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闇にも何かある、いや、なにもないのか?
なくても進まなければいけない。
とどまることはできないらしいから。
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はじめは純文学かと思い手に取ってみるや、複雑な物語が絡み合っては「世界の崩壊」を描くハードSFになったり、高橋本人と思しき作家やその息子のランちゃんキイちゃんが脈絡もなく出てきたり(From『悪と戦う』)とかなりカオティックなものになっている。
560ページにわたる銀河鉄道の旅を堪能するつもりで読んでいたら、高橋の脳内トリップに連れていかれてしまったようだ。
あまりにも壮大で、この本に入っているメッセージやコンテクトをすべて(というかほとんど)拾いきれてはいないが、一つ言えることはこの物語は「喪失感」と向き合うための小説であるということだ。
主人公のジョバンニは父を、ランちゃんはキイちゃんを、3章の人物たちは「流動」によって「記憶」を、それぞれ失っている。
そしてその喪失と向き合う手段の一つとして提示されている「ある行為」が、読む人間の胸をほんのりと暖かくする。
震災前に文芸誌への連載自体も終わっていた本作だが、大幅な改稿を経てこの時期にリリースされたということはつまりはそういうことなのだろう。
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夏休みに集中して読み切って良かった。通勤電車で読んでいるとあまりのめり込めなかったので。宇宙船に一人で乗って、外を見てもずっと真っ黒くて、季節も時間も分からない…という心境に寄り添うには、はやり休みの期間中がいちばん。しかしながら、この本のように、ことばをあやつることさえ、意味を失い、自分の存在が不安定な状態になり、なお残るものを見付けだすには、夏休みは短過ぎるのでした。
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高橋源一郎がかつて書いた宮沢賢治の各小説をモチーフにした連作短編集『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』の中に『銀河鉄道の夜』をモチーフにしたものはなぜか含まれていない。『銀河鉄道の夜』は、著者の思い入れの深さからか、あえて別出しとされてこの560ページもの小説に結実したのだ、と自分は思う。 日本経済新聞の書評にて「名実ともにこの作家の代表作となるだろう」とされた最新長編小説。分量は560ページなので、もちろん長いのだが、面白くてどんどん引きこまれる。長さを忘れるというのではないが、不思議にその長さを感じさせない。
銀河鉄道のモチーフは1997年刊行の同じく野心的な小説『ゴーストバスターズ』にも出てきている。本書では、『ゴーストバスターズ』で一度チャレンジしてうまく果たせなかったことを、もう一度チャレンジしているようにも感じられた。あの本では、よくわからなかった『ゴースト』の意味も、この小説を経て遡及的に読み返すことで「わかる」ことができるような気がする。
著者は、主観や時間など哲学的主問題について、その問いを小説の形を借りて開こうとしている。この小説が哲学的問いについての小説であるのは、例えば野矢茂樹の『哲学の謎』などを読んでみればよく理解することができるだろう。そこに「ある」ことを、小説にしかできない形で読者に差し出そうとしている。さらには読者以前に、すでに最初の読者でもある自分自身にその問いを差し出しているとも言える。
誰も読むことがない記録(「日記」や「図書館」)、「列車」と「車掌」、「死人」や「闇」、「記憶」と「流動」、「果て」と「中心」。それら括弧に包まれた語らをそのままに読むと同じ語であってもかつてその語に対して感じたこととは違う何かが頭の浮かび現れてくる。『列車』については、「列車」だけでなく「汽車」や「機関車」という表現もされる。括弧書きの『列車』と地の文の列車の違いもある。その違いが意図するものも感じ取ることができる。
第3章の後半から最終章までの文体的試行についても、実験的であるだけでなく、きちんと盛り上がりを見せている。改ページだけでなく、改行や句読点や空白についても意識的だ。正確に言うと、高橋源一郎に対しては、それが意識的であることを読者として信用することができる。すべてはわからないのだけれどもそこに意図があることを信じることができる。おそらくそれで十分で、数少ない選ばれた「小説家」だけが許される所作でもある。
いずれにせよ、われわれは『列車』に乗ってしまっている。「たくさんの人だちが、望んで、時には、望まず、『列車』に乗るのです。あなたやわたしが乗ってしまったように」
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それにしても、正直に告白すると、G**がジョバンニをC**がカムパネラを指していることに読み終わるまで気が付かなかったのは迂闊だった。もう一度読むべきじゃないかとさえ思う...
