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ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」「幕間」はチェーホフ「ワーニャ伯父さん」と同じテーマを持ち、違った場所から同じ方向を見つめている、と私は思ったのだが、ここで丸谷才一はまず新古今から一つ引用することで全体のテーマを示し、またウルフ文章スタイルを使って、「ワーニャ」とは何か、チェーホフとは何か、という事を問い、描き出していく。
ウルフについて何一つ言及されないままに、透明人間のようにウルフ論にもなっているように、私には思える。
そしてまたそのチェーホフ論が素晴らしいのだ。
私は既存の、或いは本作より後発のチェーホフ論に全く飽きたらぬ気持ちでいたのだが、気の晴れる心地でもあった。
一般に、失墜した権威たる教授はおもに社会体制、即ち封建主義を象徴していると捉えられがちだが、それだけではチェーホフの散りばめたメッセージの殆どが空回りしてしまい、なんだかわからないが、まあ人生とは忍耐なんだな、としぶしぶ納得させられるような話にしかならない。
しかし教授が象徴するものが実は近代において無効となった信仰、神の死であり、神が死んだ後、我々は何のために生きていくのか、という事を考え、見つめた時、信仰でも神でもないけれど、漠然と見えてくるもの、いわば方程式のXとしての霊性・精神性を描いた話でもあるのだ。
それを見えにくくさせているのが、つまり本作でも語られている通り、チェーホフが医者であった事、或いは実際に無宗教、唯物的な考えの人でもあり、死後の世界や魂、霊的なものに対して全く関心が無かった様であったからだ。たとえばトルストイにスピリチュアルな話をされても共鳴することがなく、ただ怪訝に思うのみだったのだ。
ところが。
チェーホフの難しさ・解りにくさ、それはおもにここにあるのではないか。つまり、同時に反対の事を考えてしまう人なのである。そして判断を保留したまま、それを、読者にも多層的な、違う味のパイ皮の味として食べさせるのである。
チェーホフの作品の随所に、まるで作者の本意ではないかの如く、ほのあかりのように聖性・霊性が隠されてひかっているのは、そのせいなのである。そして、そのほのあかりがあるからこそチェーホフは、輝くのだ。
主人公はチェーホフについて、ワーニャについて意識の中で幾度も論じながら、たどりつく。
『おれは今チェーホフの本質をとらえた。ようやく』って、「灯台へ」のラストやん!と、笑いつつ呆れつつ楽しみつつ読んでいて、ついウルフとチェーホフ劇に気を取られていたら、最後はチェーホフの短編における必殺技「うっちゃり」が炸裂!!あまりのことに、嬉しくて悶えました。
しかしまあ、丸谷才一なんで、何となく筋的にも人物配置的にも文体的にも勿論そうとうユリシーズも入ってるみたいなんだけど、まだ読んでないので、そのへんはわかりません。はっは。