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今となっては笑い話のようにも聞こえるが、太古から現代まで、数多くの迷信が科学的知識として信じられてきた。何でも金に変えられるという賢者の石を探し求めた錬金術師たち、不老不死を願って水銀を飲み続けた人たち、地球平面説や地球空洞説を信じていた人たち。
古代ギリシア時代から19世紀半ばまで信じられていた「四体液説」も、その一つと言えるだろう。これは人体が血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁という四種類の体液に支配されているという考え方のことを指す。その中で、血液は胃から心臓へ一方向に流れると見なされ、血液の過剰が病を引き起こすものと考えられてきた。
ここに風穴を開けたのが、1616年にウィリアム・ハーヴェイが発表した「血液循環説」というものである。「血液は心臓から出て、動脈経由で身体の各部を経て、静脈経由で再び心臓へ戻る」というこの説を検証するために、数々の研究者たちが凌ぎを削ってきた。その血で血を争うような戦いの主戦場となったのが、「輸血」という舞台であったのだ。
そんな中、世界初となる人体への輸血実験がフランスにて行われた。挑んだのは、どこからともなく現れたジャン=バティスト・ドニという若い医師。彼は人への輸血を初めて行なうことで科学界を驚かせ、大きな評価を得る一方で、それ以上に大きな論争をも巻き起こすことになった。本書は17世紀のわずか数年間に起きた、輸血医ドニ、そして輸血初期の盛衰を辿るヒストリーである。
1667年6月の半ば、ドニは16歳の少年の静脈に輸血した。注入したのは、なんと子羊の血液。だが結果は驚くべきものであった。少年は死ななかったのだ。ちなみに動物の血が使われた理由は、当時、一人の人間の命を縮めてもう一人の人間の命を長らえることが、野蛮な行為とされていたことによる。最初の成功に気を良くしたドニは、さらに患者を見つけて数回にわたる輸血を行う。だが、上手くいったのは、2人目の患者までであった。
3人目の患者は、アントワーヌ・モーロワという、精神を病んだ34歳の男だった。ドニは150ml余りの子牛の血液をモーロワの腕から輸血した。翌朝には、実験がうまくいったかのように思えた。だが、その後輸血を繰り返したところ、結局モーロワは死亡してしまうことになる。そしてドニは、殺人罪で告発されたのだ。
この歴史的事実だけを見ると、なぜ?という疑問符が、どんどんと頭の中に湧いてくることだろう。だが本書の白眉は、この輸血の歴史というものを、社会的コンテキストという観点から読み解こうとしている点にある。血液の過去を知ることは、その時々の社会の関心事の中核にあったものが露わになることを意味する。輸血と向きあうことを余儀なくされた時、はたして社会は何を守ろうとしたのか?
その背景には、17世紀後半の政治闘争、宗教論争、熾烈な野心などがある。世はまさに英仏が、科学の覇権を争っていた時代。また当時のヨーロッパには、プロテスタントの国イングランドとカトリックの国フランスという大きな亀裂も存在した。
だが、いずれの国においても「名家の血筋」、「血を分けた兄弟」など、「血」は自分が何���であるかという意識の中核をなすと考えられてきた。そのため、どこをどう間違えたか、動物の血を輸血をすれば人は動物に変身してしまうのではないかという考え方が跋扈し、人々に畏怖の気持ちを植えつけていたのである。
さらに本書の魅力を高めているのは、このドニの事件が毒殺事件として結末を迎えたことである。本書がサスペンス的な性格を持ち合わせている以上、ここで真犯人の名を明かすような無粋な真似は控えるが、これがただの偶発的な要因ではなかったということ、その後150年近くに渡り輸血を禁止してしまう結果につながったことについては、言及しておきたい。
真犯人たちが、毒殺事件を起こしてまでも輸血をやめさせたかった理由は、奇妙でもあり興味深くもある。それは医療の安全性や患者自身の満足を重んじたからではなく、種が異なる生き物の血液を混合することにモラルや宗教が大きな影響を及ぼしたからであったのだ。実験の抵抗勢力は、社会のいたるところに潜んでいたのである。
その頃のヨーロッパにおいて科学と迷信の境目は、流動的だった。迷信から科学への移行は、今日では「科学革命」と呼ばれてもてはやされているが、いわゆる革命のごとく一直線に進んだものばかりではない。本書で描かれているのは、いわば「掘り起こされた革命」の歴史である。
