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安富宝城は応永二十七年(一四二〇)には同荘の給主である東寺の僧覚勝院宣承にも三十貫文支払う契約を結び、合計百五十貫文を東寺に毎年納入することとなった。
この荘園の地頭方は新見氏という土着の国人が地頭であり、前々からその勢力が領家方にも及んでいたので、東寺では困っていたのだったが、宝城は契約額通り毎年きちんと約束の年貢を納めたので、東寺側では大いに安心して管理を宝城に任せていた。
ところが実は宝城は又代官を現地において荘内の百姓に色々の名目で重い課役をかけては儲けていたので、荘民の苦しみは大きく、逃散するものも少なくなかった。
たまたま応永三十三年(一四二六)十月、細川満元は腫物をわずらっだので、宝城は主君に安富家家伝の「抜き薬」(腫物の膿を抜く膏薬であろう)を進めたが、この薬をつけた満元はかえって容体が悪化して亡くなってしまった。
宝城はこの重大な過失のため、将軍義持の勘気を蒙り、申し訳ないといって高野山に籠った。
そこで東寺ではこの機会に新見荘に対する宝城の請負契約を解除して、寺家の直務(じきむ、直接管理)に移したいと思って、幕府の蔭の実力者三宝院満済(まんさい)に細川家へのとりなしを頼んだ。
しかし満済が「細川家は喪中でいろいろとたてこんでいるから、今そんな要求を持出すのはまずいだろう」と言って断ったので、東寺では交渉をあきらめて、時機を待つこととした。
本書は此処からの情勢を解説(東寺の記録保管すげえ)
東寺の態度がにえきらないので我慢できなくなった新見荘の百姓は、翌年四月代表を上洛させて東寺に訴状を提出し、安富宝城の非法の数々を訴え、
「早く罷免して貰いたい」と陳情した。
東寺は、満済にその訴状を披露して再びとりなしを依頼したが、やはり満済は承知しなかった。
宝城は前将軍義持の死とともに再び京都に戻ったらしく、この年、正長元年(一四二八)の末にも新見荘の代官職補仟を所望したが、翌丞早元年(一四二九)ごろからは、一族の安富筑後入道智安(ちあん)(はじめ筑後守)加代官職を受け継ぎ、やはり百五十貫で請負った。
智安は宝城と同様、京兆家の有力な内衆で、備中守護家の細川氏久の支配下にある備中国衙領(くにがりょう)の代官でもあった。
彼は宝城の子息かも知れないが、明らかでない。
備中守護家では明徳年間の初代満之以来、荘(しょう)・石川の両氏を守護代として備中の実務に当たらせていたが、時の守護氏久は国衙領を京兆家の内衆である安富氏に請負わせたのである。
この国衙領は新見荘の東西および南十里の間にわたり、年貢一万六千貫という広大な領地だった。
国衙政所は新見荘の隣の多治部(たじめ)郷にあり、智安はこの政所を拠点として、ここに又代官大橋某を常駐させて備中北部を支配し、そのかたわら新見荘をも支配したのである。
彼は初め十年間ばかりは契約通り百五十貫の年貢を東寺に納めたが、嘉吉元年(一四四一)からは毎年未納を重ねるようになった。
東寺からいくら催促しても���安は応じないばかりか、享徳元年(一四五二)から康正元年(一四五五)まで四ヶ年間のごときは鐚(びた)一文も納入しなかった。
嘉吉元年は将軍義教横死の年であり、その翌年は智安の主君細川管領家(京兆家)で持之が亡くなり、勝元が当主になった年だった。
ちょうどこのころから智安が急に新見荘の年貢を滞納するようになるのは、おそらく、もはや少々のことでは将軍家からも主君からもとがめられないと高をくくったためだろう。
だがもう一つの原因は、新見荘内の三職といわれる田所(やどころ)大田・公文(くもん)宮田・惣追捕使(そうついびし)福本などの地侍がほとんど安富の被官になったせいであったらしい。
東寺では長禄二年(一四五八)新見荘地頭方を領有する相国寺の本都寺(つうす)をひそかに代官としたが、そんなことでは荘内の地侍を手下にしてしまった智安に対抗できず、ほとんど何の効果もなかった。
長禄四年すなわち寛正元年(一四六〇)までに智安の未進額は二千二百貫余に上った。
嘉吉元年以来二十年間の年貢を僅かに三割足らずしか納入せず、七割以上も着服した勘定になる。
1461.8.3名主百姓の安富排斥運動(三識の大田➡金子衝)
しかしこの年の五月、備中守護細川氏久が亡くなり、その嫡子勝久が守護家を相続すると、智安はこれを機会に国衙領代官職を解任されて、同じく京兆家御内の薬師寺氏がその後任になった。
国衙領から安富の勢力が後退した機会を捉えた新見荘領家方の百姓は、早速安富の解任を東寺に要求したが、東寺は何の処置もしないので、彼らは寛正二年(一四六一)六月、安富の又代大橋に全面的に協力していた田所大田中務(おおたなかつかさ)を追い出すとともに、翌七月「新見庄御百姓等」と署名した申状(もうしじょう)を東寺に提出した。
それには「抑(そもそも)備中国新見荘の領家御方は、守護方の安富殿が知行しておりますが、去年御百姓等は直接寺家より御代官を下して御管理下さいと、しきりに申しました。
ところが、そうなさるうとせず、御代官を御下しなさらないのは、一向御領を御領ともおぼしめされないものと、歎かわしく存じます。」
と東寺の手ぬるさを非難し、
