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「魔の山」と「こころ」。二つの名作の主人公が数十年の時を経て、おともだちになってしまうという実験的妄想ノベルも掲載。
過去に向き合いすぎなのも、いかがなものかと思うけど、過去に向き合わないと、語り継ぐべきものはない。自分が自分こそが語り継ぐべきものが何なのか判ったとき、初めて生きる意味が見つかるのじゃないか。妄想ノベルのラストの場面で、そんなふうに感じたり感じなかったり。
乾いた時代の迷える人々に。
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著者自身の創作部分が結構ボリュームがあって、思い入れの深さをかんじます。それがなくても、地の部分にキーワードとなるところがたくさんあって、心に響きました。すぐに読めちゃいましたが、心がへたったときにまた引っ張りだして、読み返したいです。
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『こころ』から、百年。 姜尚中が『続・こころ』を書く。
『こころ』と共に引用されるマンの『魔の山』。「死を生の一部分、その付属物、その神聖な条件と考えたり感じたりすること」という部分には、どう生きるか、考えさせられた。
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金曜日の仕事帰り、ちょっと寄り道した串焼き屋で、この本を手にぼんやり考えてみる。
著者は20世紀は心の病が発見された世紀である、としている。生きとし生けるものは何がなんでも生きようとするのが本能であるのに、自分から生きることをやめようとするのは不自然なことであり、そのような自殺が多発する現代は人類史を俯瞰するに大変不穏な時代である、と言う。その異常性は近代化と共に漱石の時代に始まったのだ、とするのが筆者の近現代観になっている。
しかし本当にそうだろうか。
心中という言葉が浄瑠璃と共に市民権を得たのは江戸時代のこと。そして支配者階級である武士には切腹を一種美化するカルチャーがあり、「こころ」の先生が自殺するきっかけとなった乃木希典の殉死も、江戸時代の武士たちの殉死・追い腹に起源を認めることができる。
「魔の山」で拳銃決闘に臨みながら自らの頭を撃ち抜いたナフタの思想的起源がどこにあるのかは知らない。少なくとも日本について言えば、死を美化する考え方は明治時代よりも寧ろ江戸時代に始まったと見ることができ、乃木の殉死も、例えばもう少し後の太宰治の情死のような事件も、前時代の残滓と見るのが妥当で、高度成長を経て高度に資本主義化した現代との連続性の方が寧ろ薄いのではないか。
などと考えに耽りながら、このような時間も筆者の推奨するところ、一種のダヴォス的な時間ではないかと考えてみる。人間には無駄と思える時間も必要。入社してから重役になるまで、30年間一直線で頑張れる人もいる。しかしそのような人ばかりでは会社も社会も成り立たないだろう。モラトリアムも心の成長の役に立つのだ、と。
つまるところ、筆者の憂鬱や危機感には過剰なものや必ずしも根拠が明確でないものもあるが、ダヴォス的な場所や時間は人間にとって必要なもの、という主張には深く同意できる。そう考えると、筆者手製の「こころ」「魔の山」の続編妄想ストーリーも、「過去を力に変え、心の実質を太くする」という本のオビも、ようやく私の心に落ちてきた。
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悩む力・続悩む力に続く第3弾的著作なのかなと。
ターゲットは大学生くらいの年代でしょうか、今回は一段と若者に向ける先生の熱意が感じられるようでした。
「心の力のようなものを探し続けることを、きっと『まじめ』というのだ」という第5章にあった言葉が響きました。
その通りだなぁとしみじみ思いました。
平易な言葉で現状の社会の空気とは違う生き方を提案されていますが、これもその通りと思いつつ、やはり若い人たちにはそのように生きようとするのは困難なことではないかなぁとも考えました。
それだけに先生の、若い人たちに潰れて欲しくないという願いのようなものが伝わってきます。
一番訴えたいのもこの章なのではないかと感じました。
創作が加わったことで独特のスタイルになっていますが、
先生が一番読んでほしいと願う年齢層はしかし、これを手に取るだろうか…とちょっと気になります。
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心を柔軟に
生きる上で選択肢はたくさん
悶々とした日々をすごすこともこころを太くすること
時代に合わせた心の柔軟性