著者は問いかける。社会は科学に制限を設けるべきか?設けるべきだとしたら、どのような代償をどう支払うことになるのか?17世紀の輸血とは、迷信によって血液の役割が過剰に評価されていたがゆえに、人間であるとはどういうことか、また人間でないとはどういうことかを問いただす、哲学的な側面も持ち合わせていたのだ。
数学、物理学や天文学など、様々な分野で近代科学が花開いた17世紀の時代。輸血の歴史は、この中で数少ない暗部に位置するものと言えるだろう。だが、その歴史を知ることは、過去に生じた科学と社会の衝突について理解できるだけでなく、衝突をどう乗り越えていくべきかに関する教訓へとつながっていく。生命科学の時代を迎える今、血塗られた血液の歴史から学びうることは、実に多い。
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良作でした。
未だ錬金術が科学の範疇にあったフランスの17世紀の時代に、血液循環説が発見された。それに触発された野心のある若者ドニは、動物(仔牛)から人間への輸血を成功させる。
輸血は精神病の治療を目的として施術された。ドニは精神に異常をきたした人間に、仔牛の血を輸血すればそのように従順になると考えた。輸血をした患者は従順になり、施術の成果があったようにみえた。今日の感覚ではこういった人体実験は倫理的に問題があると考えるのが一般的であろう。
しかしながら、今日においてもiPS細胞のようなあたらしい科学的な発見が、旧来の正しいとされた倫理観が見直されるきっかけとなる事例もある。フランス中世の科学革命を現代に至るコンテクストとしてみると面白いと思う。
また、個人的に不思議に思ったのが、仔牛の血を輸血すれば従順と考えた、血が精神に何らかの作用をもたらしていると考えうる発想はどこに由来しているのかという点である。
たとえば、日本において血液の型が人間の性格になんらかの作用をもたらしている説が多く信じられている。(僕はこれを信じておらずほとんどハラスメントの類であると考えているのだけど)
今日も中世と同じ様に迷信と科学が曖昧に交差する時代である点に違いはないのではないかと感じる。
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このタイトルはちょっと狙いすぎでは?
かなりおどろおどろしいので少々構えてしまったのだが、読んでみれば何のことはない、輸血という現代ではあたりまえになった医療行為が、人々に受け入れられ、科学的根拠の上に治療として用いられるようになるまでの歴史である。
正直、少ないとはいえ、結構グロテスクというか露骨な描写も確かにあり、そういうのが苦手な人はちょっとつらいかもしれない。
だが大半は、中世の人々が考える人体の働きや医療行為、宗教との関連についてなどを、当時かかわりのあった人々を通した物語として語られており、時代背景や宗教観などとも相まって、非常にわかりやすい。翻訳は今ひとつだったけれども…。
まだ医学が進歩していなかった当時、誰かが実際にやってみなければ何が起きてどうなるかは知る由もないわけで、『世にも奇妙な人体実験の歴史』でも何人も取り上げられていたが、そういう恐れを知らない(?)科学者たちの恩恵を、現代の私たちは受けているわけだ。
そして正直な思いとして、現代に生まれてよかったなあ~と、しみじみ感じたのであった…。
だって当時の治療といったらまず瀉血だよ~、くわばらくわばら。
知らないって怖い。
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タイトルだけみると何だか怪奇小説のようだが、まじめな科学史読み物である。話の軸は、ハーヴェイの血液循環論のあと、イギリスでロウアーが行った動物(犬)の輸血実験のようす、それをマネしてヒトの輸血につき進んだ、ジャン・パティスト・ドニの話である。1667年に16歳の少年に子羊の血液を輸血、同年、精神病者モーロワに子牛の血液を輸血するが、二度目の輸血のあと患者が死亡し、裁判の結果パリ高等法院が輸血の許可をパリ大学医学部の許可制として事実上禁止し、以後、ドニは止血剤を開発して死んだ。重要なことは輸血が錬金術の「変成」や、精神病の治療として試されたことである。血液型をラントシュタイナーが発見するのは1900年であるから、結果的に輸血が禁止されたことで不適合輸血の被害を少なくしたともいえるが、ドニの研究が科学的に追求されていれば、もっと速く輸血の可能性を追求できていたかもしれない。この本はいわゆる「科学革命」の時代のいろいろな側面も書いており、イギリスの王立協会とその機関誌「フィロゾフィカル・トランザクションズ」や、それを支えた外国語に堪能なオルデンバーグの生活や収監事件にもくわしい。フランス科学のパトロンだったモーロワ(ハーシェルが土星に輪があることを発見したのはモーロワのアカデミーにおいてである。