「かように御百姓らは寺家を寺家と存じ上げていますのに、寺家ではそのお計らいがなく、現在のように代官は誰でちょいと、別人に請負わせて、現地を手放されるなら、御百姓としては、なん年かかるうとも承知できないことです」
と安富のみならず請所そのものに反対して、寺家の直務支配を要求しでいる。
続いて八月にも名主(みょうしゅ)百姓四十一名の連署した同じ趣旨の三ヶ条の起請文(きしょうもん)を提出して、東寺に安富智安解任を迫った(東寺百合文書江)。
東寺は三職・名主百姓の強い要求に突き上げられて、ようやく智安のそれまでの契約違反を幕府に訴え、新見荘の直務支配を認めて貰いたいと願い出た。
時の管領は細川勝元だったが、さすがに安富智安の莫大な未進はまぎれもない事実なので、幕府は「請所をやめて直務にすることを保証する」という奉書を東寺に下した。
しかし一方管領勝元からは、やはり安富智安を代官にして欲しいと口入(くにゅう)してくる始末だった。
東寺では直務安堵の奉書を受けると、まず荘内状況視察の上使として、十月に寺僧祐政・祐深の二人を派遣した。
二人の上使が到着すると、公文宮田家高、惣追捕使福本盛吉と、地侍の金子衡氏(かなこひらうじ)が上使を歓迎し、全面的に荘内実情調査を助けた。
彼らは長年安富智安の被官になっていたが、六月以来、情勢の変化に敏感な対応を示し、名主百姓に同調して、安富の又代大橋に協力していた田所、大田中務の追出しに一役買った上、両上使に協力して、荘内における勢力維持を図ったのであり、ことに金子は、東寺から正式に田所職に補任してもらおうという下心から、一番熱心に両上使に協力した。
翌月、三職は両上使と連名で
「再び管領様(細川勝元)より安富智安を代官に御口入(斡旋)になったことは国許でも知れ渡っていますが、もし御承諾になるとしたら、三職ならびに名主百姓らの難儀はこの上もない事です。
万一、公方様(将軍義政)の御下知または管領様の御口入に屈して、智安なり別人なりを請所代官とする契約を結ばれるならば、荘民は一斉に逃散した上、一切東寺の御成敗に随わないという誓約を度々行なっていることを申し上げます。
国許のことは御安心なさってよろしい。
たとえ弓矢に訴えても敵を荘内へは立ち入らせない決心です。」
という注進状を、茹成・祐深の実情報告書とともに東寺に送った(東寺百合文書)。
智安は巻き返しを計って主君勝元に頼んで代官再任を運動するとともに、備中国衙領の国人らをそそのかして新見荘に乱入させ、実力でこの荘園を奪還しようとしきりに画策した。
しかし、三職・名主らは「三職・地下人等のIぞくうちよらば甲(よろい)の四五百もあるべし」という武装をととのえ、あくまでも阻止の決意を固めているし、安富方の頼みとしていた多治部・山本・福本・古屋らの国人たちも、智安か国街代官職をやめた以上、少しも安富方に協力しようとせず、逆に三職・名主側に内通して、智安が彼らに送った書状の文面をそっくり三職方へ知らせるという有様だったので、智安の画策は成功しなかった。
荘内の名主百姓が、これほど堅く団結して安富智安排斥を貫いたのは、智安とその又代官大橋の苛斂誅求ということもあるに違いないが、一つには東寺の直務代官のもとでなら年貢課役の減免が容易にできることを見越していたからにほかならなかった。
そのため、東寺が寛正四年(一四六三)祐清(ゆうせい)という寺僧を代官として派遣すると、名主百姓らは東寺の厳しい年貢公事取立てに反対し、結局、祐清か一番強硬な名主豊岡を追放するに至って、豊岡の仲間である地頭方名主の谷内・横見らはついに祐清を囲んで斬り殺してしまったのである。
智安が新見荘を抛棄しなければならなかっだのは、このような地侍化しつつある在地の有力名主のりIドする荘民の抵抗によるには違いないが、同時に智安自身にも支配の仕方に弱点があった。
彼は三十余年にわたって備中国衙領支配と新見荘支配を続けたにかかわらず、自分は現地に又代を派遣して郷村土着の国人たちから年貢を取り立てて、京都に送らせるという徴税請負人の立場に���足していて、少しも在地に根を下した本格的な封建支配を築き上げようとしなかったのである。
だからいったん智安が代官職をやめると、それまで安富被官と称していた国人たちも、一斉に彼から離れ去り、智安の再任運動に全然協力する動きを示さなかったのだった。
東寺代官祐清殺害事件
しかし智安は決して新見荘支配をあきらめきっだわけではないし、それより第一、この国の守護細川勝久や守護代荘・石川らは、新見荘に代官祐清殺害事件がおこると、守護の被官になっている新見荘地頭方代官多治部氏とともに犯人の谷内・横見らをかくまったのをはじめ、東寺支配の弱体に乗じて新見荘に支配力をのばすことに努めた。
東寺も寺僧を代官にすることは諦めて、本位田家盛という侍を代官に任命したが、翌寛正五年(一四六四)、守護勝久は管領勝元を通じて、安富氏または守護の被官新見氏などを請所代官にするようにと東寺に圧力をかけ、傍ら幕府から賦課した御譲位段銭を新見荘にもかけて、大勢の武士を従えた謎責使を荘内に入部させた。
こうして安富智安の巻き返し運動のほかに、守護細川勝久の被官になっている附近の国人新見氏・多治部氏などが、台頭してきた名主百姓を制圧しようとして、荘内進出の機会を伺い、情勢不穏の続くうちに京都で応仁の大乱が起こる。そのため、複雑な在地の対立をはらんでいた備中一帯はたちまち戦乱にまきこまれてゆくのである。