紙の本
東洋の深層心理学
2008/12/23 12:25
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ベストビジネス書評 - この投稿者のレビュー一覧を見る
非常にすぐれた書籍。膨大な唯識書物を可能なかぎり容易に解説。特にトランスパーソナル、コスモロジーとの融合、西洋の深層心理との比較は極めてすぐれている。ただ唯識思想が、もともと難解なだけに、全体の編集、構成がすこしわかりにくく、今読んでるところが全体のどこなのかわかりずらいところが多々あった。大変な名作である。おごらず黙々と研究している著者の姿勢には心うたれる。
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わかりやすく唯識について書かれています。
生きるうえでの大切なことを考えるきっかけ、仏教への興味のきっかけになった一冊。
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仏教の深層心理を分かりやすくとく。フロイト、ユング、アドラー心理学、トランスパーソナル心理学等とも比較して仏教の深さがわかる。
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前書に続いて、唯識を学んでいます。
「迷いと悟りの違い」の解説はいいよね。
◆学んだところ
○迷いと悟りの違いってなに?
私たちの普段の見方
→「ばらばらからつながりを見る」(分別知→縁起の世界)
例)ばらばらに他人と分かれた私が、友達や仲間として、敵として関わる。
悟ったあとの見方
→「一つからつながりを見る」(真如の世界→縁起の世界)
確かに、普段の私たちは、分別知単独というよりも、分別知+縁起の世界で動いている。縁起といっても、自分の都合のいいつながりを見ているだけかもしれない? 真如→縁起の流れの中で見なければダメということ?
どころで、岡野氏の「普段の私たち」という言い方はいいよね。凡夫や衆生をそのまま使うとなにか偉そうに感じる。ちなみに、Wikipediaによると聖徳太子は、凡夫を「だだひと」とよんだそうだ。
「十七条憲法」の第十条
「われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」
(Wikipedia 凡夫)
○末那識の自己への執着を阿頼耶識の関係で見ると?
末那識は阿頼耶識から生まれたものでありながら、阿頼耶識を見るようになるのだといわれます。つまり、命の流れの世界を私という心の奥の思いが見たとき、それを「私の命」と見るのです。「命の流れ」を固定的な「私の命」と思ったとき、当然のことですが、そこにこだわりが始まるわけです。 (P185)
動いている宇宙の動いている部分としての私が仮にある私なのに、動かないようにしよう、固定しよう、固定した上でふくまらせ、太らせ、もうけさせていこうというような心が絶えず意識に湧いてきます。 (P186)
そうだ、無常ってダイナミックなんだから、宇宙の動きの中でどんどん変わっていいんだね。執着なんて必要ないし、無常だからそもそもできない。
分別知→自分だけでなく真如→自分があるのでは? 自分にこだわらない自分、真の自分? フロムのいう「中心における経験」「自分自身と一体化」、オットーの「世界と一体化したビックS(elf)」ということ? そして、華厳の「事々無礙法界」の自分?
○善意にも末那識が潜むってなに?
善意が、結局いつのまにか、さまざまな悲惨なことを生み出してしまうのはなぜか?・・・人間の心の奥に自分というものがあると思っている、そういうこだわりがあり、善をやるときでさえ、そのこだわりに基づいてやってしまうからなのです。 (P178)
善だからいいわけではないんだ。それが自分にこだわる煩悩なのか悟りなのかを見きわめる必要があるということなんだね。
○心を変えるにはどうするの?
本質的に私たちの心は実体ではなくて、種子の集まりとしてある。だから、種子の集まりの質をしだいに変えてゆき、やがては根本的に変えていくと、心自体が変わる。 (P193)
○煩悩の種子と悟りの種子はどちらが強いの?
悟りの種子の方が宇宙の真実に根ざしているから生命力が強いのです。 (P197)
○「一水四見」ってなに?
人間・・・水
天人・・・水晶の��
餓鬼・・・燃える膿の流れ
魚・・・住みか、世界