遷都し天武天皇が飛鳥岡本宮に戻り藤原京の造営を計画する。次々に大規模な土木工事を出来るだけの食料と人役が用意できたということになる。駅路は直線性を優先させたため山があれば切り通し、湿地は土盛りをしてと費用をかけて作られている。また駅ごとに馬を飼い乗り換えられるようにした。軍隊の移動のためと言う説もある様だが著者も言うように攻められる心配をしている時期に敵も使える道路を整備すると言うのはあまり説得力がない。関東地方では例えば浅間山を目印にまっすぐに引かれたというので朝廷の威光を示すためと言うのはあったのだろう。またこの駅路を最も頻繁に使用したのは納税(租、庸)のため都へ向かう庶民��ったらしい。行きは国司が引率して隊伍を組んだが食料は自力調達、まだ貨幣制度は出来上がっていない。当時の法律では納税者は1日20km進む事が求められ、帰路はばらばらで行き倒れ餓死する者が多かったということだ。国力を越える道路の維持は難しく、やがて道幅は狭くなり、湿地の直線路はより地盤の安定しているが曲がりくねった道に改められた。そして律令国家を支えた土地体制の崩壊とともに中央集権体制も崩れ、駅路は廃絶した。
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平安時代などよりも、奈良時代など古代の道路は道幅も広く、整備されていた。本書はその実情を解説。結局、白村江の帰結として、天智朝にて軍事的意味合いから整備が進められたのが端緒。その後、奈良時代の律令制度により、政策は継承されたが、地方の疲弊で労働力の供給が追いつかなくなるといった事情により、桓武朝以降は衰退。著者は文化庁文化財調査官。発掘調査を踏まえている点は良だが、立ち読みでも読破できるかも知れない。
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☆道路は社会をどう変えたのか? 平安時代の律令で国内に道路整備。直線的で土木工事も行われていたが、その後使われなくなった。海上輸送に切り替えられたらしい。
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古代の駅路に関することを解説した本。そもそも奈良時代の頃には、江戸時代の街道よりもはるかに幅広く直線的な駅路が整備されていた様子。どのように発掘するのか、技術的にはどのようにしたのか、そもそもなぜこのような道路が作られたのかが解説されている。ただ、読んでわくわくするような感じではなくて、まじめな雰囲気だった。