投稿元:
レビューを見る
「条件付け」と「ソーマ」の世界はとても安定していて、そこに暮らす人々はもしかしたら幸せなのかも。。
1930年代に書かれたとは思えない先見性と普遍性を持ち合わせた作品。
翻訳が素晴らしく、旧訳で挫折した自分にとっては、思わず「同じ話?」と疑いたくなる程楽しめた。
投稿元:
レビューを見る
ディストピア文学の最高傑作が遂に新訳。本作で描かれる未来世界では管理こそあれ、監視や抑圧、暴力等は存在しない。高度資本主義と科学的手法を突き詰めた画一的社会では禁止ではなく刷り込みと条件反射による自然反応で管理され、欲望の発散すらも国家から支給されるソーマで充足される世界。それはとても幸せそうで、どうしようもないくらいに醜悪だ。「要するに君は、不幸になる権利を要求しているわけだ」そう、だからこそ自分は不幸になる権利を要求する。大丈夫、それはとても人間らしくて、求める事自体は不幸などでは決してないのだから。
投稿元:
レビューを見る
有名なディストピア本の一冊を初読。本書を読んでいて思ったのは、自分はユートピア/ディストピア系の小説がたまらなく好きだなということ。本書は「1984年」とか「われら」に比べると、結構情緒的な側面に力点が置かれていて読後のしんみり感高い。
投稿元:
レビューを見る
日本のことだな、と誰もが思うでしょう。
ジョンと世界統制官の対話が白眉。
ここはカラマーゾフの兄弟の写しなのか。
投稿元:
レビューを見る
本屋で平積みになっているのを見かけて衝動買い。予備知識無し。
禁書になった時期があると解説にありましたね。確かにそうかもな。このSFが書かれたのが1932年(1932年と言えば日本は五・一五事件)。著者の慧眼。先見性に脱帽ですわ。もしこれが2013年に書かれましたと言われても不自然じゃないもんな。
以前も書きましたが、「こういうことになる可能性もあるよね」との文明批判。社会風刺が利いている。おぞましい。
社会主義は過去のものとされ、資本主義社会に身を置く私たちですが、さあ、次はどんな装置が導入されるのか。本書では社会主義的な資本主義というか、超福祉国家というか、そういったハイブリッドな統治機構が仮構されていますね。
面白かった(好きだった)箇所は、後半の“野蛮人”(つまり私たちとほぼ同じような価値構造を有しているある人)と“すばらしい新世界”側のボス的な人との会話、舌戦のシーン。人間とは何か(なんて手垢のつきすぎて手垢そのものになったような言葉ではあるが)的テーマを掘り下げていく。やはり、ここではないどこかを規定しておいて、つまり物語というBGMを流しつつ、この本題に入っていくあたり読まされてしまう。ぐいぐいと惹き込まれた感覚があったなあ。
決して読みやすい本とは言えないな。読まなくてもいいけれど、読んでしまう。読まなくてもいいけど、こういう本が無いとダメだとも感じる。苦しい本ではある。しかしながら、苦しむということは自分の外側から来た異物であり、新しい何かなのだろう。従ってそういうものを享受する読書は頗る刺激的で楽しいし、有意義であるとみなしています。つるつるした啓発書を読むのもそれはそれで面白いのだけれど。
http://cheapeer.wordpress.com/2013/07/16/130716/
投稿元:
レビューを見る
・あまりにも有名なオルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」(光文社古典新訳文庫)、 所謂ディストピア、反ユートピア小説である。オーウェル「一九八四年」やブラッドベリ「華氏451度」等と並ぶ名作である。久しぶりにこれを読んで、ハクスリーがかなり異質であるのに驚いた。その出自によるものか、あるいはその資質、思考によるものか。単純に物語に対する好き嫌ひといふ点から言へば、私は ハクスリーよりオーウェルやブラッドベリの方が好きである。こちらの方が物語としておもしろいし、それゆゑに分かり易くもある。
・「新世界」前半、苦悩せるバーナードとその友人ヘルムホルツの物語になりさうである。それはたぶんオーウェルやブラッドベリに近い物語となつていくはず である。ところがさうはならない。バーナードは優生学的に失敗作のアルファといふところである。それゆゑに劣等感を持ち、憂ひに沈む。その憂ひが反体制的 な想念を生む。ヘルムホルツはそれに共感する。その共謀を阻止するために、バーナードは左遷されさうになるのだが、その前に彼は恋人(とでも言つておく) と北米のインディアン居留地に行く。インディアンとは野蛮人である。基本的に私達と同じ生活様式である。生業も生活も私達の知るインディアンである。ここで出会つたのがリンダとジョンの親子である。ここから物語後半、リンダはかつて行方不明になり、この居留地の人々に助けられたベータであつた。それゆゑに 2人は居留地から「すばらしい新世界」に連れてこられる。ここに於いて先の2人に共謀の目は完全になくなる。