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投稿者:レムロム - この投稿者のレビュー一覧を見る
将棋ファンには面白い本だと思います。そうでない方におすすめできる要素があるかと言われれば難しいと思いますが…
紙の本
天才が語るからおもしろい!
2013/06/06 17:32
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投稿者:ここなっつ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「天武以来の天才」と言われた現役プロ棋士、加藤一二三九段(出版時点)が、自身も感じてきたという、天才の肩書きを背負わされた棋士の感情を、多くのエピソードを混じえて語る。とんでもない記録を打ち立て続ける天才「羽生善治」の、人間の部分をみた気になる本。加藤棋士の軽快なタッチもおもしろい。
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加藤一二三先生による自分賛歌(笑)。
最高です。
一気に読み進めました。
升田幸三先生の自伝に引き続き、将棋界のトップのおじさんたちの本は間違いなく面白いのではないかとの仮説が立てられちゃいました。
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帯の羽生さんのコメント「私が知らない加藤先生がいた」が全てでしょう。でも、面白い語り口でした。
「天才」という言葉を、「誰もが思いつかない”将棋の手”を指し示す能力」、それを敷衍して「一つの芸術(棋譜=楽譜、棋士=オーケストラ、名局=名曲が加藤九段の持論)を創作する能力」と考えるのであれば、嫌みなく読めると思う。谷川会長に関するコメント以外は(笑)
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天才とは何か?という副題で棋士の加藤一二三氏が羽生善治氏を分析する。将棋ファンなら後半の記述とかより楽しめるんだろうか。
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将棋の天才が将棋の天才について考えた本。
自分はこのレベルの将棋の内容について議論できるほど将棋について詳しくないのです。
しかし、それでも物事に関する考え方とか仕事との向き合い方とか参考になる部分があります。
それ以前に、羽生善治という棋士がどういう人なのか改めてわかります。そのすごさもわかります。
(以上、ほとんどブログ全文です。)
ブログはこちら。
http://blog.livedoor.jp/oda1979/archives/4499113.html
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「かつて私は神武以来の天才と呼ばれた」加藤一二三著による羽生善治論。天才とはなにか。全面に加藤先生の自分好きな感じが伝わってきて読んでいて微笑ましい。嫌味っぽい発言も多いが全く悪気は無いんだろうな。羽生にらみの挿絵が急に出てきて吹いた。三浦八段や森内名人は認めてないんだろう。流石に二手指しを指摘してくれないのに文句言うのは...ひふみんが語ってる姿が想像できた。
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加藤一二三元名人が、羽生善治について書いた本のはずだが、加藤先生が良い意味でタイトルとは関係なく、自分の書きたい内容を好きなように書いている本のように思える。
書くきっかけが、羽生の圧倒的な強さの秘密がどこにあるのか、羽生善治が何者なのか、羽生先生が一体どこへ向かおうとしているのかの3点であるとのこと。
その割には、大山先生と升田先生の話や、順位戦の米長先生との上座の争いなどが印象に残った。
羽生先生に関連する話は、森内先生との名人戦での対局数の差による調整不足の影響や、渡辺先生との竜王戦の▲6二金についての話が興味を持って読むことができた。
もう少し図面があると、楽しく読むことができたのではないかと思う。
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天才が天才を語る。
羽生さんは天才だ
ということは誰もが共感することだが、
どこが?、と尋ねられたら
多くの人は細かに答えることはできない。
漠然とした「天才」の像が作り上げられているのだ。
かくいう私もその一人。
しかしメディアが語る「天才」像ではなく、