失敗しても命まで奪われないという安心感のある社会
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「はじめに」にこうある。
すべてを投げ打って自らを告白する先生と、その告白を受け取る「私」。その「私」が過去をふり返りながら、亡き先生の秘密を語る「こころ」は、先生から「私」への、死者から生者への、心の相続でもあります。いまを生きる「私」は、いわば人生の謎に迫る「秘儀」を先生から授かり、それをしっかり受け継いで、次に語り継ぐため、先生について語り始めるのです。
この意味で死んでいった人々は、みんな先生といえるかもしれません。私たちは、こうした「秘儀伝授(イニシエーション)」を通じて心の実質を太くし、「心の力」を自覚できるのかもしれません。
ところが、これとは反対に、過去を見失い、「出会った人々」を見失い、ただひたすら未来を思い煩いながら現在という一瞬一瞬を生きている限り、心の力は見失われ、心は虚ろになっていくばかりではないでしょうか。
なるほど、過去を振り返らず、未来に向けて前向きに生きろ、そうした励ましの言葉は、耳に心地よく、肯定的なイメージを与えてくれるかもしれません。しかし、その肝心の未来そのものが、どうなるのか、皆目見当つかないのですから、不安にならないのが、不思議なくらいです。まだ「ある」とも言えない未来をあれこれ予測し、株価の乱高下のようなものに自らを託すとすれば、片時も落ち着いてはいられないはずです。
過去は意味がない、未来がすべてだ。
こうした時間にまつわる現代的な意識を逆転させて、むしろ確実に「ある」過去に目を向けさせ、そこから心の力の源へと遡る物語が、これから取り上げる夏目漱石の「こころ」であり、ドイツの作家、トーマス・マンの「魔の山」です。(10p)
ここに姜尚中の問題意識のすべてがある。著者がこの本を書く直接の動機は息子の「自死」をどう癒すか、ということだったと思うが、それを社会問題までに掘り下げようとしている処に特徴があるし、価値があると思う。著者は現代の右翼的潮流の中で第三の「戦後派」が台頭するのではないかと危惧する。第一のナチスの時と同じような右翼的若者の反乱である。
著者はこんな時代だからこそ、魔の山或いは先生の家のような、モラトリアムを実現させてくれる処が必要だと説く。それは、生産性はないが、いつ果てることない議論が出来、生涯の友を得る処である。
そしていつか「先生」という誰かを得て、決定的な一言「秘儀伝授」を受けるのである。不肖私には、その一言があったような気もするし、無かったような気もする。いや、いま現在がモラトリアムなのだから、これからあるのだと信じたい。
この本は、私のようなモラトリアム人間には勧められない。むしろ、時代と共に生きて潰された人(例えは、自殺を考えているような人)、或いはその人生を観て来た人に勧めたい。きっと何かの「秘儀」があると思う。その意味でこの「心の力」とは、誰もが体験する心ではなくて、非常に特殊な心だと思う。
2014年3月21日読了
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相変わらず姜尚中氏の本は難しい。
同じ時期に構想され、書かれた2つの傑作、夏目漱石の『こころ』とトーマス・マンの『魔の山』のそれぞれの主役、『私』と『ハンス』がその後どうなったのかを著者が想像し、その続編として『続、こころ』というタイトルで勝手に書いている。
元の2つの作品は、100年前、世界に大きな変化が生まれ人々の心が失われ始めた時代の『心』を描いている。
一方『続こころ』は、100年後の今の若者に向けられている。
グローバリゼーションによって世界中の人々の間で価値観が画一化し、代替案を持つことすら難しくなっている。
1つの価値観が崩れてしまうと立ち直ることも難しい。
そんな生きづらい時代を生きなければならない現代の若者に、真摯に心の力を身につけて欲しいと書かれた作品。
もし、『こころ』や『魔の山』を読んでいたらもっと面白く読めたかもしれない。
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夏目漱石の「心」とトマス・マンの「魔の山」同時期に日本とドイツで創作された小説を比較し、現代人の心の問題に切り込んでゆく。
高校時代にはこれらの作品をただ陰鬱な小説程度にしかとらえていなかったが、改めて読み直すと人生の一筋の希望を描いた作品なのかもしれない。
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「心をどう捉えるかについてはさまざまな考えがあるでしょうが、心は、自分が何者であり、自分がこれまでどんな人生を歩んできたのか、「そして、それから」どう生きようとするのかという、自分なりの自己理解と密接に結びついています。その意味で、心は、人生に意味を与える「物語」においてのみ、理解可能なのです。」