バーナードはジョンの世話役となつて皆の注目の的、以前の劣等感はなくなつたかのやうである。この物語がどのやうに構想されたのか私には知る由もないが、ジョンの登場により、作者は反乱よりも新世界 のすばらしさを述べることに重点を移したやうである。それを語るのが世界統制官ムスタファ・モンドである。支配階層アルファの頂点に位置する人物である。 たぶんハクスリーはこの2人の論争を書きたかつたのである。それによりユートピアのユートピアたる所以のものから、その反ユートピア性を際立たせたかつた のである。同じく全体主義を描くといつてもこれが決定的な違ひである。強固な大堤防もアリの小さな巣穴から崩壊は始まるやうに、いかなる独裁体制、全体主 義体制も必ずどこかからほころびてくる。ハクスリーはそれを信じないかのやうである。モンドの論理は完璧な独裁支配の論理である。しかも、モンドは禁書を 何冊も読破した後にさういふのである。ブラッドベリと違ふのは新世界が予め定められた階級社会であるといふこと、誰も異論をはさまず、疑問を持たず、唯々諾々として生かされてゐることである。反抗は基本的に無い。バーナードとヘルムホルツはその希少な例外であるが、最後は喜んで極地に送られていく。ここまで人を飼ひ慣らしてしまふ社会である。ジョンが違和感を抱かないはずがない。そこでジョンははかない抵抗をするのだが、最後は自ら縊死するしかない。基本的な思考のベースが違ふのである。これではなかなか物語にならない。どうしてもお説教になる。実際、モンドはジョンにお説教してゐるのである。ただし���理 解できないことを百も承知で説教してゐるのである。だからジョンを泳がせ、縊死させる。それが全体主義だと言へばそれまでである。ただ、それでも世界はまだそこまで進んでゐないことに安心はするのである。いかな中国や北朝鮮でも優生学のかくの如き利用法を知らないはずであるし、反体制的な動き、反抗がなくはないからである。この完璧な新世界、いつ実現するのであらうか。
投稿元:
レビューを見る
今らしい訳で、前世紀に書かれたとは思えなく読みやすい。古典を読むのが楽しくなりますね。
シェイクスピアの引用や対比がしつこく感じたが、ユートピアである新世界は生々しい怖さを感じさせる。
投稿元:
レビューを見る
1932年発表されたディストピア小説。工場での人間の生産、条件付け教育による社会階層の振り分け、フリーセックス、快楽薬などにより、誰もが不安を抱かなくなったユートピア。それに疑問を抱き始めた不穏分子達の末路を描く。
全体的に極端に描かれているのでシュールな劇を見ているようではあるが(シェイクスピアの引用が多いことがかなり効いている)、思ったより古さを感じず(訳のうまさのおかげだろう)、他人ごとでは済まされない話だと思った。特に日本を見ていると、ここまで極端ではないものの、着実に、大衆には見えない形で忍び寄るように、こうした社会に近づいている気がする。ただ、果たしてそれはユートピアなのかディストピアなのか。幸福を追求すべきだとするならば、ユートピアともとれる(日本はこの立場に近いと思う)。しかし科学的真理や芸術的感性を追求すべきだとするならば、あまりにも窮屈なディストピアだ(というより、窮屈さを感じることができなければ科学や芸術を押し進めようとは思わないだろう)。
私は後者だと感じたが、すると新たな疑問が浮かぶ。巻末の著者の解説を読むと、この小説では主人公が二つの選択肢しか与えられておらず、その妥協案が提示されていないというようなことが書いてある。しかしその妥協案の、謂わば希望の一縷の光のようなものが、作中に示されているような気がするのである。それは世界統制官や、彼の流された島じゃないだろうか。結局、真に理想的な社会というのは、一方で幸福な飼い犬のような人を量産し、一方でそういったところから漏れ出す人を満足させるための避難場所を用意しておく、といった構造をとるのではないか。しかし、そうなった場合、管理できる人と管理しきれない人、その両方を大きな存在(国など)が管理できてしまうということになる。つまり、一向に管理から逃れられない。
何だか、全くもって出口が見えない気分になった。
投稿元:
レビューを見る
すばらしい「社会」だ。だが、そんなに羨ましくはない世界である。
悩まず、苦しまず、悲しまず。ただ楽しさだけを追い求められる未来。こんな素敵な全体主義というのは、実際どうなんだろう。少なくとも『1984年』よりはましではあるが。
新世界の人びとは、社会の維持だけが目的となっている。しかも合理的に。ここにある非人間性を指摘して批判するのは簡単だ。シェイクスピアを持ち出せばよいわけだから。それに社会の維持は生物の本能でしょう。まあ、この世界は極端すぎるけど。
でも真に恐ろしいのは、そこではない。怖いのは画一化だ。違和感を違和感だと言えない恐怖。他人と違うことが当たり前でない恐怖。
みんな同じでいいじゃないか。すばらしい新世界へようこそ!