『銀河鉄道の夜』もまた読んでみようと思う。きっとこの小説を読む前に読んでおくべきなんだろうけれども。
日本経済新聞の書評だけでなく、帯にも「新たな代表作」とあるようにこの本が含み持つ射程も含めて後期の代表作と言��るだろう。
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なお巻末の「主な引用・参照文献」に次のWeb上のエントリがある。
勝瞬ノ介「イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民」
http://www.polinfojp.com/kansai/jedwabne.htm
どこに引用されているかというと、P.279に「イ××××××の町で生まれた」少年の話としてこっそりと挿入されている。町の人がレンガで殴り殺されたり、目玉をくり抜かれたり、穀物倉庫に閉じ込められて火を付けられる、と描写されている。小説上の作り物のように見せて、実際に起きた事実をひっそりと置くことで、現実と虚構の境界を混じり合わせている。Webサイトへのリンクを主な引用に置くという、ちょっとした仕掛けを施している。ほとんどの読者は気が付かないかもしれないが、もちろんそれでもいいのだ。
同じくジャン・ジュネの『恋する虜 ― パレスチナへの旅』も引用文献として挙げられている。こちらはどこにあるかはわからないが、どこかにまたひっそりと置かれているような気がする。『非常時のことば』で取り上げられた『シャティーラの四時間』の内容を見ると、たぶんそういうことではないか。
もちろん、イェドヴァブネの話もパレスチナの話も、多くの人が理不尽に死んでいく話で、死者やまだ見ぬものら対する倫理を意識する著者がこれらの引用を選択した「意味」があるはずだ。そのメッセージをどのように感じるのかは読者にゆだねられている。
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563ページのボリューム感は、まるで昼寝の枕になりそうな分厚さ。重さに恐れおののきながらひもとけば、そこは賢治の世界へのオマージュ。雑誌「すばる」に2005年3月号から数回に分け不定期に掲載されてきた各章全面的に加筆、改訂。
マクロとミクロの想像力を駆使して、あり得べき物語を賢治の物語の上に作り上げるなら、こんな風になるんじゃないかという一つの試みだ。
途中は退屈、実験的といえば誉めすぎで、原稿料稼ぎといわれてもしょうがないような無茶の文章の繰り返しも多い。
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感想なんか書けない。ミニマルな音楽を聞き続ける理由のような小説。流動のところが好きだ。そして、村上春樹の文体になっている部分だとか(いや、確かめたわけじゃあないんだけど、村上春樹の小説読んでるみたいだなあと感じる部分があったり、スタイルの冒険は一時期の筒井康隆だし。
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高橋源一郎の文章はスピード感があって、長くてもすらすら読めてしまう。
「銀河鉄道の彼方に」はとっても複雑で1回目は感じるだけで終わってしまった。第一章、二章の宇宙飛行士の話については、グレーテストヒッツと近いテーマだな(存在とか、消えるという概念)と感じたが、3章目からは怒涛の視点の移動や、展開に、いろんなものが入り組んでいる感覚だけを感じることができた。
疲れたから、もうしばらくは手に取れないかもしれないが、また日を経て代みたいと思う。
感じ取ったものとしておもしろかったのは、作者の問題でもある書くというテーマが垣間見えるところだった。作者?と思われる存在が登場したり、次元の移動と思われるものが度々行われたり、そういう意味で難しいがダイナミックな作品だったと思う。
加速と流動性のところにおもしろみと恐怖を感じたが、最終章でジョバンニが、戻れなくてもしっかりとこれを感じていようと再び思うところに爽快感を感じた。
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壮大な思わせぶり。
不必要な言葉の羅列。
僕はもう高橋さんの作品を感じることができないのだと知り、とても悲しかった。
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200ページ目あたりから、どこまでが本編でどこからが虚構なのかもうわからなくなる。そもそも小説だから虚構なのだが。