「これは、いくら意志堅固でも選択肢を持たない者は脆弱であり、軟弱なようでも選択肢を持っている者は頑強だということを象徴してあるのではないでしょうか。」
「私は、ハンス・カストルプの洗礼盤、河出育郎の万年筆が象徴しているような、受け継ぎ、さらに語り継いでいくものを、みなさんがしっかりと自分の手で握りしめてほしいと思います。そして、生きづらくても、生きづらくても、最後まで放り出さず、ぎりぎりまで踏ん張ってみてほしいのです。カストルプや河出のように。そして自分などトリエのない凡庸な、つまらない人間だなどと思い違いをしてほしくありません。なぜなら、カストルプと河出がそうであったように、人生のイニシエーションを受けながら、決して染まらず、まじめに生きつづけることにおいて、平凡さの中の偉大さを遺憾なく発揮していることになるのですから。」
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物質的に豊かでも心の貧しい国。
グローバル化が加速したことで、むしろ価値観の画一化が進んでいる。
それが、生き方の代替案(オルタナティヴ)を失わせる原因になっている。
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グローバリゼーションが進み、多様化が進むどころか、むしろ人びとの価値観が画一化し、「代替案」というものを考えられなくなったことです。(中略)たとえば、進学、就職、収入、社会活動、人間関係、恋愛、あるいは趣味や暮らし方……。どのような生き方が賢くて、どのような働き方が尊敬されて、どのような生活スタイルがカッコいいのおか。そうしたことについての価値観が異様なくらい画一的になっていて、それ以外のものを思いめぐらす想像力がないのです。一つの価値観しか持っていないと、それが崩れたときに逃げ場がないという恐ろしさがあります。(p.69)
語り継ぐということは、敷衍して言えば一人ひとりの死を無駄にしないこと、一つひとつの命をいとおしみ、あるいは、”隣人”の問題として考え。さらにその歴史をみなで共有することではないでしょうか。そうした態度が広がっていけば、いまの社会に蔓延している心の病や心の孤立、そして孤独な死のありようも変わっていくのではないでしょうか。(p.180)
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夏目漱石とトーマス・マンの作品を土台に、心の病、大切な人に先立たれた人々がどうやって死に向き会うかなどが述べられています。
人間の在り方は社会と切り離すことができないというところが個人的になにか諦めるきっかけになりました。
中に真面目であるから悩み、悩む力が蓄えられる、それが心の力の源流だと書いてありましたが、いつも何かを考え込む癖があるので、この言葉に救われた気がします。
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[ 内容 ]
ミリオンセラー『悩む力』と長編小説『心』の著者が、夏目漱石が一〇〇年前に書き残した最大の問題作に挑む。
登場人物“先生”の長大な遺書を収めた漱石の『こころ』は、なぜ多くの読者の感情を揺さぶってきたのか。
それは、この世に生きる者がみな、誰かに先立たれた存在だからだ。
「死にゆく人々は、みんな先生」という認識から見えてくるものとは?
漱石『こころ』とトーマス・マン『魔の山』の後日談を描いた実験的な小説も収録。
心の実質を太くする生き方を提唱した、新しいスタイルの物語人生論。
[ 目次 ]
第1章 現代という武器なき戦場
第2章 なぜ生きづらいのか
第3章 「魔の山(イニシエーション)」の力
第4章 真ん中でいこう
第5章 「語り継ぐ」ということ
終章 いまこそ「心の力」
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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凡庸といっても、ただの平凡ではなく、ハンス・カストルプ的な幅と深みと余裕のある偉大なる平凡の話が面白い。
「こうでなくても、あれがある。あれでなくても、これがある。」というようにオルタナティブ(代替案)が生きていく上で大切であることも知る。
この話とは別に著者の名前の尚中にはドイツ語で「偉大なる真ん中」という意味があるらしく、日本名の「鉄男」よりも気に入っているようだ。
夏目漱石の「こころ」とトーマス・マンの「魔の山」。
改めて読んでみたい。