同じ盤を挟んで対局している同志である
加藤先生が、
天才と呼ばれた加藤先生の目から見た「天才」が
語られることで、
雲の上の、神様のような「天才」が
とても身近で親しみやすい「天才」に思える。
長らく盤からは遠ざかってしまっているけれど、
盤上で学んだこと、
盤を通して考えたこと、は
今の私の大部分を形成してくれている。
将棋は将棋に終わらない。
加藤先生の本を読んで、
語る「天才」に触れて
改めて考えることができた。
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将棋というのは天才業、なのだそうだ。そして羽生善治さんも天才に間違いない。そしてもちろん、羽生さんと対戦し、勝ったことがある著者も。羽生善治という名前を使いながら、将棋の、そして自らの凄さを描く本。というといやらしい感じがするけど、羽生さんの著作を読んでいると、ああなるほどあの辺ね、ということがたくさん出てきて、その副読本としてもよい。やっぱり羽生善治の名前を使いながら、でも俺が! というところが、とても好感がもててよい。という点で、二重に面白い本だった。
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最近、将棋が面白くなって来た。
自分のレベルというのは、小学生でも勝つ事はできないかもしれないくらい弱いと思う。昔からNHKの将棋中継を観るのは好きだったし、将棋の盤面の変化を眺めるのは好きだった。
最近は便利な世の中となり、インターネットで、昔の対局を観る事が出来たりする。そうすると、昔は意味がわからなかった指し手の意図がおぼろげではあるけれど、なるほどと思える様にはなって来た。
特に加藤一二三九段と羽生善治四段(当時)の対局は、米長九段の解説の叫び声が今でも印象に残っている。ド素人でさえあの対局が凄かったと感じる事が出来たけど、その当事者である加藤一二三九段は対する羽生善治氏に対してどんな気持ちであったのか、興味があった。
そんなタイミングでこの本を見つけたからには、読まない訳にはいかない。
この本を、大変面白く読むことができた。
ちょっと将棋を勉強したいと思わせる面白さがあり、良い本だと思う。将棋を勉強する事で、棋士の思考の流れをつかめる事が少しでもできたなら、この本の面白味がさらにわかるかもと思わせる一冊じゃないのかなと感じた。
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チェック項目18箇所。羽生善治を改めて考えてみたい……一つめは、その圧倒的な強さの秘密はどこにあるのかを探ってみたかったことである、二つめは羽生善治とは何者なのか、ということを考えてみたかったことである、そして最後の理由は、羽生さんがいったい、どこに向かおうとしているのかということに、強い興味を覚えたことだ。本書は「羽生善治論」というタイトルであるが、あえて最高峰が誰であるかを書くことは差し控えた、大作曲家であるバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトを比べるようなもので、見解は分かれるところである。羽生善治という棋士を通して、将棋への興味と理解を深めてもらえれば、とてもうれしく思う。将棋400年の歴史に残る大名人である大山さんが棋士は「天才業」と呼んでいたのだから、少なくともタイトル戦を戦っているようなトップ棋士は、自分が意識しているかどうかはともかくとして、「天才」と呼んでもさしつかえないだろう、したがって、羽生さんも、天才であることは間違いない。大天才とは、無から有を生み出すことのできる人、まったく何もないところから、前例のない、すばらしい着手や作戦を思いつく―天才とは、そういうことができる人である。勉強をしている、していないにかかわらず、早く指すことができて、しかも着手が正確で、なおかつ勝つこと―これは、間違いなく天才の共通点である、絶対だ、天才は、盤を見た瞬間に、パッと手がひらめくのである、こうした能力は努力したからといって身につくものではない、もって生まれた、並外れた素質としかいいようがない。あとから考えた手というのは、冷静かつ慎重に、確認しながら読んでいった末の選択であるのだから、その思考回路に欠陥はないはずである、理屈でいえば、ひらめいた手よりすぐれているはずだ、しかし、読むときは往々にして自分の都合のいいように読んでしまう、どこかに判断のおかしいところが生じてしまう。直感の手、ひらめいた手というのは、無心で捉えている、将棋の世界で生きている人間は、無心の手がいちばんいいと考えているものだ。