300ページを越えると世界がズレていく。あっちの人物とこっちの人物が融合し、流動する。書き手さえも物語に降りてくる。もはや物語の枠も超えている。
何百ページからかは覚えてないが、事態はただ闇に向かって進んでいくのを感じるようになる。進んでいるのか戻っているのかもわからない。書き手に宮沢賢治が憑依していることもある。いや違うかもしれない。
もしかしてさっきまで読んでいたページをもう一度読み返すと何も書かれていないんじゃないか。そんな気さえする。
もしfacebookで昨日投稿した記事が、今朝見ると消えてたとしたら。それはまあfacebook側の何らかの問題だろうとふつうは思う。
もし自分が描き上げた絵が、次の日まっさらなキャンバスになっていたとしたら。それは誰かの悪ふざけなんだろうとまず思う。
しかしそれが同時に起こったならどうだ。同じようなことがもっと同時多発的に。自分が認識しているすべてのことが初期化されたとしたら。
そんなことがあってもこれを読んだあとなら、なんとなく受け入れられるかもしれない。あらゆる物理法則が通用しない世界もあるのだと。
すべての存在は、そこに在って、そこには無い。無数の星ほどあって、ひとつしかない。
言語化できる限界ギリギリの世界観を圧倒的筆致で描く。まいった。
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高橋源一郎が宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にインスパイアされて生まれた小説。我々はどこからきてどこへ行くのか、その壮大な問いに小説の形で答えようとした。しかし、残念ながら未成熟。謎はさらに「彼方」ね遠ざかったようだ。
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宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に関係のある部分もあるが、SFなのか哲学小説なのかといった感じでしょうか。
途中までは読者は「傍観者」ないしは「観察者」でいられると思いますが、後半は無理やり小説の世界に引きづり込まれます。文章を読んでいるだけなのに、主人公(だれが主人公だかわからないが)の感じたことを同時体験させられます。
その意味では成功していると思いますが、難解なテーマは消化不良を起こすかもしれません。
読み終わってすっきりはしませんでしたが、楽しめました。
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「仮説というものは、おかしなものでいいのだ。奇妙ではない仮説なんて、なんの役にも立たない。だから、優れた科学者ほど、途轍もなく奇妙な、想像もできないような仮説を立てることができるものなんだよ。」
「レベル9ではなく、それ以上の『秘密』のことをいうのさ」
「それ以上とは?」
「レベル11。つまり、そのプロジェクトが存在していることさえ『秘密』なんだ」
「それは、レベル10ということだろう?」
「きみたち科学者が『レベル10』と呼ぶ、存在が秘密にされているプロジェクトは、ほとんど『公には存在が秘密』であるにすぎない。そんなものは秘密と呼ぶに値しないのだ。」
「脊椎動物の四肢の端に数本に分かれた部分」
「筋肉が不随意に急激な収縮を起こす現象。収縮と弛緩を繰り返す間大性の場合と持続的に収縮する強直性の場合がある」
「カードを用いて行う遊戯」
「犯罪者の生命を絶つ刑罰」
「実際にとりおこなうこと。法律・裁判・処分などを具体化すること」
『「犯罪者の生命を絶つ刑罰」を、さらに「じしょ」でひいてみる。すると、この「ことば」は「『罪を犯した人』の『生物を、無生物ではなく生物として存在させる根源』の『存在を抹消させる』『罪を犯した人間に国家権力が科する制裁』」という「いみ」らしいのだが、けっきょくは、ただ「じしょ」でひく「ことば」がふえていくだけなのだ。』
「きみは、そう断定するんだね。なにか根拠があるのかい?」
「根拠があるから断定するのではない。理性がそう命じるから、何かを信じるわけじゃない。」
「よかった」
「なにが?」
「きみが、昨日と同じ人で」
「あたしも。もし起きて、違う人だったらイヤだなと思っていたの」
『そうだ。そういうことはしょっちゅうある。だから、わたしたちは、手をつないで眠るのかもしれない。どこかの知らない人が、手を繋いで眠ると、朝になっても同じ人が横にいることが多いと発見したのだ。』
「手を繋いだからじゃないと思うわ」
「そう?」
「その人のことを好きだからじゃないかな」
「なるほど」