...私は嫌ですけどね。
投稿元:
レビューを見る
言うまでもなく、ディストピア小説の傑作。ハクスリーの洞察は、この本が書かれたのが1930年代であることを考えると、やはり驚異的である。マルクス、ウェーバー、フロイトあたりの思想のエッセンスが散りばめられている。いわゆるフォード主義の極致としてのユートピアであるところの新世界を描くことによって、フォード主義的な消費励行とウェーバー的官僚社会のゆきつく無思考と快楽の世界を批判的に描いている。スタビリティという「至高の善」に、世界統制官自身も没入することによって、そのイデオロギー装置は(実際にはあり得ないが)完全無欠となり、すべての人は幸福のうちに生・権力に従う。
フーコーはもはや存在しないと思う。生・権力による葛藤は、もはやバーナードやヘルムホルツなど一部の人たちだけのもの。イデオロギー装置は完全で、悩むことなどソーマによって打ち消される。
投稿元:
レビューを見る
主な内容はフォーディズム批判なのだが、その批判の本質はポストフォーディズムにも当てはまっていると思う。
世界統制官によるパターナリズムを、われわれはどう受け止めるのか。
完全な充足のなかで、わざわざ自由を、自分で選択する重責を求める意味は何か。「生かす権力」が、我々のまわりを包みつつある。そういった「パンとサーカス」をどう受け止めるのか。
労力を込めたものに、価値が宿る。そのことを忘れてないか。
投稿元:
レビューを見る
「ディストピア小説」と言うジャンルだそうだ。ユートピア小説の反意語で、このジャンルを代表する傑作らしい。
1932年の作品だと思えば凄い想像力なんだろう。西暦2540年のロンドン、世界は人口をコントロールし、子供は試験管(この小説では『壜』)で作り、更に遺伝子操作と睡眠療法で画一化された人格を形成し、労働者階級・知的生産階級・統制者階級にあらかじめ決められた人生を生きることが義務付けられる。(まさしくベルトコンベアーに乗せて!)
当時としては最先端の知識を駆使して描いているんだろうけど、描写が一々アナログな表現で却ってそれが面白い。
庶民の交通機関はヘリコプターが巾を利かし、空にはロケットが飛び交い、神は否定され、家族は否定され、快楽は肯定され(勿論フリーセックス!)、皆が合成麻薬を使用し、クラブ(ディスコ?)には人工楽器に依る合成音楽が流れる。しかししながら踊るダンスは社交ダンスのようであり、流れる音楽はスィングジャズのようであり、生演奏の楽器はサキソフォンならぬセクサフォンであり、映画は3Dを飛び越えて触感映画になっている。妙にチグハグだ。
あぁ、「すばらしい新世界」!
ところが、この新世界は穴だらけで統制が執れていない地区が未開地区として残っており、そこは自然世界を生きるほとんど原住民さながらの人々が残っている。また極端な設定だ。
ある偶然から未開地区に残された新世界の女が子供を産み、成長した子供が新世界に連れてこられるが全く順応出来ないのが後半の主題。
16章から18章にかけての世界統制官と未開地区から来た青年との対話が当時における鋭い文明批判になっているんだろけど、シェイクスピアからの引用が多く、日本人には(私には)ピンと来ない。「ブラックアウト」「オールクリア」を読んだ時も思ったんだけど、英国人はホントにシェイクスピアが好きだね。
最後は新世界に順応出来ない青年がロンドンを脱出するが、日常生活を見世物にされ(自分を鞭で打ったり、セックスを否定したり、文明と対比させるにしても、ちょっとエキセントリックすぎるのでは)笑いものにされ自死してしまう処で終わり。あぁ、悲しい「すばらしい新世界」!
投稿元:
レビューを見る
出産も遺伝子操作、教育も完全統制、感情も薬物統制された社会に、とある事件によって未開の地で育ったひとが入り込んで苦悩する物語。
こういうSFの場合、例え未開であっても人間的なシャカイデあるほうが素晴らしい、という結論になりがちですが、前半の完成された社会構造と、ソーマという薬物を読んでると、なんだかそういう社会のほうが幸せじゃないのかなねえ、て気分になる俺はきっと疲れてます。
投稿元:
レビューを見る
二十世紀を代表するディストピア小説のうちの一つ。刊行が1932年で、最後についてる「著者による新版への前書き」が1946年。ちっとも古びてないです、まるで今現在とこれからのことを風刺しているようで恐ろしくもありおぞましくもあり。もちろんディストピアSFとしておもしろく読める。光文社古典新訳の楽しみの一つ・充実の解説あとがきを読んだらもっと、ハクスリー読んでみたくなった。
投稿元:
レビューを見る
人間社会の本質を描こうとした作品と、私は読んだ。ありていに言えば、人間なんてこんなものとも読める。育つ環境により常識も変わってしまい、人のありようも当然変わる。
問題意思を持たないと、とんでもない世の中になってもそのことに気づきもしない。お気楽といえばお気楽で、それもまた是なりか。
作者の新版へのへの前書きにもあるが、ラストに関しては、違った書き方もあると思う。個人的には違った結末のものを読んでみたい。