「秀才型」というのは、研究がもはやスタイルになっているタイプのことだ、羽生さんはおそらくそうだと思うし、谷川さんもこのタイプだろう。羽生さんはなんとか苦しい局面をしのぎながら、まさしく糸のような細い、細いコースを辿っていくことができるのである、それが可能である理由はやはり、「勝負勘がずば抜けている」ということだと私は思っている。「不利な状況を喜べる人間」―羽生さんは自分自身をそう評しているが、つまりピンチのときほど奮い立ち、なんとかすることを喜びと考えられる、そうした姿勢が羽生マジックを生み出すのだと思う。ほかの棋士に較べ、作戦のレパートリーが圧倒的に広いこと、それは羽生さんを語るうえで絶対に見逃せない特徴であり、完勝が多い理由にもなっているのではないかと私は思う。将棋に必要な体力は、消耗しない体力だといっていい、いかに長時間、フレッシュな状態を保てるかということが肝心なのであり、これらは憎体的トレーニングをしたからといって身につくものではない、対局を重ねていくなかでしか培われないものなのである。羽生��んと森内さんの将棋をあらためて検討してみて浮かび上がってきたことは、森内さんが非常によく羽生さんを研究しているということである、とくに序盤の研究は行き届いている、このことが、森内さんが羽生さんと相性のいい最大の理由だと私は思う。
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羽生は秀才型の天才。
正統にして王道。相手をよく研究する。
森内名人に名人戦でいまいちなのは、森内の方が対局数が少なく、
よく研究できるから。
谷川への心配。会長就任で勝ち数が減るのではないか。
羽生とのNHK杯戦。5二銀を挙げる人が多いが、4八玉がすごいと
加藤は指摘。まさにその通りだと思う。
羽生は冒険してくる。居合抜きのようにピュッと抜くという感じ。
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ひふみんが羽生さんをだしに自分がいかに天才かをこれでもかと語る。
なにせ出だしが、かつて私は、「神武以来の天才」と呼ばれた。だ
奥ゆかしいひふみんは自分のことを「天才」といったこともない。もしかしたら家の中では言っているかもしれないが、少なくとも外ではない。
ただ思ったことはある。掛け値なしに、虚心坦懐に、謙虚に自分の将棋を見つめた結果「天才」!と思ってみたのだそうだ。
じつは大山康晴に「加藤一二三は大天才である」と言われたことがある。(中略)そこで問題は、羽生さんを「大天才」と呼べるかどうか、ということである。(中略)羽生さんは「秀才型の天才」だと私は見ている。ここで言う秀才型は研究がスタイルになっているタイプもう一つの「対応型」はここ一番のときに集中して研究するタイプだと、うーむよくわからない流石に大天才ひふみんは一筋縄ではいかないのだ。ついでに大山さんは「天才」と呼ばれることはないとまで書いている。
天才は早指しが得意だが大長考も出来る。ちなみにひふみんは相手の封じ手の後、夜5時間、翌日2時間考え妙手を見いだした。ひふみんはこの話をいたるところで吹聴している。
天才は劣等感を抱かない。じつはひふみんもそうだ。中原誠に18連敗してもここでこうさせば勝っていた。それほど差はなく負けたのはたまたまだ。
「天才は盤を見た瞬間に最善手が浮かんでくる」これはひふみんに言わせれば、文系ならではの特徴である。うーむ、違うと思うがひふみんが言うならしょうがない。研究を続ける秀才型は理系の特徴なんだそうだ。そうだったのか・・・。
天才も木から落ちる。2012年達人戦の準決勝でひふみんは二手指しの反則負けをしてしまう。どうもそのときひふみんは現実感が無かったらしいのだがその理由は対局者の森内さんがモスグリーンの背広を着ていたからだと言うのがひふみんの分析だ。
将棋史に残る驚愕の一手
1989年NHK杯の準決勝当時高校生の羽生五段と対戦したひふみんに67手目の5二銀が待っていた。解説の米長さんが叫ぶ「おおっ、やった!」ひふみんも叫ぶ「ウヒョー!」
ちなみに名人戦で詰みを見つけたときにも叫んでいる「ウヒョー!」
ひふみん伝説は猫にえさをやって訴訟を起こされたり、対局中に相手の後ろから盤を覗き込んだり、駒をたたき割ったり、滝を止めたりと数えきれないらしい。
そんなひふみんが無人島に持っていきたいものは・・・羽生さん。どこまでもおちゃめだ。
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「羽生さんは天才だけど、僕は大天才なんだよね!」みたいな流れには些か辟易するものの、加藤一二三という人を理解するのにはいいのかもしれない。