ガリレオは土星の「耳」について正体を分からなかった)にもくわしく、フランスにおける医学の学閥、ガレノス主義のパリ大学医学部がハーヴェイを批判し、輸血にも反対したこと、パラケルススのアンチモンを治療にもちい、新教徒もうけいれていたモンペリエの医学校との対立なども興味深い。ほかには、ペスト、錬金術、精神病院、都市計画と血液循環論の関係、生体実験に根拠をあたえたデカルトの機械論の役割、瀉血や抜歯などを行った理髪外科医の仕事などについて触れている。医学史を読むと下手なスプラッター小説より壮絶である。陰茎を切除し、膀胱に手が入るくらいの穴をうがって、結石を取り出す手術など麻酔なしでやっていたのであるから壮絶である。血液循環論は中国医学では前提であるが、中国医学の鍼でも瀉血はある。しかし、瀉法と補法は一体で、血液(栄気)のほかに気体(衛気)も循環しているとしていた。もし17世紀に生まれていたら、西洋医より中国の医師にかかりたいとも思う。
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著者がいいのか訳者がいいのか、非常に面白かった。
瀉血という言葉を初めて見たのは何年前か。
看護師に聞くと今はやらない処置、とか。
NICUでは瀉血が行われることもあった。
医学校や看護学校では歴史の中で瀉血の話が出るのだろう。
だが、一般人からすると理解に苦しむこの処置が何故今も点数本に残っているのか。
そんなところから大統領が医者によって失血死させられていたとか、キリストの子羊とか気味の悪い話とか、一気に読み終わった。
あとがきで著者がES細胞関連で法規制がなされることと、同時代に輸血を禁じされた政治的・宗教的背景を比較してあるのも印象的。
面白い物語として読んだが、医学と狂気を見ているようで色々な意味で不気味だった。
この出版社、宣伝で書かれている本も非常に魅力的なタイトルと文句で興味をそそられた。
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輸血が近代の医学に登場したのは19世紀になってからだが、実はその150年も前に輸血が試されていた。
本書はその裏にあった人間同士のエゴのぶつかりあい、宗教的タブー、国家の対立といった事実を浮き彫りにするとともに、なぜ、輸血が150年もタブーとされなかったいけなかったかに光を当てている。
まず、動物から動物、その次に動物から人という輸血の実験の経緯は、今日から見れば、無茶苦茶なのだが、今の医療はたゆまぬ努力と試行錯誤、そして多数の犠牲の元に成立したことを再認識させる良書だ。
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医学の進歩は、現代の常識では嫌悪感を覚えるような試行錯誤と共にある。我々は、その不愉快な実験の恩恵だけを受けており、過去の気持ち悪い出来事を忘れてしまっている。また、そこには、宗教観、倫理観の対立も含まれる。本著はその一つ、輸血を巡る論争、事件のドキュメンタリーだ。
読みながら、現代の知識で違和感を感じてしまう箇所が幾つもある。読者として、登場人物の誰がしかに強い共感を持ちたい所だが、主人公とも言えるドニは、やっている事が原始的、奇抜過ぎて中々感情移入できない。しかし、著者が公平な視点を保ったお陰で、この事件が後々の医学の発展に寄与したという事を、正しく認識できる。
パイオニアは、時に嫌悪感を齎す。後世への恩恵は、犠牲の上に成り立つのだった。
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17世紀フランス、正確な記録が残るものとしては最古の輸血実験が行われました。
医師ドニによる「動物から人間への」輸血と、それにまつわる殺人事件の記録。
歴史上こんなことがあったのかと興味深く読みました。
国家間の研究競争や歴史的・文化的な理由による輸血への嫌悪感など、時代背景が丁寧に描かれています。
そしてドニの裁判を機に約150年間、ヨーロッパでは輸血治療が事実上禁じられてしまうのでした。
この本はドニの実験と裁判に至る経緯をまとめた「輸血の研究史」です。
ドニ個人の伝記だと思って読み始めたのでちょっと面食らいました。
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以前フォロワーさんのツイートを見て興味を持った、輸血医療の歴史を綴った1冊。17世紀のイギリス対フランスという構図で宗教や政治、倫理観を背景にした輸血医療の賛否、血液型の観念がない時代、異種間動物、動物から人間への輸血医療を実験する